もし小覇王・孫策が生きていれば、呉はじめ中国の歴史は変わっていた?
孫劉の関係も変わってただろうし、中華の歴史も変わってたと思う
て言う事は日本の歴史も変わっていたはず
お前らどう思う?
25: 2013/12/07(土) 00:20:11.67 ID:MtwnhcUW0
>→孫策が生き延びてれば→その呉の動向も変わったと思います
陸氏をはじめとする地元の名士や豪族に嫌われまくってる孫策に何を期待しとるんだ
ですよね。
それでなくても嫌われまくっている上に
更に嫌われ憎まれる事をやらかしている体たらく。
10
ないないw
>>3を5000回くらいじっくり読んで
その意味を1万回じっくり客観的に考えてから出直して来い。
なんでわざわざ煽るような言い方をするのか…
>>13
釘を刺すつもりできつい言いかたをあえてしたが、きつ過ぎて却って災いになる口調だった。
申し訳ない。
孫策って良くも悪くも日本人受けの良いタイプの歴史人物(源義経とかの系統ね)だから、しばしば過大評価される傾向がある。
その辺注意しないと。
>>15
いいんだよ
お前らの孫策観を知りたくて立てたスレだから
個人的には(孫策)過小評価されてる気がするんだけど
と言う事で、孫策生きてれば劉備と尚香も一生添い遂げられてるはずだろ
そうだとしたらそもそも政略結婚そのもながない、ってのは止めろよ
数年後曹操などと提携した反孫策豪族連合により
孫策は一族郎党諸共あぼーんされておしまい☆
しかしその後の江南地方は豪族・異民族連中による
gdgdの覇権抗争に突入した結果、
中原の影響圏の空白地帯、または希薄な地帯となる
曹操が天下統一出来ただろう
呂布よりむしろ公孫(王賛)とか源義経みたいな末路だと思う。
非道っぷりなら孫策は呂布を上回る
公孫瓚と孫策のどちらが残酷かというのは難しいが…
というか同類だから
袁術陣営(脳筋)
河北の公孫瓚
中原の陶謙と呂布
江南の袁術と孫氏
袁紹陣営(インテリ)
河北の袁紹
中原の曹操
江南の劉表と劉繇
Fight!!↓結果
河北の公孫瓚は袁紹により滅亡
中原の陶謙と呂布は曹操により滅亡
江南の袁術は曹操により滅亡、孫堅は劉表により戦タヒ、孫策は劉繇を滅亡させるが自滅
つまり袁術陣営は全て壊滅、こいつらダメすぎる
しかし孫権により奇跡的に江南で勢力存続した
なぜなら共通の敵がいなくなった袁紹と曹操が覇者決定戦をおっぱじめ、劉表も桓階の暗躍で行動不能になった為、みんなから暫くスルーされたから…
>>8
>公孫瓚と孫策のどちらが残酷かというのは難しいが…
>というか同類
公孫瓚=北方の孫策
孫策=南方の公孫瓚
というのは当方も全く同意。
呉がキーパーソンになれたのは孫権の融和政策によって
江南土着勢力と共同し得る環境が出来たからで、
間違っても孫策の功績ではない。
孫策生きてれば周瑜のパラ1.5倍にはなるし、下手すりゃ血吐かずに生きてたかもよ
孫劉同盟も上手く行って、てか孫策 劉備の元に降り六虎将軍へ
劉備尚香も一生を添い遂げられ、新たな世継ぎも出来たかも
魏蜀の二国時代になって蜀による漢王朝復興
ほら、歴史が変わるじゃないか
陳登に負けてるし
良いタイミングでタヒねたのかもしれない
あらゆる暗○や事故を回避して天寿を全うしたとしたら結構な勢力圏を築いていたんじゃないかとは思う
この辺は劉?や王朗、許貢が弱かったと考えるか孫策が強かったと考えるかで変わると思うけど
ただ自分としてはいくら上記3人をはじめとした連中が雑魚だったとしても寡兵からたかだか3~4年で江東を制したというのは相当なものだと思ってる
>>18
華歆や王朗の魏での事績を考えても軍事向きの人間とは思えんけど、そこはあまり問題じゃない
孫策が短期間で江東を制圧した"かのように見える"のは、敵対勢力や土着勢力を容赦無く殲滅するやり方をとったからだよ
これでは潜在的な不満と脅威を内包したままになるので、大勢力に成長するのは無理
孫策がすぐタヒんだから、そういったデメリットが露出せずにむしろ孫権に押し付けられているだけ
