世界史で馬が果たした役割や、競馬の歴史など馬について語ろう
もしくは競馬の歴史を語りたい人間が語るスレ
日本の戦国期の馬はポニー程度で
150センチだったとはいえ鎧来た人間を乗せて走るのは不可能とか言う人間にひとこと
モンゴルをはじめとした歴史上の遊牧民が使っていた馬もポニー並だ
アラブ馬、ターク馬、バルブ馬は、アハルテケ馬は、デカいじゃん。
それにモンゴル馬小さくないぞ。
当時のモンゴル馬は体高140-150cmぐらい
たしか埋葬品から馬の骨が出てきてるんだっけ
>それにモンゴル馬小さくないぞ。
いや小さいよ
現在のモンゴル馬の平均体高は128㎝程度のなので日本在来場の木曽馬より少し低い
これでも近代の品種改良によって馬格の向上が見られたというのでチンギスハーン時代は更に小型であったと思われる
https://www.youtube.com/watch?v=nEqbbBHrdyg
戦国時代でなくて、江戸時代の後半の馬のことではないかなあ
今こそ戦の勝負の分かれ目だと攻めかかり、せめぎ合いをしていると
味方の関東の武士で乗馬の上手な者たちが、今日の戦場は平地で馬での戦に向いているし、
敵味方がもみ合っているのでちょうどいい頃合いだと見計らって、二番手の槍勝負には参加しないで
乗馬の上手が30人ほどの騎馬隊を作り、様々な武器を持った30騎がいっぺんに
敵部隊の右側から突っ込んだ。
敵も左側からの攻撃なら少しは抵抗が出来たのだろうが、右側から馬で攻められたのでは
何の抵抗もできず、ただ騒ぎまわるばかりだった。
その上騎馬隊が攻めかかるとすぐ、一番手の部隊のうち手の開いている者達が
鉄砲で騎馬隊の攻撃を応援したので、敵はどうにも防ぐことが出来ず、味方は何の苦労もなく
敵を追い崩した。
関西では、近頃の戦はみんな馬を降りての攻め合いばかりで、馬に乗っての戦というのを
長い間やっておらず、関東の武士と違って乗馬で戦うのに慣れていないので、
騎馬隊に攻められたときどう防げばいいのかと言う心がけが無かったのだろう。
(雑兵物語)
十字軍の馬よりも脚が早かったという
競馬のサラブレッドだと同じ人が添って立つと頭のてっぺんと馬の背・鼻先が同じくらいの高さ。
アラブ馬が背の高さではラブレッドと同じかやや小さめで、添って立つと馬の背が目の高さかちょい上くらい。
日本在来馬のうち大きめの木曽馬や道産子馬の背の高さが、気を付けの姿勢の肘くらい高さで、普通に頭のてっぺんが見える。
活きの良い現役バリバリの馬を副葬品にするかな?
モンゴル以前の中国周辺の遊牧民や
ブルガール人の使っていた馬は小さいと言う
もっとも重騎兵といえるほどの鎧なんて着てないだろうが
支那はしばしば駿馬を献上しろと遊牧圏からの貢物に注文つけてたろ。
漢の武帝が外交と戦争の両面政策で西域に求めた汗血馬とか。
匈奴に押されっぱなしの漢朝なんて、他は全部勝ってるのに軍馬だけが決定的に劣ると敗因を分析していた。
馬上比率
武蔵岩付衆30%
上野北条20%
甲州武田15%
越後上杉10%
陸上競技のウサイン・ボルトみたいな馬って作れないのでしょうか?
競馬はサラブレッドしかダメというルールがあるのでしょうか?
