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【三国志】暴虐と言われた西涼の猛将、董卓を別の視点で見てみよう

2020年6月22日

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1: 2006/12/31(日) 14:02:34 ID:Dki/eEXM0
 董卓(生年不詳 – 初平3年(192年)4月23日)は東漢末期の武将。字は仲穎。董紹の子で、兄に董擢、弟
に董旻がいる。子の名は不明。隴西郡臨洮県の出身。若い頃より武芸に優れ、性は豪胆にして快活。軍人
となり、異民族の戦いなどで功を立て、勢力も拡大。霊帝没後、洛陽に入って献帝を擁立し、朝廷で権勢を
ほしいままにする。長安に移った後も専横を続けたが、養子の呂布に○された。

5: 2006/12/31(日) 20:07:49 ID:AGK+BCTy0

>>1を見て基本的なことを考える。

呂布が養子だったらどこか記録に「董布」という語句があっても良さそうなもんだが。
ググっても日本語のページは出てこない。

 

2: 2006/12/31(日) 19:44:37 ID:6ZnMCvuYO
異民族の血を引いていたとか聞いたけど本当のところはどうなんだろう?

 

6: 2006/12/31(日) 21:51:49 ID:VkC9ed+80
>>2
秦ですら異民族。

 

9: 2007/01/01(月) 15:47:35 ID:BsG5OiwH0
ちょっと実際以上に悪く言われているところがあるね、この人は。
多少はまじめに政治をやろうとしていたふしもあったようだし。

 

10: 2007/01/02(火) 00:05:07 ID:i8y5QgF+0
相国って、今までに誰が成ったんですか?

 

16: 2007/01/02(火) 15:20:10 ID:O8SaJtfJ0
>>10
相国についたのは、蕭何と曹参という建国の大功臣だけだったので、
それ以降、漢代を通じてみんな遠慮していた。永久欠番のような存在になっていた。
それを董卓はやっちゃったわけ。

 

12: 2007/01/02(火) 01:40:30 ID:sQgCPkgF0
悪事っていうけど遷都は曹操が献帝を許に移してるし皇帝の廃立なんかその後勝手に皇帝を僭称した奴等に比べればマシだし
陵墓暴きも専門の職を作った魏には劣るし
貨幣の偽造も経済の混乱をとめようとする政治だし
三国志の英雄なら誰でもやってることばっかなんだよな
トウタクに限ったことじゃないけど敗北者は実像異常に悪くかかれるからな

 

14: 2007/01/02(火) 11:34:15 ID:v6mzOWGL0
改革が急過ぎたよな。

 

15: 2007/01/02(火) 12:16:38 ID:iuuVYtjl0

ブレーンにしようとしてた清流派の連中にそっぽ向かれて
結局裏切られたって感じだね。この人。

まあ、清流派の連中にしても、辺境上がりの野蛮な軍人に
頭下げたくなかったんだろうけど。

 

21: 2007/01/04(木) 18:41:45 ID:ZpCwVxlz0
まあこういっちゃなんだが
所詮、戦上手なお山の大将でしかなかったような。

 

23: 2007/01/04(木) 23:41:57 ID:4eCPVGmN0
>>21
でも黄巾賊討伐には失敗しているよね。

 

24: 2007/01/05(金) 13:33:29 ID:r2t43b9l0
機知に富み、士卒の気持ちがわかる親分肌の人間であったらしい。

 

25: 2007/01/05(金) 13:59:55 ID:5v0z+TDa0
士卒の気持ちがわかったからこそ
涼州兵を野放しにして於いたんでしょ?

