アメリカが英語圏となったキッカケともいえる七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)をもっと知ろう
フレンチ・インディアン戦争は1754~63年まで、北アメリカ大陸でのイギリスとフランスの戦争。
フランス軍が、インディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したので、イギリス側でこのように呼ばれる。
ヨーロッパにおける七年戦争の北アメリカ大陸版といえる。
18世紀の世界大戦だな
これを「第一次世界大戦」と呼んでもいいくらいの規模だ
台頭するプロイセンの脅威
16世紀以来の宿敵だったハプスブルク帝国とフランス王国が、ついに手を結んだ
驚天動地の外交革命だ
こうしてイギリスと敵対することになったスペインは、
この戦争でキューバを占領され、さらにヌエバ・エスパーニャの
ベラクルスにも侵略の危機が迫るという難局に直面した
1763年のパリ条約でキューバはスペインに返還されたが、
それと引き換えにスペインはアメリカの領土(インディアス)
の様々な権益をイギリスに譲渡しなければならなかった
ラテンアメリカの植民地に財政負担を転嫁しようとするが、結局は、
フランス革命による混乱もあって、それがラテンアメリカ植民地の
独立につながってしまう
ナポレオン戦争の副産物として、ミシシッピ川流域のフランス植民地が、アメリカ合衆国に譲渡された
ミシシッピ川流域は、東海岸・西海岸・五大湖の影に隠れて目立たないが、実際にはエジプトにとってのナイル川くらい、アメリカにとって重要な地域
第一次大戦・第二次世界大戦と、ドイツ(プロイセン)は、フランス・ロシアを同時に敵に回す2正面作戦で連敗した
七年戦争も同じような流れだったが、かろうじてプロイセンが勝利した
大きな違いは、七年戦争ではイギリスがプロイセン側に立って参戦したこと
ヒトラーも、イギリスを敵に回す愚には気づいており、それが第一次大戦の敗因と見ていたが、やはりイギリスとの戦争を止められなかった
しかし、七年戦争で、フリードリヒ大王は一時おいこまれ、敗戦を覚悟した。
銃弾がかすめて、本人もタヒにかけた。
最終的に勝てたのは奇跡だった。
この戦争で生き残ったプロイセンが、百年後にドイツ統一する
よく統一できたというべきか、それとも、百年もかかったというべきか?
プロイセンはピョートル3世がフリードリヒ大王の崇拝者でなかったら完全に滅亡してた
すぐ暗○されてんじゃん
ロシアは、第一次世界大戦でも戦線離脱してドイツを楽にした
第二次世界大戦では、なぜか最後にシャシャリ出てきたが・・・
つまり平行世界が100のうち99までは、フリードリヒ二世は
無茶な戦争で国を滅ぼした暗君。
残り1つのまぐれ勝ちした世界では大王と呼ばれる。
それはないんじゃない?
戦争2度も負けているマリアテレジアは
別に暗君扱いされてないし
三国相手に無茶な戦いをした点では、パラグアイの第2代大統領
フランシスコ・ソラーノ・ロペスを連想させる。
かの人も万が一のまぐれで勝利をものにしてたら
無謀な開戦は大目に見られ、実力以上にほめそやす信者が
大勢ついたのだろうと思う。
「最終的に勝てたのは運だった」というのは
実質的に同じことじゃないかい?
