【佐賀】吉野ヶ里遺跡『謎のエリア』発掘現場を特別公開 新たな墓発見も [すりみ★]
5月3日に公開されたのは、吉野ヶ里遺跡の中でも神社の敷地があったために発掘調査ができず、『謎のエリア』と呼ばれてきた区域です。
佐賀県は去年、10年ぶりに発掘を再開し、『かめ』や『つぼ』に人骨が入った『かめ棺墓』や、青銅で作られた重りが出土しています。
《中略》
佐賀県の担当者は、「いましか見ることができない貴重な発掘の様子を見に来てほしい」と話していました。
吉野ヶ里遺跡のゴールデンウイーク特別公開は、5月7日まで行われます。
全文、動画はソース元でご覧ください
FBS福岡放送|2023.05.03 19:09
https://www.fbs.co.jp/news/sp/news96c5t46cics0876yd0.html
※関連ソース
吉野ヶ里遺跡公園|ナゾホルよしのがり|吉野ヶ里遺跡の発掘現場を特別公開します!
https://yoshinogari.fun/news/%e5%90%89%e9%87%8e%e3%83%b6%e9%87%8c%e9%81%ba%e8%b7%a1%e3%81%ae%e7%99%ba%e6%8e%98%e7%8f%be%e5%a0%b4%e3%82%92%e7%89%b9%e5%88%a5%e5%85%ac%e9%96%8b%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%99%ef%bc%81/
伊都国は糸島だから福岡県
何か出たという報道はコレと言って聞いたことないけど、新発見はなかったのかな?
発掘自体に時間と経費がかかる
去年から発掘を始めたばっかりなのは知ってる
元々吉野ケ里の中に神社があって、そこだけ発掘できていなかったところ
神社が移転することになって、渡りに船で発掘ができるようになったこともな
今回わざわざ特別公開するってニュースなわけだけど、それに見合うような何かが出たという話を聞かないから、どういう事だという問い
全然経緯も何もわかってないんじゃないのか?
神社があった跡地だから可能性は高い
邪馬台国と大和朝廷はまた別物なのかもね
九州説における邪馬台国王都候補地って何処だっけ?
佐賀の吉野ヶ里遺跡とかじゃないの
結局特定されてない(できていない)のねw
候補地がハッキリしない状況じゃ、大和説の優位性は揺るがないどころか、本来論争の舞台にも立てない筈
考古学はモノが全てだからな
邪馬台国=女王の都を王都と考えること自体間違いかもしれない
卑弥呼は豪族達に祭り上げられた神輿に過ぎないので恐らく卑弥呼よりその豪族達の方がよっぽど良い暮らしをしてた
個人的な推測としては祈祷の中心地は恐らく阿蘇山なので巫女の首長としてその近くに拠点を構えてた可能性はあるかなとは考えてる
筑後平野一帯だろ
海岸線は現在よりもずっと内陸部にあったけれども、同時代の畿内の土人集落と比較したら、ずっと広大だったのは間違いない
今の筑後・筑紫平野だけでは無く耶馬溪方面(大分県側)に勢力範囲を拡大してたんじゃと俺は予想してる。
筆や硯が出たりとかすれば邪馬台国云々抜きでも
凄いんでないの
この時代にあって然るべきなのに、出てきてない木簡・竹簡や木牘・竹牘が出るといいな
文字があり書簡のやり取りをしてるはずなのに、文書資料がまったく出てきてない
木簡・竹簡は現代まで持つので、実在してたらそろそろ出てこないとおかしい
これまで出土した硯(だとしてるただの平たい石)が本物であれば、その対になるもののも出て然るべき
嘘が残りにくく、信頼性のある考えを受け継げる
文字で残そうとするから、正しい歴史や伝承が途切れる
歴史書の類ならそうかもしれないが、木簡・竹簡の類は荷札であったりの事務的な記録が多い
何年何月に何処そこから何をこれだけ持ってきた。といった事務的なもの
しかしそれが現代人にとっては重要な資料になる
年号や地名、産物どれも一級の資料
徴税をしていたのなら、こう言った文書記録は必ず存在したはず
だから群れて魏に泣きついた
小国でも度胸と渡海技術があれば大国にコンタクト可能