 

27: 2007/01/06(土) 14:11:06 ID:17GBGVst0
よく悪の董卓に対して、○された執金吾の丁原が善人化されるけど、
董卓の涼州兵が、西方の異民族を引き入れていたなら、
丁原も北方の異民族を引き入れていたわけで、普通に略奪もやっているね。
呂布からしてあれだし。

 

29: 2007/01/06(土) 23:55:05 ID:tbK0B4hv0

>>27
もし丁原が、董卓を○す側だったら、
丁原が暴政を敷いた三国志の悪役になったかもね。
羌が匈奴に代わるだけで。

 

 

32: 2007/01/07(日) 23:43:32 ID:oC9Op4Pf0
演義とかじゃ、悪の巨魁董卓に立ち向かう正義の執行者みたいな感じで描かれているのにね、丁原。
>>29のような場合だったら、董卓が悲劇のヒーロー、善人になっていたかもね。

 

38: 2007/01/17(水) 20:54:51 ID:MrIOV/aC0
>>32
リカクシみたいに「小者が足を引っ張り合った」風になるんじゃないの

 

46: 2007/01/26(金) 18:36:17 ID:fEyXJ+Pn0
>>38
李カクは外交手腕を発揮して、中華の三分の二を得た。
郭シは張遼よりも前に「百を以って万を討つ」の実践者、
小者は言い過ぎ。

 

31: 2007/01/07(日) 13:45:35 ID:gJ/WKUBy0
>>27
事実、丁原は何進暗○のドサクサで孟津を焼き払って略奪してたらしいよ
あれ?てことは一連の混乱の原因作ったのは丁原?

 

34: 2007/01/08(月) 18:36:28 ID:DXfOL84EO
この人自ら皇帝になるつもりだったのか、それとも漢朝を復興させようとしていたのかどっちなんだろ

 

36: 2007/01/09(火) 15:22:40 ID:4+a9Ykwc0
少なくとも最初の方は、まじめに政治をやろうとしていた節がある。
でも、清流派の人士は、董卓を野蛮人と見下して従わなかった。

 

37: 2007/01/17(水) 20:06:42 ID:1WO9lVP70
当時って、養子になっても姓は変わらなかったの?

 

39: 2007/01/17(水) 21:02:29 ID:aT+Uxr4k0
>>37
変わる

 

40: 2007/01/17(水) 21:27:36 ID:1WO9lVP70
>>39
じゃあなんで呂布は董布にならなかったの?

 

90: 2007/07/22(日) 17:23:20 ID:QpW2uasd0
>>40
結局、この矛盾を王允を突きつけられて呂布は○害を決意したそうな。

 

42: 2007/01/17(水) 22:58:23 ID:MrIOV/aC0
「とうふ」とかかなり弱そうだからな

 

43: 2007/01/17(水) 23:14:26 ID:1WO9lVP70

そもそも丁原の養子だったんだし、丁布じゃなきゃおかしかったんでは?

最終的に独立したせいで、登場時から呂布なのかな…

 

44: 2007/01/18(木) 00:24:11 ID:lLUiGB9d0
実際は名乗っていたのかも

 

50: 2007/03/03(土) 17:32:47 ID:HDfYMP950
董卓は真実の姿を随分ねじ曲げられたキャラだろう
乱世でここまでのし上がってくるのはただの馬○ではない
それなりのカリスマもあっただろうし実際良い政治をしようとした跡もある
朝廷の守旧派から田舎者として蔑まされ思い通りの政治ができなかったんだろうな

 

52: 2007/03/14(水) 23:02:39 ID:AfLa1Gt70
>>50
清流気取りの名士たちから馬○にされて、
ぶち切れたんじゃないかと……

 

53: 2007/03/15(木) 23:16:55 ID:ye4HDfh70

清流派が非協力的だから圧政で締め付けたのだろうか

董卓タヒ後も
董承だったか董昭だったか・・一族の者は宮廷に使えていたらしいが

 

55: 2007/04/09(月) 10:57:40 ID:pOag7Fkq0
一般的に有名な董承とは別に、
董卓の親族にも同姓同名の別人がいたはず。

 

56: 2007/04/09(月) 12:24:45 ID:QHc2VgO9O
それ同一人物

 

57: 2007/04/11(水) 01:07:20 ID:Y1I2V+J+0
違うという説もあるでしょ
でなきゃタヒは免れてない

 