フレンチ・インディアン戦争にも
南北戦争にも2陣営に別れて関わっている
時期によって関与する部族は
ミシシッピ川の東側だったり西側だったりぜんぜん違う部族だったりするが
連邦政府がその戦闘力を脅威視したから
十把一絡げに強制移住の涙の道ってことになったんだろうな
いや別に、フリードリヒ大王は、奇跡頼みでも運頼みでもなかった。
知略の限りを尽くして懸命に戦った。
最終的に勝てたのは奇跡であり、運が良かったからだが、それはあくまでも結果論。
あのときプロイセンが敗れていたら、今もドイツは統一されてないだろう
北ドイツが統一されるのは時間の問題だとしても、南北統一は、プロイセンのような圧倒的パワーがなければまず無理
おそらく、バイエルンはオーストリアのように「ドイツ語圏の他国」になっていたと思われる
あの段階でプロイセンが弱体化していたら、欧州地図がガラリと変わっていた可能性が高い
というのも、七年戦争のあとにフランス革命が起きて、ナポレオンが欧州征服戦争に乗り出した
ナポレオンは、最終的にはロシアとイギリスに敗れたとされているが、それ以前でのプロイセンに対する苦戦が大きかった
「なんといっても、ドイツに負けた」という声は当時からあった
実はすげえ大戦争だったんだな
第0次世界大戦と言いたいところだけど、規模はその後のナポレオン戦争があるから言いにくいな
18世紀の大戦といえば、スペイン継承戦争と七年戦争
19世紀の大戦は、なんといってもナポレオン戦争であり、クリミア戦争がそれに次ぐ
局地戦だが、アメリカ南北戦争もスケールはデカい
タヒんだ人の数が多いという点では、太平天国の乱の被害が最も大きかったと思われる
銃弾が飛び交う近代戦の戦場では、誰もがいつタヒぬか分からない
三十年戦争に参戦して大暴れしていたスウェーデン王グスタフ・アドルフは、たまたま銃弾に当たって戦タヒし、戦争の局面が大きく変わってしまった
それに比べて、フリードリヒ大王は銃弾がかすめてマントに穴があいただけですんだ
この違いは大きい。
というか河川を離れて長期の作戦は不可能だった。
映画で18世紀の戦争シーンを見ると、軍楽隊に合わせて両軍が行進して整列し、戦闘開始の合図とともにバンバン撃ち合って銃弾が飛び交う。
あれじゃ、最前列の兵隊は、ほとんどが生きて帰れなかっただろう。
まったく、度胸試しには最適な場と言えるが、せっかく鍛えた度胸と根性は、あの世で活かすしかなさそうだ。
ナポレオン・ボナパルトは、どんなに銃弾が飛び交っている危険な戦場でも、まったく怖がらなかったという。
周囲の人々は、ナポレオンの信じがたい度胸に、いつもあきれていたそうな。
・・・ていうか、それでよく早タヒにしなかったもんだよ。
真の英雄は、奇跡的な幸運の持ち主でもある。
「フランスおよびインディアンとの戦争」ともいう。フランス軍が、インディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したので、イギリス側でこのように呼ばれる。
イギリス植民地は大陸東岸にほぼ限定されていたが、フランスは北東部のセントローレンス川と五大湖地方、中南部のミシシッピ川流域を押さえていた。
フランスはこの二つの植民地を結びつけるために軍をオハイオ川に進出させた。
そうなるとイギリス植民は西部への出口を押さえられる形になるので大きな脅威となった。
始めフランス軍が優勢であったが、イギリス軍が本国のピット(大ピットの方)の指示で植民地戦争に力を入れるようになって形勢が逆転する。
イギリス軍はフランス軍がオハイオ川上流に築いた要塞を奪って、それに首相の名をとってピッツバークと命名した。
イギリス軍は1759年にケベック、60年にモントリオールを占領。
1763年、パリ条約が締結され、フランスは北米植民地のほとんどを失い、インドでも後退を決定的にし、イギリスの植民地大国としての地位が確定した。
昔は、ルイジアナでは普通にフランス語を使ってた
今でも、ニューオーリンズのカーニバルをはじめ、あの辺の雰囲気はラテンそのもの
今ではルイジアナは英語圏だが、普通のアメリカ人にとっては異文化の地
ケベックは今でもフランス語
この大戦は、欧州大陸にとっても北米大陸にとっても、過去と未来の地図を塗り替える分岐点となった
日本人にとっては、しょせん異国の話なので、一般的な認知度は低いが
日本でも、英仏百年戦争はかなり有名
それに比べて七年戦争の認知度は低い
やはり、ジャンヌダルクとポンパドゥール夫人では人気が違いすぎる
ポンパドゥール夫人
ルイ15世の公妾
公妾たるその立場を利用してフランスの政治に強く干渉し、七年戦争ではオーストリア・ロシアの2人の女帝と組んでプロイセン・イギリスと対抗した。
フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、湯水のように金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。
ポンパドゥール夫人に推されて1758年に外務大臣となったリベラル派のエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールは戦争大臣なども兼務し、およそ10年にわたって事実上の宰相となった。
フランスの重農学派フランソワ・ケネーも彼女の主治医であった。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。
特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。
ポンパドゥール夫人は美貌ばかりでなく学芸的な才能に恵まれ、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結んだ。
また芸術の熱心な愛好家、パトロンでもあり、様々な芸術家とも交流した。ポンパドゥール夫人の時代はフランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。
バラバラで弱体だったドイツに、強国プロイセンが台頭。
インドやアメリカでは、イギリスとの対立が激化。
フランスにとっては、非常に難しい時代だった。
そんな中、才色兼備のポンパドゥール夫人が登場した。
もともと、王様の側室として後宮に入ったのだが、なぜか内政と外交に大活躍。
30代に入ると、王様のお相手からは引退し、自分の息のかかった娘をあてがった。
宿敵オーストリアと同盟するという「外交革命」により、世界を驚かせた。
ジャンヌダルクも凄いが、ポンパドール夫人も凄い。
イザというときに、こういう奇跡的な人物が登場するのがフランス。
大手チェーン
ポンパドゥル>アンデルセン
この戦争の大きな特徴の1つに、フランス・ロシア・オーストリア連合の指導者が、3人とも女性だったというのがある
ロシアの女帝が休止し、男性の皇帝が即位したら、あっさりと講和して戦争が終わった
たぶんあんな島はアルゼンチンにくれてやり、その代わりに香港をタヒ守しただろうにな。
ロシア軍が、ドイツの心臓部まで攻め込んだのは、第二次大戦末期の東ドイツ占領を除けば、七年戦争のときだけ
女帝エリザヴェータは、講和などまったく考えていなかった
もしも、あの場面で急タヒしなかったら、歴史は変わってた
七年戦争では、せっかくプロイセンを敗戦寸前まで追い込んだにもかかわらず、ロシアとオーストリアの対立が表面化するなど、同盟に不協和音が目立ち始めた。
しかし、エリザヴェータとマリア・テレジアという2人の女帝の唯一の共通点が、同盟をかろうじて存続させていた。
その共通点とは、「両方ともフリードリヒが大嫌い」ということであった。
それともプロイセンを強国にするに違いないから今のうちに排除するしかないと思われたか
女嫌いで国民に迷惑をかける君主はちと希少価値がある
今でも、アメリカあたりじゃあ、女性指導者を本音では歓迎していない。
ましてや当時のプロイセンなど、「国家を持った軍隊」と言われるほどの軍国主義で、筋肉ムキムキの体育会系国家だ。
女性指導者を蔑視するのも、当然といえるだろつ。
マリア=テレジア
18世紀中ごろのオーストリア大公妃。
ハプスブルク家の家領を継承し、プロイセンのフリードリヒ2世とオーストリア継承戦争を戦う。
敗れてシュレジェンを割譲したが、次に外交革命によってフランスと結び、再び七年戦争で戦う。
多民族国家であるオーストリア帝国の中央集権化を図るなど、事実上の女帝としてオーストリアを統治した。
七年戦争の前哨戦、オーストリア継承戦争
1740年、マリア=テレジアがハプスブルク家家督を相続し、オーストリア大公妃などに即位すると、
プロイセン王国の国王フリードリヒ2世はその相続の条件としてシュレジェンの割譲を要求、
さらにバイエルン公カール=アルブレヒトは神聖ローマ皇帝位を望み、
フランスのブルボン朝ルイ15世も同調、オーストリアに対し開戦した。
これがオーストリア継承戦争である。
開戦するとプロイセン軍がオーストリア領内に進撃し、シュレジェンを占領した。
オーストリアに対しては、フランスと対立していたイギリスが支援したが、経済的援助にとどまり、軍隊の派遣はなかった。
窮地に立ったマリア=テレジアは乳飲み子(後のヨーゼフ2世)を抱いて(これは伝説らしい)ハンガリーに赴き、
黒い喪服に身を包んでハンガリー貴族たちに抵抗を呼びかけた。
