東晋の英雄桓温について語る
劉裕と比べるとちょっと抜けてるところがあるけどそこがまた魅力
孫堅の遺体を引き取った桓階に繋がりあるのでは?
桓温が晩年の時に、突然一人の尼僧が遠方から来て、桓温に旦那となってもらい、屋敷に逗留した。
この尼僧は学才も挙動も常人とは違っていたので、桓温は鄭重にあつかい、屋敷内に住まわせた。
ところが尼僧は、入浴の時にはいつもきまって長い時間をかける。
桓温が不審に思って、覗いてみると、尼僧は裸になって刀を持ち、腹を裂いてはらわたを取り出し、
首を切り落として手足を細かくきざんでいた。桓温はあっと驚いて引き返したが、部屋に帰ったころ、
尼僧は浴室から出て来た。姿はもとのとおりになっていた。
桓温が正直に見たままを話すと、尼僧は答えた。
「お上(晋朝)に取って代わろうなどとする者は、きっとあんな姿になってしまいますよ」。
ちょうどこの時、桓温は帝位を奪おうと企んでいたところだったので、尼僧の言葉を聞いて意気消沈した。
この為に行動を慎み、臣下の本分を最後まで守り通したのであった。
尼僧の教えを信じた桓温は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄は謀叛を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。
この話の出典って晋書?
>>14
確か捜神記だか捜神後記だかが初出だったと思う。
でも晋書の本伝にも、省略された形でちゃんと載ってる。
さすが、毒にも薬にもならない畢卓(別に何をしたわけでもない
ただの飲兵衛)の伝は立てても、斉万年の乱で討ちタヒにした
馬敦には帝紀ですら全く触れない、現行晋書の面目躍如だな。
(馬敦については、潘岳が書いた追悼文が文選に引かれてるぐらいだし、
現行晋書編纂時に底本になった臧栄緒晋書には、ちゃんと記述がある。
なんで房玄齢たちは削ったんだろ? 太宗のワンマン? 単純作業ミス?)
時有遠方比丘尼名有道術,於別室浴,温竊窺之。尼イ果身先以刀自破腹,次斷兩足。浴竟出,温問吉凶,尼云:「公若作天子,亦當如是。」
晋書だとこれだけ。さらに詳しいのは『幽明録』『捜神後記』『冥祥記』あたり
レスありがとうございます。
こんな実際にあったかどうかかなり疑わしい話も正史である晋書に載ってるんですね。
それにしても尼僧の入浴を覗くとは桓温も相当なスケベだな。
晋書の評価は史記や魏書呉書蜀書に較べると遥かに低いからな…
使いに行った中国人たちが、
現地の女が川辺で水浴びをしているものだから、
連れ立って見に行ったそうなw
なんてこった…、将来の敵を見出してたなんて……(呆)
やる事が春申君と一緒じゃねえか…。
それとも皇帝になりぞこなったからか
桓温自体については、これほど個性的な人物もそうはいないし。
この時代を描いてて、劉裕を準主役っぽく据えている武侠小説がある
黄易著「辺荒伝説」
自分やっと第1巻の終わりまで訳してみたけどまだあと19巻ぐらいあるらしい
面白いけど先長すぎ
慕容垂などいつになったら出てくるのやら
なんか根拠があるのだろうか?
なぜだ
一般に広く好かれてはいる人物だとは思うけど、
スレを盛り上げるような熱烈なファンがまだこの板には登場していない。
>>37
王敦の場合は劉弘以来の江陵軍閥に乗っかった感があるからな~
王猛、慕容垂らの各国のナンバー2と比べると、単独で軍事行動を
起こせる実力を持っているだけ両名より作戦決定の自由度は高かった
のだろうが
北伐の頓挫は、いったい何がいけなかったんだろうか?