58: 2007/04/11(水) 21:01:14 ID:e44wusui0

一般的に有名な董承は、董卓配下だぞ。
でも、董卓暗○時は李カクらと牛輔の指揮下にいた。

董承が皇族の姻戚になったのは、献帝が曹操に奉戴されてから。

 

59: 2007/04/12(木) 02:00:39 ID:K9UmPke0O
後漢書董卓伝を見る限り、娘を貴人とし曹操を排除しようとして失敗した董承は、董卓時代に牛輔の部曲にいた董承と同一人物。
別人はまずあり得ない。
その董承が董太后の親戚の可能性は極めて低いが、董卓と同族の可能性は高い。
董卓が董太后の同族を称していたから、董承も便乗していたのではないだろうか。

 

63: 2007/04/16(月) 08:05:41 ID:8ZHDe8sA0

最初トップクラスの地位にいたのは楊奉・韓暹・張楊だがな。
董承はそこで曹操を呼び寄せて、その三人を蹴落とした。
そこから董承は衛将軍とか車騎将軍とか昇進を始める。

でも考えてみれば曹操は正真正銘の逆賊で、
朝廷としては勤皇の袁術派と結んでおきたかったんだから、
朝廷に対する裏切り行為なんだよな。
(楊奉・韓暹が政治に干渉してくるのを嫌ったとあるが、
車騎の楊奉と大将軍の韓暹は政治に干渉して然るべき地位だし)
そして、曹操が専横すると今度は曹操を○そうとして返り討ち。

袁譚レベルの節操の無さと浅はかさだと思うんだが。

 

64: 2007/04/16(月) 08:48:16 ID:Bn2UAgopO

>>63
三国志董昭伝だと楊奉が曹操受け入れに積極的だったように見えるけどこのあたりどうなんだろうね

しかし勤皇と言っても、傀儡としていた点では董卓、李カク、張・楊・韓、袁術、曹操みな変わらないと思うんだけどね
権威を利用する以上は今の皇帝を認めるしかない、という程度の「勤皇」でしかないんじゃないのかね

それと、より強い宿主を探して離反やクーデターを繰り返すってのも王允だって曹操だってやったことで、董承がことさら節操が無いとは言えないんじゃないかな

 

80: 2007/07/18(水) 15:07:59 ID:vIZiD6zC0

814 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/08/13(土) 15:54:51
董卓演義
1巻、董卓の生い立ちと異民族との馴れ合い
北方の異民族たちとの遊侠ドラマ。リカク、カクシ達との出会い。

2巻、異民族との戦いと黄巾の乱
北方の異民族達との戦い、三顧の礼で李儒を迎える、漢王朝の崩壊。

3巻、董卓の上洛と呂布の登場
董卓の天下取り、王允との出会い、第2の主人公呂布の登場

4巻、反董卓連合と連環の計
董卓の精神崩壊、華雄のタヒ、董卓軍武将の活躍、宿敵孫堅のタヒ、連環の計

5巻、李カクの復讐と呂布の逃亡
董卓のタヒ、李カクの復讐、王允のタヒ、呂布の転戦

6巻、徐州の争奪と張繍の抵抗
劉備との出会い、張繍とカクの曹操との戦い

7巻、僭帝との争乱と呂布の最期
猿術との戦い、呂布の最後、エンディング

 

82: 2007/07/18(水) 23:02:46 ID:+2z9mIWX0
>>80
後半をいかに魅力的に描くかが鍵だな。

 

83: 2007/07/19(木) 12:09:45 ID:UqrezopO0
>>80
董卓の三顧の礼ってお礼参りみたいで恐そうだな

 

85: 2007/07/20(金) 09:31:01 ID:1Z7p5ZkJ0
項羽の刀ひろったんでしょ、この人

 

87: 2007/07/21(土) 19:40:40 ID:dcPZOMcs0
>>85
民間伝承?kwsk

 