その後困難な闘いを切り抜けたマリア=テレジアは、シュレジェンは失ったものの他の家督の相続は認められた。
また、1745年神聖ローマ帝国皇帝の地位は、1742年にバイエルン公(ヴィッテルスバハ家)カール7世が選出されていたが、
1745年には夫のロートリンゲン家のフランツ1世が即位した。
オーストリア継承戦争は、1748年にアーヘンの和約で講和となったが、シュレージェンの奪回はならなかった。
外交革命
敗戦後、「シュレジェン泥棒」プロイセンのフリードリヒ2世への復讐と、シュレジェンの奪回を目指したマリア=テレジアは、
オーストリアの軍制、政治機構の改革に乗り出し、宰相カウニッツの補佐によって国力の回復に努めた。
外交ではフランスのブルボン家と結び、さらにロシアとも関係を強めててプロイセンを孤立させることに成功した。
それまで長期にわたって敵対していたフランスと手を結んだことは、当時非常な驚きをもって迎えられ、外交革命と称された。
それを画策したのがオーストリアの宰相カウニッツとフランスのルイ15世の寵愛したポンパドゥール夫人であった。
イギリスからの支援がなければ完全にプロイセンは詰んでたね。
本来、プロイセンにとってイギリスは大恩人なはず。
まあ、イギリスは当時、フランスとの植民地獲得競争に終われて、欧州大陸に手出しする余裕はなかったけどな
ただし、世界各地でフランスの戦力を削いでくれたのは大きい
当時のイギリス首相は大ピット
「欧州大陸より、植民地獲得競争に注力する」と宣言して、主にフランスと戦った
プロイセンは組む相手を間違えたわ
イギリスには最強の海軍があった
フランスも、イギリスに負けじと海軍力を強化していた
ロシアも、ピョートル大帝が創設した強力な海軍を保有していた
そんなことより、インド戦線について何か書いてくれや
戦火はインド南部からベンガルまで蔓延し、ロバート・クライヴ率いるイギリス軍はカルカッタをフランスと同盟したベンガル太守シラージュ・ウッダウラから奪い、さらに1757年のプラッシーの戦いで彼を廃位した。
同年、イギリスはベンガルにあるフランスの植民地シャンデルナゴルを占領した。
1761年、フランスの本拠地ポンディシェリーがイギリスに降伏し、カリカルやマヘといった小規模なフランス植民地も降伏したことでフランスのインドにおける勢力は消滅した。
インドと北米に限らず、フランスはあらゆる植民地でイギリスに負けまくった
世界帝国としてのフランスは、七年戦争で終わった
南インドでは、イギリスがマドラス、フランスがポンディシェリーを拠点に勢力を伸ばしていた
1740年にヨーロッパ大陸で勃発したオーストリア王位継承戦争でのイギリスとフランスの戦闘がインドにも波及し、1744年には第一次カルナータカ戦争が勃発した。
オーストリア継承戦争は終結したが、南インドでの英仏の対立は続き、第二次カルナータカ戦争が起きた。
そして、七年戦争をキッカケに、第三次カルナータカ戦争が起きる。
フランスの敗北と撤退により、ようやく勝負がついた。
増援を送らないばかりか有能な現地総督を更迭するという悪手でフランス自滅。
しかし、北米では、イギリスは東海岸、フランスはミシシッピ川流域と、勢力圏がわりとハッキリ分かれていた
にもかかわらず、フランスは敗退した
ルイジアナ州がフランス語の国だったら、アメリカも変わっただろう
17世紀から18世紀にかけての名称であり、この地方を探検したフランス人の探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールによって、フランス国王ルイ14世に因んでルイジアナと名づけられた。
元々、その領域はミシシッピ川流域のほとんどを含んでおり、南北は五大湖からメキシコ湾まで、東西はアパラチア山脈からロッキー山脈まで広大に広がっていた。
現代のアメリカ合衆国ルイジアナ州は、フランス領ルイジアナのほんの一部に過ぎないが、これはこの歴史的な地域の名前を貰ったものである。
ミシシッピ川の流域は、極めて広大だ
支流が多くて、全部を合わせると、東海岸と西海岸を除くアメリカ合衆国の内陸部の大半を占めている印象
中国でいえば、「黄河プラス長江」といったところだろう
まあ、中国に例えれば、黄河と長江の流域をフランスが押さえて、沿岸部がイギリスというような状況だ
要するに、大部分をフランスが押さえてた
入植者をカトリックに限ったから
仏王室に忠実な者しか集まらない
それじゃ開拓に必要な活力が足りない
何より新天地にまで来た甲斐がない
新大陸に関してだけ宗教不問にすればよかった
ユグノーやコンベルソが味方に付けば無敵
高校 レベル じゃ
コンベルソ なんて聞かないよね
指導要領に,追加された用語ですかい ?