大国だよ
今の西日本のザックリ半分を配下に置いてた
うまい具合に、中国で公文書が紙を使うように決められたのは東晋頃なので
三国時代はまだ木簡、竹簡に頼ってたはず
吉野ケ里が魏志倭人伝に書いてあるとおりの邪馬台国なら
文字の書いてある遺物が出てこないのは無理がある
昔の人間の集落の広まりかたを考えれば、神社がある事は不思議ではない
立地の特性として、人が住みやすい平地があって、飲料水に困らない川がある(田手川)
そういう場所を見つけたら、人は磐座を設置して祀る対象を定める
磐座はその後神社として固定化される
巨石の磐座は持って移動できないが、小さな磐座は人ともに持ち運びされていたと考えられてる
伊勢神宮が元伊勢を転々と磐座とともに移動したのも、そういう人と磐座の移動の歴史と考えられてる
シュリーマンのトロイアにしても、文献を裏付ける物証が出てきてはじめて本当にあった事と認められた
邪馬台国が本当にあったとすれば何が出てくるのが一番確実か?って、その当時の文書記録が手堅い
地名や人名の書かれてた文献が出てくれば、それでほぼ誰も反対意見は言えなくなる
後からの検証が不可能な旧石器時代の「石器」だから
ゴッドハンドができたってだけで、検証のできるような時代のものまで信じないのは
ただのひねくれ者じゃね?疑ってかかるのも必要だけど検証可能な時代のものは
科学的な検証を受け入れればいいだけ
日巫女(天照大神)の当て字だから出るわけない
漢字の現代日本語読みそのまんまで、中国人があて字したと思ってるのは短慮
墓に入れるような習慣があればいくらかの可能性はあるだろうが、古墳時代後期の古墳からさえ出土してないだろ
史実が全てその通りだったとは言い切れんよ?
書いてあるならそれを見つけたり、客観的な裏付けを見つける必要がある
吉野ヶ里が仮に焼き払われていたとしたら、その地層には焼き払われた痕跡が残る
例えば黒焦げの土器片や土そのもの、溶け落ちた鉄器などね
そんな痕跡が見つかるのでも、当時の出来事を知る手がかりにはなる
仮に見つかったら大発見だけど見つからないこと自体は不思議じゃない
そんな奇妙な話はないよ
縄文時代の木製の船やおもちゃなどの木製遺物が残るのに、弥生時代の木簡はことごとく消えてしまう
そんな事が起こったら、やはり不思議な出来事以外の何物でもない
木簡の保存状態が良い場所っていうのは旧河道とか池・濠の跡とか、水の多い場所。
なので今回の発掘場所のような丘の上から木簡が出る可能性は低いよ。
吉野ヶ里の遺跡の真横って川なんだぜ?
じゃあ川を発掘してみるしかないでしょ、環濠跡から木簡が発見されたって話は聞かないしね。
環濠を埋め立てた頃にはまだ木簡を捨てるような事は無かったって(木簡は使用されていなかった)事だから。
飛鳥宮跡は池の跡から出てきてるけど
難波宮跡や藤原宮跡は普通に土の中からもでてきてるけど?
本当に文書でのコミュニケーションが支配者層の間で行われていたのであれば
木簡は出て来ないはずはない
可能性の一つとして、魏志倭人伝が盛って伝えていたって可能性もあるけど
そもそも
卑弥呼の時代250年頃から飛鳥時代650年頃までの木簡が
1枚も発掘されてないのに「存在を信じる」理由を説明しろよw
ピンポイントで邪馬台国の存在を立証する木簡が見つかるなんて
フツーに考えたら有り得ないって気づけよ
魏志倭人伝の当時の記述が正しくて、吉野ヶ里が仮に邪馬台国であったのなら
木簡が出てきて然るべきだということ
一応最悪のケースとして
> 可能性の一つとして、魏志倭人伝が盛って伝えていたって可能性もあるけど
こっちの可能性も捨てきれないとは書いてるけどな
吉野ヶ里の集落は段丘上にあるから、難波宮跡や藤原宮跡のように常に地下水に浸ってる状態を維持することができない
川からの流れ込みもあるだろ?
そもそも藤原宮跡を低湿地帯というのは大きな誤解だぜ?
縄文弥生時代の木製品もそういうのがごく僅かにあるだけだよ
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