89: 2007/07/21(土) 23:52:02 ID:rfYQJZH1O
>>87
横レスだが、三国志集解にあった話の筈。
拾った(というか掘り出した)剣を蔡ヨウが鑑定して
項羽の剣と言ったんだとか。

 

91: 2007/07/22(日) 18:10:55 ID:b9tVNCuR0
トウタクのやったことで一番なぞなのがなんでわざわざ「操りやすい無能な」少帝を廃して「聡明な」献帝を擁したのか

 

92: 2007/07/22(日) 18:20:57 ID:wNeBwebI0
>>91
傀儡なんだから能力はそもそも問題じゃない。「聡明」なんてのは擁立するときの名目に過ぎないから。
少帝は宦官と何太后が擁立した状態だから、反宦官を標榜し宦官を滅ぼした清流派の官僚たちの支持を得るにはそうでない皇帝を擁立する必要があった。
それが献帝だっただけだよ。

 

93: 2007/08/05(日) 14:18:23 ID:udPkBF0Z0
董卓は何故か王允を粛清しなかったよな

 

94: 2007/08/05(日) 14:21:13 ID:5GI6aNRY0
>>93
協力者だもん

 

95: 2007/08/05(日) 19:13:41 ID:a0Q2ucF20
王允って何気に汚い奴?

 

96: 2007/08/05(日) 20:22:37 ID:TmutqHmK0
>>95
多分一般的認識では汚くないと思う。

 

104: 2007/09/17(月) 21:25:25 ID:vHTTPsXzO
董卓は桓帝期最後の年(167)に羽林郎になってる。
羽林郎は若者しかなれなかったと思うけど…。
この若者、というのを仮に20歳前後と規定すると霊帝崩御の年(189)には42歳前後ということになる。
しかしそうなると董卓の母は高齢出産になるし、
15に満たない(ということは少なくとも10以上か?不明)孫がいたというが、
この歳でそんな歳の孫がいるわけがないだろう。
ということは「若者」の規定を改めるべきなのか。

 

107: 2007/09/21(金) 20:49:25 ID:aXxA91cY0
>>104
董卓は出身がちょっと特殊だし、20代後半ぐらいであった可能性も十分にあるのでは?

 

108: 2007/09/21(金) 21:47:38 ID:t46Jy5kHO
>>107
羽林郎は「隴西、天水、安定、北地、上、西河の六郡の良家(由緒ある家門ってことね)の若者」がなった。
董卓はこの条件を満たしており、かつ武芸に秀でていたため羽林郎に任命された。
私は浅学なので、董卓の出身がどうして
「20代後半で任命された可能性」を示唆するものになるのかわからない。
俺としても「可能性」を否定するわけではないが、なぜその理由なのか疑問に残る。

 

105: 2007/09/17(月) 21:37:48 ID:AuLbay7k0
洛陽を破壊した時に公主やら宮女やらを姦略してるわけだが、
はたしてこれに董卓本人が加わっていたのかどうか。
おそらく史料から察するに50は越えていたと思われる董卓がそこまでビンビンでいられるのかという疑問がある。
或はやはり母親の高齢出産で、40代だったのかもしれない。

 

106: 2007/09/18(火) 01:29:29 ID:nVrcEjzG0

老いて尚壮健って言葉を忘れずに

ぱっと思いつくだけでも劉邦とか
咸陽入城後、真っ先に女に襲い掛かってるし

 

110: 2007/09/22(土) 01:17:11 ID:IkEEaw150
三国志や後漢書には董卓は精兵を率いているという記述が多いわけだけど、
実際は、黄巾の乱の平定に際してはかなり負けてるよな?勝ったという記録より負けた記録の方が多い。
なぜ負けた?