公孫瓚だって似たようなやり方で孫策以上に急速に勢力を拡大したが、袁紹という強敵にぶつかり負けて武威を失った途端に、膨らんだ風船が破裂して萎むように急速に衰退した
そして易京に立て籠もった公孫瓚を幽州の官民は誰も助けにこなかったどころか、むしろ袁紹に協力して公孫瓚を攻撃
支配地を敵に回すとこうなるという例なわけで、暗○された孫策だって暗○という第一段階でタヒなずともいずれこうなってただろう
少なくともネットでは孫策は過大評価されがちって意見はたくさん見ても
実際過大評価されてるところなんてあんまりみないんだよなあ
現在のネット外(書籍とか)が10年前までと比べて
孫策に批判的な(正確には「正当な評価を与える」)傾向の強い
学者・研究者が増えて来たからかな。
みんな好き嫌いは別として孫策をそれなりにキーパーソンとして捉えてるんだな(喜)
そもそも約2千年の話だから何が本当で何が捏造で、誰が実在して誰が架空か、なのはどうでもいい
今お前らが考えてる三國志観、呉観、孫兄弟妹観
つーても、実際 呉の動向ひとつで天下は変わった→孫策が生き延びてれば→その呉の動向も変わったと思います
喜ぶのはまだ早い。
キーパーソンも何も歴史的評価上では
せいぜい南方版公孫瓚、
つまり「雑魚に毛が生えた程度の奴」
「北斗の拳で言えばひでぶっとかあべしっと言いながら
爆発してタヒぬ奴らに毛が生えた程度の奴」
ってことだから。
まあその弟の孫権もやがて、自分の意見に反すれば功臣や名臣だろうと容赦無く左遷したり処刑したり憤タヒさせたりする人間に成り下がるんだけどね
父の孫堅も、自分と敵対したならば刺史や太守だろうと、容赦無くブチ○す人間だった
孫策が特異というより、家系そのものが物騒
なんでお前ら孫策嫌うんだよ
力で江東制覇したっていいだろ
小覇王だぞ
その後のフォローは呉国太様と孫権でやるわ
あくまで
「小悪党の最上スペッククラスに毛が生えた程度の人物」
と歴史的な評価を下しているだけで。
その後の孫権時代に活躍する有能な人材を迎える眼と度量は間違いなくあったわけだしそういった人士の意見を聞かずにタヒぬまで「敵は全て皆○しじゃー」ってやる程愚かではないと思う
孫策の時代には既に周瑜・魯粛・張昭・張紘といった優秀なブレーンはいたわけだし
逆にそれだけの人材がいても(魯粛が合流したのは江東の平定後だけど)なお江東を力でねじ伏せたっていうことはそれが最も有効な手段だったと考えることもできるし
>周瑜・魯粛・張昭・張紘といった優秀なブレーン
その大多数が江東以外の地方出身な件
自分の出身地じゃないから蹂躙してもいいやっていうのは仮にも後世で智謀の士と呼ばれるような人間の考える事じゃないと思う
廬江太守の陸康(呉郡名士筆頭呉郡陸氏の家長)→孫策に一族ごと○害される
丹陽太守の周昕(後漢を代表する名士陳蕃の故吏)→孫策に○害される
高岱(名文家高彪の子)→民衆からの人望を孫策に憎まれて○害される
魏騰(八俊魏朗の孫)→孫策に○されかけるが孫策の母の自○未遂で救われる
底辺豪族出身な孫策の成り上がりコンプレックス?
揚州の名士がとにかく嫌いだったようだ
二世三公廬江周氏の周瑜だけ例外なのはやはり幼馴染パワーなのか
・月餘,發病卒,年七十。宗族百餘人,遭離飢厄,タヒ者將半。(後漢書「郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳」)
だから孫策が陸康を攻めたのは間違いないけど一応タヒ因は病タヒで一族も百余名のうち半数は飢餓でタヒんだそうだ
おそらく残り半数は生きながらえたのだろう
・周昕は別にわざわざ狙ったわけじゃなく王朗の配下として孫策との戦いの前線に立って負けただけ
弟二人は孫策じゃなく許貢に○されてる
・高岱の件は討逆伝の註を読めば完全に何者かに嵌められたのが分かる
・魏騰はその後孫権の治世でもほぼ全く同じことをしてるので本人にも十分に問題があったとも考えられる
多分わざとだとは思うけどあまりにも悪意を持った解釈をしすぎじゃないかい?