>>17
サラブレッドが、その、騎乗用の速く走る馬と、巨大な馬とのかけ合わせから生まれてる。
日本競馬三冠のシンザンの血を引くばんえいの馬が居た。(ホクショウモモ号)
http://banei.no.coocan.jp/horse/blood/hsmom_b.html
https://www.jbis.or.jp/horse/0000034711/pedigree/
日本の競馬は、遡って5世代全部自然交配で生まれた馬で軽種馬・競走馬の登録がされていれば、出られるけれど、
実際には、サラブレッドとアングロアラブ(アラブ種・シャギアアラブ種の血量が計25パーセント以上、残りのうち過半がサラブレッド)と、サラ系(サラブレッドの血量が75パーセント以上)に限定されていて、
更に、アングロアラブは専用の競争が廃止されたし、サラ系も繁殖で人気が無いので積極的に産ませる生産者や買う馬主が少なく競馬に殆ど居ない。
ついでに、日本は内厩制で調教師も馬房も数に制限があって、競馬に出られる馬の数そのものに制限がある。預ける調教師を決める、乗ってもらう騎手を決めるというのも、自前交渉なので、走る見込の
薄い馬は、預託調教や騎乗を受けてもらえない。
出走条件に「サラ系」と有るのは、規定上、サラブレッドとサラ系とどっちも同条件で出られる。現状は、サラブレッドばかり。
ヨーロッパの障害競馬には割と高い割合で、AQPSが混ざって走ってるよ。グランドナショナルとかも年によっては3割くらいが、交雑種。
7世代サラブレッドをかけて生まれた牝が能力審査を経てもう一度サラブレッドをかけて都合8世代かけて生まれた子から純血サラブレッド扱いになる。
血統についての取扱や手続きの知識の欠如していた明治のころに輸入された血統不詳馬や、在来農耕馬やサラブレッド以外の血の入った馬、アングロアラブにサラブレッドをかけつつけてきたサラ系とかの子孫が
昭和末期くらいからサラブレッドに格上げされてきているので、血統表を注意深く追ってみると、在来馬とか中間種とかが出てくるサラブレッドがあるよ。
人間を乗せてもスピードが落ちない
斤量背負ってもスピードが落ちないかったという
昔の小柄な馬もそんな感じだったんだろう
自重を支える力が強い
正木大膳 ~度々馬上にて勝負を決す~
「侍の頭を仕覧者は、馬より下りて鑓を合せ、高名する事、多くは有るまじ。
馬の上にて下知を致し、そのまま勝負をせんならば、片手綱を達者に覚えてこそ」
と、幼き時分申ごとく、度々馬上にて勝負を決す。
(『甲陽軍鑑』品第六)
何という事だ。
我々甲州武士と違い上方武士は馬から下りて戦う。
(武田流軍書)
家老の飯富兵部少輔はこう答えた。
「自分は小脇差で有利に戦ったという経験のある者は小脇差を好むし、
刀でしばしば勝負に勝った者は大刀を好むものだ。
馬上で細かい勝負をした者は小さい馬を好む。
大勢の敵中へ乗り込んで暴れ回るには大きい馬に限るという者もいる。
また道具には流行のようなものもあって尾州から上方五畿内ではだいたい小さい刀を使うが、
関東では大刀が多いと聞いている」
(甲陽軍鑑)
其関東の侍たちに、馬の目ききをとふたれば、
当歳にて母に離ぬもよき馬になる。
離て草を食は猶よき馬に成。
つきつ離つする馬は、後夫馬に成ても、おもき荷を持事ならず、
遠き路もならず、やす馬と是をいふ。
此クノ如キ畜生さえ、機の展転するはあしきに、
わたしは良馬の見分けかたを関東の侍たちに尋ねたことがある。
すると、一歳になって母馬から離れようとしない馬は良馬になる。
母馬から離れて草を食べる馬は一層良い馬になる。
母馬についたり離れたりする馬は、その後荷を運ぶ馬になっても重い荷を運べず、
遠路に耐えられない駄馬である、とのことであった。
馬でさえ、気の移りやすい馬は駄馬である。
『甲陽軍鑑』(日本の思想9)
信長公記・長篠の合戦記述
家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為、柵を付けさせられ、
(中略)
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。
西は賀鳥口、佐久間右衛門、柴田修理亮、稲葉伊予守、同右京助、
蜂屋兵庫頭。松の木の渡り、一揆相支へ候を、どつと川を乗り渡し、
馬上より数多切り捨て候なり。
(『信長公記』伊勢長嶋一揆成敗の記述)
『野口豊前守戦功覚書写』(『常総遺文』)
・てつほう五六丁にて、われらおねらい打申候へ共、はつれ申候、そのてつほうの音おきき申候て、跡にひかへ候味方共、
皆々乗かけ申候所ニ、てきくつれ三百八十くひおとり申候
鉄砲の音が聞こえたので乗りかけて行ってます。
http://maisov.if.tv/r/index.php?heimatfront
第二次大戦直前、ドイツ軍の軍馬動員能力は約400,000頭であった。
1940年5月までに、ポーランドからの100,000頭を含む148,000頭が占領地から徴発され、また計画的に生産されてきた。
ベネルクス・フランス戦で90,000頭あまりのタヒ傷病馬が出たが、のちに回復が見込まれる病馬も含んだ数字であり、これらの地域から1940年8月までに34,000頭が新たに徴発されてドイツ本土に送られた(同書pp.17,27,30)。
