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歴史オタク「織田信長の政策がサァッ!www」俺「ふーん、その時代生きてたの?」

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1: 2023/01/23(月) 23:08:57.565 ID:O3vBDuI7a
歴史オタク「いや生きてないけど」

俺「じゃあ何で政策とか分かるの?」

歴史オタク「本に書いてあった」

俺「それが真実であるという証拠は?」

歴史オタク「……」←おっとっと、『壊し』ちゃったかな?

2: 2023/01/23(月) 23:09:47.950 ID:X1Ay6QDe0
生きてたけど記憶おぼろげ
3: 2023/01/23(月) 23:10:33.148 ID:b5E114Vv0
一般向けの学術書読むのが好きなだけw
4: 2023/01/23(月) 23:10:39.466 ID:xs19nIPQ0
生きてるとしても証拠無いわ
5: 2023/01/23(月) 23:10:49.202 ID:qQiGKbYH0
そんなこと言ったら学校の教科書も全部信用できんじゃん…
6: 2023/01/23(月) 23:11:46.967 ID:iT3ogSeO0
これ領土問題の比喩?
7: 2023/01/23(月) 23:11:54.304 ID:YLsupv/Y0
生きてなかったとかガキかよ
8: 2023/01/23(月) 23:11:54.536 ID:NXw+MC8nd

9: 2023/01/23(月) 23:12:42.988 ID:fHwrnBB/0
話が通じないバ○だって思われてるよ
10: 2023/01/23(月) 23:15:01.886 ID:b5E114Vv0
でも実際、信長の政策が今川や斎藤のパクリやから何なんやって思うわなw
11: 2023/01/23(月) 23:27:37.747 ID:lW8+NkaWM
織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで

>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。

>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。

楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652

12: 2023/01/23(月) 23:27:53.727 ID:lW8+NkaWM
●「楽市楽座」の実態

「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育において「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。

そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)

そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
朝倉氏の滅亡後、その庇護下にあった座を信長が安堵した書状も残る。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。

また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。

皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。

13: 2023/01/23(月) 23:28:12.612 ID:lW8+NkaWM
●「兵農分離」の実態

90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。

そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料
(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。

兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812

ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。

今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。

豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の主な仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。

16: 2023/01/24(火) 00:00:53.570 ID:CJgKWmnO0
歴史のテストにそう書いて教師を論破しようぜ

引用元: ・歴史オタク「織田信長の政策がサァッ!w」俺「ふーん、その時代生きてたの?」

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