 

111: 2007/09/22(土) 08:56:02 ID:kJYZnxWk0

1、単に董卓の将としての力量が低かった
2、騎馬民族相手とは勝手が違った
3、黄巾討伐の時に率いていたのは董卓の私兵ではなかった
4、はなからやる気が無く真面目に戦わなかった

理由としてはこんなところか

 

115: 2007/10/04(木) 17:47:49 ID:GNWiDQ/M0
董卓は有能な人物を任用してるが、結局のところは漢を滅ぼした後の自己の基盤作りだもんね。
だとすると、やっぱり散々言われてきた通り、「残虐無比」な人間という評価が妥当だな。

 

116: 2007/11/07(水) 07:34:23 ID:vAflAFCD0
吉川英治の三国志は54歳でタヒんだとしているが、母親が90歳ということを考えると当時としては不自然だな。
プラス5~10歳ぐらいするいいかも。

 

124: 2007/11/19(月) 01:27:07 ID:roGv5Wc80
>>116
父親の董君雅が潁川輪氏の尉の時に潁で生まれた次男だから董卓の字が仲潁なわけじゃん?
普通、人の官位を言う時、細かく経歴を言う場合でもないと最終官位で呼ぶわけだけど
董君雅の場合、何見ても尉までしか見られないんだよね
栄達してやっと出来た子という可能性もなきにしもあらず
その場合、父親も母親も結構年齢がいってても不自然じゃない

 

118: 2007/11/09(金) 22:03:48 ID:hFP7RbxyO
若い頃は気前が良く優しかったと聞いたが…

 

121: 2007/11/11(日) 12:13:24 ID:Vr19iOdm0

>>118
そういう所はあったんじゃないかな。
実際、考えてみたんだが董卓の場合
混乱する時期に権力を手に入れ、それを維持するには
なかなか難しくて恐怖政治しか、彼には選択がなかったのかもしれん。

甘い所見せれば、漢臣連中から総スカンくらって都落ちしそうだしな。
彼が無欲ならともかく、権力を維持するには
恐怖政治しか方法がなかったというのは、気にせいだろうか。

誰か、考えてみてくれ。

 

122: 2007/11/16(金) 16:48:29 ID:uIyya3Cm0

まあ、恐怖政治しかなかったかもな。
それにしても暴虐やりすぎの感はあるw
何処までが真実なのかは不明だが、明らかにやりすぎだったのだろう。

自分の城築いて、金銀・食料を溜め込んでるなど
すでに曹操と器が違いすぎる。

曹操は時代によって高評価されたりしてるが、
この人の評価は、タイムマシンでもって証明でもしないと
永久にダメだろw

 

123: 2007/11/17(土) 12:53:47 ID:PNH+TnkI0
資料が少なすぎるしな

 

142: 2008/10/15(水) 18:29:43 ID:dxkFLaUA0
董卓が滅茶苦茶になったのは、当時の漢王朝の「儒教思想」があったからだと
思うが?なぜなら儒教思想では、「家柄」「外見」「忠孝」の3つが重んじられていたからだ。
さしずめ董卓などは漢朝の官僚らから見れば、「どこの馬の骨とも分からない奴」
「見た目が醜いから、中身も醜いだろう」等、言われて舐めた目で見られていたからであろう。
その事に対して、董卓は激怒し、滅茶苦茶な行いをするようになったのだと思われる。

 

143: 2008/10/15(水) 19:52:23 ID:uyGMRRfh0
>どこの馬の骨とも分からない奴
父の董君雅は潁川輪氏の尉で立派な役人
どこの馬の骨とも判らないってわけじゃあないよ
しかも董卓を中央政界に引き込んだのは袁隗
他ならぬ清流派の中心人物の一人

 

144: 2008/10/15(水) 20:06:23 ID:dxkFLaUA0
すんません。私の知識が浅はかでした。でも、少なくとも清流派の中には
董卓の事を、たかが辺境の一将軍とみて、軽んじてる輩もいたのでは?