>>127
スペインの「レコンキスタ」や「宗教裁判」の延長上にある言葉で、
「マラーノ」もほぼ同義だが、これは蔑称だし意味の範囲も広くなり、
別のものも指すので使わなかった。
英語のto convert「改宗する」や同根の語のconversion「改宗」
とも関係ある
手軽なところではウィキペディア日本語版にもあるし、この項目に関しては
今の所あからさまなデタラメ・トンデモは見当たらない
あんたが何を問題としてるのかサッパリだ
むしろ「チュルク」を全廃して「トルコ」と同じにしてしまい
中央アジアの「トルコ系民族」なんて言ってる今のゆとり仕様の高校教材を
全肯定して基準にしちゃってるあんたのオツムが心配だわ
今でも、ルイジアナ州はラテンの文化で、南米の雰囲気だ
アメリカのドラマでも、外国みたいにエキゾチックな扱いをされている
さすがにフランス語圏ではなくなったが、その代わりスペイン語が台頭してきた
七年戦争が始まったばかりの頃は、イギリス軍がフレンチ・インディアン連合軍に連敗してヤバかった
インディアンが、イギリス人の捕虜の頭皮を剥ぐのが問題になった
勝利の儀式で敵兵の人肉を食べるのも、欧州人から見れば野蛮な行為だった
やがて、イギリスの大宰相ウィリアム・ピットが登場して戦局が変わった
トルコTurky, TurkishとチュルクTurkicの完全同一視は
トルコ共和国の侵略的な汎チュルク主義に味方するだけ
イスラム原理主義に転向したとでも思ってんのか
勝ったプロイセンは、生き残って百年後のドイツ統一へと向かう (その前に、ナポレオン戦争という波乱はあったが)
負けたフランスは、四半世紀の後に大革命が起きてブルボン王朝が倒れる
しかし、最大の勝者はイギリスだった
北米やインドを始めとする、資源の豊富な優良植民地からフランスを追い出し、世界の覇者となった
植民地から収奪した資源で、産業革命が爆発的に進行する (まあ、本当はイギリス国内の石炭が主力だったんだが)
いや、「産業革命が爆発的に進行した」は言いすぎだったな
18世紀後半から19世紀前半にかけて、百年ほどかけて進行した
ブリカスと言われようともその判断は自国の利益確保のために終始正しかった
判断が終始正しかったかは疑問だけどな
17世紀には、オランダを叩きすぎてフランスが強くなりすぎ、18世紀から19世紀にかけてフランスを叩きすぎた結果、今度はドイツが強くなりすぎた
第一次大戦後に、ドイツが弱くなりすぎたと判断して宥和政策に転じたのは、致命的だった
西語はカトリック2級市民の言語として長らく教育にも活かされなかった
英語以外は先住民語と大差ない扱いを受け、ヨーロッパ大陸の文明からも切り離された
第一次大戦後までアメリカがオーストラリア並の鎖国状態だったのは英語の野蛮な覇権のせい
フランス、ロシア王室が後に民衆に吊るされるなんて皮肉なことだな
同じような原理原則である啓蒙主義というイデオロギーで一蹴されたんだよね
原理に頼らない力関係のバランスで保たれるから英王室は残った
イギリスの大陸勢力均衡政策は、長期的には常に破綻する
17世紀の英蘭戦争でオランダを叩きのめしたが、その後、フランスの太陽王ルイ14世にオランダもスペインも奪われそうになった
18世紀の七年戦争では、宿敵のフランスを叩いて覇権を確立したが、やがて、同盟国のプロイセンが新たな強国として台頭し、次第に手に負えなくなる
17世紀始めには英蘭両国はカトリックのスペイン・ポルトガル勢力に対して協力関係にあったが、
オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回り、1623年のアンボイナ事件を契機に、
イングランドは東南アジアや東アジアから撤退せざるを得なくなった。
香料貿易を独占したオランダにはアジアの富が流入し、イングランドでは反オランダ感情が高まった。
戦争は海戦が中心で双方とも相手方の本土に侵攻することはなく、いずれも中途半端な結果に終わった。
イングランドは3次にわたってオランダと開戦し、オランダ経済に大打撃を与えたが、皮肉にも1688年の名誉革命により、
かつて敵対したオランダ総督ウィレム3世をイングランド王ウィリアム3世として迎えることとなる。
18世紀に行われた第四次英蘭戦争により、オランダの国力は疲弊し、海上交易における優勢を失った。
七年戦争に敗れたフランスでは、20数年後に革命が起きる
べつに、七年戦争に敗れたのが原因ってわけでもないんだが、フランス王国は崩壊した
>>160
反戦論は戦争の悲惨さとか、人命が失われるという観点からの物が普通だが
非常に金がかかるという事を踏まえれば、本当は安易に戦争に走らないよね
日露戦争のように華々しい勝利でも、国が傾くレベルの大借金が発生している
七年戦争では、フランスとロシアによる東西二正面の戦争を、なんとか乗り切ったプロイセン
しかし、第一次世界大戦では、ドイツは最終的に敗れた
どこに違いがあったかというと、前者はイギリスを味方につけたが、後者ではイギリスをも敵に回したことにある。
と、ここまではヒトラーも分析していたのだが、なぜか第二次世界大戦でまたしてもイギリスを敵に回す愚を犯すことに
北アメリカとインド。両方の維持が無理ならせめて片方に
戦力を集中すべきだった。
そもそも、政治や外交のことはポンパドゥール夫人にまかせっきりだったからな
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