また、ポーランドの農家から馬車15,000台が徴発され、バルバロッサ作戦に参加する歩兵師団に配属された(p.38)。
バルバロッサ作戦に動員された軍馬の推計値は600,000頭から750,000頭までばらつきがある(p.40)。
飼料は草の豊かな地域で、進撃が急でない時期には青草や干草を当てにできたが、当てにできない時期や地域もあった。
替え馬は不足しただけでなく、鉄道輸送のキャパシティを大きく食うため、本国から徒歩で連れてくるしかなかった。
現地調達の駄馬は小型で、重砲の牽引には使えなかった。10月以降、悪天候下での重労働で病馬となる例が急増した。重砲の牽引に適する大型の馬は特にロシアの寒さに弱かった(pp.43,44,46-48)。
1941年バルバロッサ作戦開始時から1942年3月20日までに、ソビエトのドイツ軍は任務に堪えない衰弱馬を含めて264,954頭を喪失した(p.50、原数字はOKW戦時日誌)。
1942年、ドイツは本国と占領地合わせて400,000頭の軍馬を新規に調達した(p.56)。
1942年7月28日現在、ドイツ第6軍は90,000頭の軍馬を持っていた。1942年11月23日に包囲の輪が閉じられたとき、軍馬は25,000頭に減っていた。
降雪後は草を食べさせることができず、消耗した馬は順次後退させていたことが一因である。これ以後軍馬は順次食料となってゆき、1943年1月19日、パウルス司令官は「最後の馬を食べつくした」と報告した(pp.55-63)。
イタリア戦線では多くのロバとラバが使われた(p.75)。
1945年2月1日までに国防軍が動員した軍馬は、陸軍1,060,106頭、空軍37,072頭、海軍1,556頭、合計1,198,724頭だった(p.103)。
ネコとラクダがいかにしてソビエトの第二次大戦での勝利を助けたか – ロシア・ビヨンド
https://jp.rbth.com/history/81283-neko-to-rakuda-ga-dainijisekaitaisen-de-shouri-wo-tasuketa
騎兵隊最後の戦争
第二次世界大戦は戦車の戦争であり、騎兵隊による突撃は過去のものとなって久しいのにもかかわらず、馬は戦争においてまだ重要な役割を果たしていた。
騎兵の全面突撃は馬の犠牲が大きかったのであまり行われなくなった。しかし、騎兵部隊は時に突破作戦や撤退する敵を追跡するために用いられた。通常、ソビエト軍の騎兵は馬を降り、正規の歩兵として戦った。
軽砲で武装したソビエトの騎兵は敵が出現を予期しないところに現れ、ドイツ軍を砲撃した。このような戦術は、騎兵部隊が全師団の4分の1をなした、1941年のモスクワの戦いの際に役立った。
戦闘の参加に加え、馬は舗装路のない地での貨物や砲の輸送に必要不可欠だった。ロシアの厳しい秋と冬は、トラックでは沼地や雪で動かなくなってしまうため、馬の方が有利だった。敵に包囲された際に馬はしばしばソビエト軍の糧食となった。
ドイツ国防軍も騎兵部隊を保持していたが、すぐに維持が難しくなった。ドイツ軍にはソビエト軍のように軍馬を無制限に用意することは不可能であった。ソビエト軍は極東の同盟国モンゴルから多くの馬を仕入れていた。
馬が主力のモンゴル帝国時代と、
ソビエトに倣って定住政策を行いモタリゼーションを経た共産時代以降とで、
「思われる」の状況はないんじゃない?
今では食肉用搾乳用だし。
小さい馬のほうが余分な肉がない分
体幹と体力が強そう
筋肉質なのは人間でも馬でも持久力はない
オグリキャップは大柄だったけど持久型だったし、体格が大きくても筋肉が大きければ問題ないのじゃないか?
チベット馬何かは一度も洋馬を輸入して品種改良したことがないので本当に小さい
モンゴルと隣で地理的にも宗門的にも縁が深く、出自がモンゴル人やオイラト人に遡る豪族とか仏教徒の北西トルコ人(今の中華人民共和区の区分ではカザフ族として扱う)とか
がチベットにいっばいいるのに?
土佐犬みたな犬を大量に調教して軍団組織して戦えば強そうな気がするけど、そういうことした国はあったのだろうか?
ローマが象をけしかけるカルタゴに熨されたことなかったっけ?
ドイツの軍用ドーベルマンとかそういうヤツじゃないの?
交易ができない
日本なんか17世紀に馬の使用が廃れて明治の頭まで人間がショイコや天秤棒で荷物を担いだり、特恵層・富裕層の乗物は人が担ぐ駕籠だったり、したろ。
「西洋絵画史」に良く登場するのはジェリコーの「エプソム(エプソン)の競馬」
馬の脚の動きがおかしい。ジャンプ中みたいだ。
横に長すぎる。引き延ばしたように見える
ギュスタブ・ドレも脚が揃っている
https://en.wikipedia.org/wiki/Epsom_Downs_Racecourse
日本競馬屈指の美形駒の一匹シンボリルドルフ号のプロポーションが西洋画のようだと言われていた
レース映像見たら、本当にそんな感じに走ってるよ。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1578792577/
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