 

145: 2008/10/21(火) 02:49:02 ID:WnxgBfSlO
それなりに信用してたであろう袁紹に逃げられてからおかしくなったような気がする

 

148: 2008/10/22(水) 16:53:39 ID:UAW1mSDp0
国を立て直そうとしたというより、
恩義ある袁隗を立てたんじゃないかな。
そうやって、袁家に力いっぱい配慮していたのに、
袁紹に逃げられて逆ギレしたんだと思う。

 

152: 2008/10/29(水) 22:22:24 ID:pU85QY1o0
実際董卓が○された本当の理由は「呂布が身の危険を感じ、そこを王允等につけ込まれた
」からだと思われる。正史にも「董卓は呂布に戟を投げつけた」とか、「呂布は董卓の侍女と
密通し、それが発覚するのを恐れていた」とも書かれてある。その事を王允に相談すると、
王允は、士孫瑞らとともに董卓暗○計画を練っていたので、その呂布の話を利用し、
呂布に董卓暗○をそそのかし、味方に引き入れ、董卓を○したものと思われる。

 

153: 2008/10/30(木) 00:23:18 ID:T3IMec360
>>152
味方に引き入れっていうが元々王允と呂布は同じヘイ州出身で味方同士だぞ

 

154: 2008/10/31(金) 01:15:43 ID:AuFI6f0/0
>>153
それを味方というのはどうよ
三人が特に関係のない朝臣同士だったならともかく、
呂布は董卓の億の間に出入り出来るほどの「侍臣」だぞ

 

159: 2008/11/01(土) 20:15:25 ID:N8MkmwYY0
>>156
王允の理由は別でしょ

 

155: 2008/10/31(金) 03:58:30 ID:gGlwD/G/O
貨幣改鋳してハイパーインフレを起こした
虐○を頻繁に行う
子飼いの連中を厚遇するようになって清流派名士を蔑ろに
それ以外にも過去の少帝廃位とそれに伴う強引な改元とかやってる独裁者を除こうとするやつは沢山いるだろ
実際失敗した荀ユウ達の董卓暗○計画とかあるんだし

 

159: 2008/11/01(土) 20:15:25 ID:N8MkmwYY0
>>156
王允の理由は別でしょ

 

159: 2008/11/01(土) 20:15:25 ID:N8MkmwYY0
>>155みたいな理由で董卓を○そうとしてる連中は投獄された荀攸達以外にも多くいたみたいだから
董卓をどうにかしないと、もしも董卓が○された場合はずっと董卓政権の中枢にいた自分も責任取らされるって王允は考えたはず
そんなときに同郷で董卓軍閥の呂布が董卓を恨んでるってのを知って、呂布を引き込んで董卓暗○に踏み切ったんだと思う
董卓の悪政を正そうって考えがあるなら蔡邕みたいに諌言してるはず

 

161: 2008/11/04(火) 08:29:19 ID:aMuArLnH0
要は王允は後世の史家達に董卓の重鎮・片腕の様に書かれるのが嫌だったのだろう。
もちろん漢朝を救うという意味もあったのだと思うが。

 

162: 2008/11/04(火) 08:38:30 ID:Euiu+Zw60
>>161
ちゃんと調べろよ
王允がどんだけ奸物だったか調べりゃ分かるよ

 

169: 2008/12/03(水) 19:18:45 ID:INEbdJoT0
>>162
とりあえず董卓タヒ後の事後処理とかみてると
忠臣なんかなじゃなくて
既得権益侵されたくないand董卓と共倒れは勘弁って理由で
謀叛起こしたのはわかるが他に奸物エピソードあるの?