いや、ぶっちゃけ渡邊氏の意見を転用してるだけで、悪意に解釈するつもりは無かったんだが
後漢書にそんなことが書いてあったとは知らなかったし勉強になったよ
>>36
>渡邊氏
孫策に批判的な(正確には「正当な評価を与える」)傾向の強い学者・研究者の第一人者っすね。
あの人の分析自体は主観排斥度とか客観度が高いから評価しているけれど、
袁術派の群雄(孫策とか)についての文面は袁術嫌いがついつい高じるのか
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」な若干disり目の書き方になりがちなのが玉に傷。
ここで陸康を取り逃がそうものならその後の立場に影響が出る
それでも江南土着名士連中を○り過ぎタヒなせ過ぎた事実は変えようがない訳で。
百歩譲って孫策本人に悪気は無かったことにしても、
江南土着名士と彼らを支持する民衆から総スカン食らうのは必然の結果。
「尚香」は元々は京劇での名前だから現地中国でも尚香で認識している人は多い
演義での「孫仁」という名前の方は妙にマイナー、まぁ尚香に比べて女性っぽくないからかね
「美周郎」の方は初出調べてみたけどいまいち分からん、多分こっちも京劇だとは思うけど
一応自分が調べた限りでは後漢書・三国志及び三国志の註には「周郎」はあっても「美周郎」は無かった
んでも個人的には相手に伝われば表記はどうでもいいと思うけどね
無論悪意を持った呼び方はしないに越したことはないけど
孫策は一応敵をブチ○してたが、孫権の矛先は自分の配下だぞ
孫氏と江東名士の和解の象徴だった陸遜まで○してるし
孫策(権、小妹)は孫子の末裔とされてるけど本当?
その前に孫子=孫武(孫月賓 説も?)だと思うけど孫武の記録って殆んど無いんでしょ?
【if】孫武が実在したとしたら呉王が夫差になってからどこに行ったの?
質問ばっかでごめんね><
孫堅が孫武の子孫を自称してただけ
劉備が劉邦の子孫を自称してるのと同レベル
孫策(権、小妹)は孫子の末裔説ってのはまずないだろうって見解がされてる
孫武は夫差の勝利の後、斉で隠居してたんじゃないか?子孫の孫ピンも斉だし
孫子は孫武で孫ピンのは斉孫子と呼ばれてる
>>51
周通は自称で孫策は他称だからまぁいいんでない
もっとも本人には「孫策驍雄 與項籍相似」という評価は甚だ不本意だったみたいだけど
むしろ、それを知らぬはずもない当代随一の三国志フリークである羅貫中がなぜ「小覇王」を採用したのか、そっちの方が気になる
>>53
参照になるかどうかは解らないけれど
孫策贔屓派の研究者の第一人者かもしれない井波氏いわく
「羅貫中はアンチ孫策」。
しかしそんな彼女は孫策の枕詞に
「江東の小覇王」なんつーのを好んで使っている訳だがw
まー実質蜀にトドメ刺したのは荊州陥落+夷陵の敗戦だから蜀漢正統を掲げる羅貫中が孫策、ひいては孫呉に対して含むところがあっても全然おかしくはないよなぁ
それでも二宮の変とかの孫呉の恥部をばっさりカットしたのはやはり物書きとして作品の完成度を上げることを優先したんだろうかね
張昭は内政官というか政治家というか智を向けるベクトルが范増とは全く違うと思うんだ
范増は計略暗○陰謀大好きの根っからの謀臣だから
孫呉で范増のイメージに近い人物を挙げるとすると………魯粛?
呂布「劉備が一番信用できない」
孫権「劉備とかいう糞ペテン師」
劉備「仕方なかった 生きるため 仕方なかった」
名誉創始者の孫堅も事実上創始者の孫策も
ガチ893という事実でお察し(ry
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1386250350/
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