 

170: 2008/12/04(木) 13:43:47 ID:K6W4sAay0
>>169
その事後処理が悪辣

 

171: 2008/12/05(金) 11:00:43 ID:HUONm1qb0
涼州出身で固められた董卓の部曲を赦すか赦さないかなど、
他の情勢と比べて為される政治的判断に過ぎないよ。
官位では最高で牛輔の中郎将でしかない。
董卓を誅した以上、その部曲をも排除するという選択肢は普通にありえる。
呂布らはその武力を警戒して敵に回すなと言った。
王允は完全排除を目論み、失敗した。
それだけだ。

 

172: 2008/12/06(土) 10:23:25 ID:wFhZ+UFC0
>>171
そこじゃない
自分が董卓に阿った王允が政権奪取後は
自分以外の董卓に阿った奴の大半を鏖にしたりしてるのが悪辣

 

196: 2009/02/18(水) 21:59:39 ID:xv5en3R/0

http://chinesegarden.jp/china/totaku.html#TK10
>戦闘のプロフェッショナルである孫堅軍以外での戦闘では董卓軍が連戦連勝。
>雅な生活から地方の反乱は討伐部隊に任せっきりであった袁紹以下旧後漢勢力が
>勝てる相手ではなかったとは史書が記すとおり

これってマジ?どっからの引用だろうか。
これの前の文章に
>董卓はなんども涼州の精鋭相手に戦闘を起こしているが、
>董卓軍と涼州軍、両者の間では本気の○しあいが行われることがほとんどなかった
>(中略)董卓出撃とあわせて涼州軍が上手い具合に撤退するという一見すると八百長試合を繰り返していたのである。
とあるが、これが本当だとすれば八百長試合になれきった董卓軍が
反董卓連合軍と比べて戦慣れしていたとはとうてい考えられないのだけど・・・・・

董卓軍は反董卓連合軍に圧勝していたのか?
董卓軍は何度も涼州と八百長していたのか?
その根拠は何処に?

 

 

202: 2009/02/20(金) 21:03:18 ID:h5mfo5uE0

徐栄が孫堅を破ったのは190年。遷都自体はこの年。
洛陽周辺で焦土作戦を取るが、董卓自身は洛陽に留まる。

翌191年、体勢を立て直した孫堅は胡軫と呂布を破って洛陽に迫り、
董卓と会戦、撃破して洛陽に入城する。董卓は黽池まで退き、後に長安へ撤収する。

二つの董卓伝と孫堅伝を総合する限りでは、こんな感じ。
遷都は防御の縦深を取るためだろう。まして焦土にされたあとでは、
仮に討伐軍全軍が本気出して洛陽まで進出したとしても、兵站に負担がかかりすぎて
長安まで攻めることは難しくなる。現に孫堅も洛陽を保持できなかった。

記録に残る限り、董卓軍にまともに勝てたのは確かに孫堅だけだね。
>>196のリンクの書き方は、まあwikipediaなどなら即修正ものだが
個人のサイトなら構わんのじゃないかな。

 

197: 2009/02/18(水) 22:52:54 ID:/0+fBmmW0
徐栄が曹操・孫権を破り、
李カクが朱儁を破ってたはず。

 

199: 2009/02/19(木) 00:10:18 ID:Dg3a0f1R0

>>197
徐栄が破ったのは曹操だけでは?

>徐栄が曹操・孫権を破り
その出典はどこだろうか。

“董卓の部将徐栄と遭遇し、これと戦闘になって敗北"
(http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei1-1;lang=Jp;option=HrHc)
と正史の魏志1巻曹操伝にあるが、ここに記されてるのはあくまで曹操だけであって
孫堅を打ち破ったとは書いてないんだよね。

ちなみに孫堅伝だと孫堅軍は一度董卓の総攻撃の前に敗れた後、陽人での戦で
華雄を討ち取るなど大勝。これから董卓は孫堅を恐れて長安に遷都・・・・・

これでいくと
徐栄が孫堅をやっつけたことがあったにしろ無かったにしろ
董卓のとっつぁんは一敗にビビッテ遷都したチキンということになってしまうのかな

 

200: 2009/02/19(木) 00:28:21 ID:6kkfcJ5c0
>>199
ビビってというか董卓視点では連合軍は一枚岩に見えなくもないから
大事を取って遷都したってことだろう
また、一枚岩をこの遷都でバラす意図もあったと見ていい

 

201: 2009/02/19(木) 00:47:33 ID:2C7Mc/U50

>>199
後漢書董卓伝より。
190年。
各地で略奪を働いていた徐栄を討つために、
孫堅が予州兵を率いて出陣する。
梁県で遭遇戦となり、徐栄は孫堅軍を撃破した。

同じ時期に董卓軍の胡軫・呂布・葉雄が孫堅に敗北している。
場所も同じ梁県。どっちが先かは不明。

曹操に関しては貴方の言ったとおり。

 

203: 2009/02/20(金) 22:33:41 ID:LlR1kIho0
遷都って河東にまで及んでいたという白波賊の影響はないんだろうか
史料じゃ十万余なんて勢いで荒らしまわってたみたいで、牛輔を差し向けても
駆逐できなかった様だけど

 

204: 2009/02/20(金) 22:45:39 ID:h5mfo5uE0
と言って、関中は関中で韓遂・馬騰を始めとした軍閥が蜂起しているから、その見方はあんまり意味が無いんじゃない
白波賊の患よりも、現実の脅威としてそのとき河内には袁紹と王匡が進出しているわけだから

 

219: 2011/04/19(火) 13:39:46.33 ID:xZQKDSs/0
董卓の遷都の目的は、長安のほうが周りを要害に囲まれていて、
また涼州に近かったから?

 

220: 2011/04/21(木) 16:20:24.61 ID:1pcoOsLM0

馬騰を警戒したから

というのはまずありえない

 

222: 2011/05/09(月) 16:54:31.10 ID:dSYsfwZb0
実際本拠に近かったから、というのはあるだろうね
洛陽の董卓は実際はそれほど多数の兵を抱えていなかったとされる
そんな状況で袁紹が皇帝がいる都市への攻撃を躊躇しない態度を見せたから
これは蛮行であり、他の諸侯もそこまでする事は考えていなかった

 

223: 2011/05/10(火) 15:34:18.10 ID:5BbrVbDT0

逆に馬騰と韓遂から要請があったみたいな話しもある

関西で警戒する相手がいたのだとしたらコウホ嵩だろうな

 

224: 2011/05/14(土) 14:01:53.68 ID:LyhAIPfj0
孫堅軍に洛陽を脅かされたのに相当びびったのと
その前に皇甫嵩を軍と切り離して呼び寄せたから
関中が空いたっていうのがあるんじゃね

 

225: 2011/05/18(水) 14:09:19.25 ID:VU7n6CPF0
長安に遷都する方がメリット多いんだろ。

 

226: 2011/05/18(水) 20:11:22.99 ID:jGvrySR3O
>>225
そのメリットを聞いてんだろ?

 

229: 2011/07/17(日) 20:37:05.46 ID:n1Gu2+Xa0
>>226
長安は涼州に近い。
涼州兵は若者を補充し易くなる。
逆に丁原から奪った并州兵は根拠地が遠くなって、弱体化する。
自分に忠実な涼州兵の割合を増やしたほうが董卓に有利。

 

233: 2012/09/15(土) 20:34:27.80 ID:kVRNcl+X0

董卓

董旻 董璜 李儒

呂布 李粛

李確 李暹 李別 宋果 楊奉 左霊

郭汜 伍習 崔勇

張済 張繍 張先 胡車児 賈詡

樊稠 王方 李蒙

徐栄

華雄 趙岑 胡軫

牛輔 胡赤児

盧植 皇甫嵩 朱儁

王允 黄琬 伍瓊 蔡邕 華歆 許靖 鍾繇 司馬朗 荀爽

楊彪 楊密

董承 王子服 呉碩 呉子蘭

楊琦 王昌 尚弘

董卓自身の軍勢に加えて後漢の臣までいるという魅力的な勢力
それが董卓軍

 

235: 2012/09/22(土) 07:10:58.53 ID:WLnjBrOP0
>>233
楊定と段煨と裴茂も追加で

 

242: 2018/01/25(木) 19:04:31.45 ID:z3K+z5+Y0
相国大師なんだよね
そうこくたいし

 

 

引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167541354/

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