足場を固めきる前に焦って北伐やっちゃった感じだからなあ。
劉裕みたいに政敵をしっかり葬っておくべきだった。
桓温って、本当に面白い逸話が多いな。
王猛、謝安、孔明の従僕だった爺、劉琨の家妓だった婆などに、わざわざ面会を持ちかけている。
あんまり○伐としたイメージがないのが魅力になってそうだな。
そうでなければ凄まじい腐臭を遺していたはず。
通鑑だと、王猛は面会後に桓温の部下として従軍してるんだよね。
最終的には「やっぱ合わん」と江南行きを断ってるけど。
しかしその箇所の胡注、
「ここで王猛を○しておけば良かったものを」
はいくら何でも無いだろうよw
どうせ○したら○したで、
「あたら有為の士を○すとは。桓温は所詮逆臣の徒、人の情を知らぬ」
みたいな注を入れたんだろうなぁww
ところで司馬光って、苻堅の批判になると凄く筆が冴えてる気がする。
最近は、「実は好きというかアンビバレンツな感情を持っていたのか?」と
疑ってるんだけどね…。
訳分かんないとこにケチつけたりするし
いっちょ翻訳してみたろうかと思ったが
漢文を離れて幾星霜が経た俺には、荷が重かった……
しかし、戦績は凄いんだよな桓温
成漢攻略は言わずもがな
関中侵攻の北伐では、一進一退ながらも敵将苻萇(苻健の子)を討ち取っているし
洛陽快復における北伐においては、羌族姚氏集団を一蹴させている
北府軍も自陣営とは言え、きっちり政治的に弱体化するようにしむけており
大敗らしい大敗って本当に枋頭の退却戦ぐらいのような気がする
王猛や慕容兄弟たちがいなかったら、天下は目の前だったんだろうが
これこそ、実力足らずゆえの三国鼎立ではなく
英雄同士での高いレベルで拮抗した三国の抗争だったと思うんだよな
枋頭の退却戦にしても、袁眞が故渠開鑿を失敗した結果、船による輸送が
できずに補給が途絶したのが原因だしね。
袁眞について調べてみると、桓温の政敵だった殷浩と親友関係みたいだ。
前燕への北伐では、東晋政府が推薦して、それを桓温が受け入れた形だね。
もしかすると、故意にサボタージュしていたのかもしれない。
戦後に桓温が激怒するのも、当然と言えば当然かも。
結局、袁眞は反逆して前燕に投じるわけだけど、袁眞としては
「東晋政府ふざけんな! 言われた通りやったのに、少しは守ってくれよ!」
という抗議の気持ちがあったのかも…と思う。
と言うか、補給途絶から三ヶ月も敵中に対陣し続けた西府軍が精鋭過ぎる。
もしも万全の状態で戦っていたなら、慕容垂・慕容徳の軍団と壮絶な戦闘を
繰り広げてたんだろうね。
>>54
後方兵站の途絶・脆弱性は、祖逖、桓温、劉牢之等の
各司令官が北伐を実行するたびに
東晋政府はやらかしているからなあ
最早、確信犯の域だろ
郗超は謝玄抜擢のエピソードがやっぱ良いな
身内・他人の別なく傑物を登用することが出来る謝安と
嫌いなやつでも評価することのできる郗超との対比が面白い
桓温時代の西府軍はクセあるやつらが多いなあ
登用された人々は、郗超のタヒ後にタヒ者を弔うシノビゴトを書いて、
故人の冥福を祈ったっていう佳話に繋がってる
桓温の西府が、名門寒門関係なく人々を集めてたことの証左となる
エピソードだね
だから郗超が陰険邪佞の人物だとか、謝安にいいように振り回された
小人だとか評されてたりすると、少し違和感がある
謝安って、面会を求める相手が寒門の場合、シッシッと追い払っちゃう
人なんだけどなあ…
現代的な感覚だと、謝安の方がエグいと思える
>>56
なんかオヤジが溜め込んでたカネを気前よく散財したエピソードとかあったな
あと仙人っぽい連中との付き合いも好んだとか
桓温を皇帝にするために敢えて悪人になろうと無理してたようなところがある
親父の郗愔は東晋朝廷の信奉者だったのに、
息子の郗超は桓温に加担するどころか東晋簒奪を
煽ってるところすらあるってのがなんか面白い。
あるとき郗愔が桓温にあてて書いた手紙を郗超が見つけると
その手紙を破り捨てて父親の筆跡を真似て偽作したものを桓温に見せた
っていうエピソードがあるけど、郗超は何でこんなことしたんだろ?
現代的な視点からは、けっこう共感できる部分がある人物
宮崎市定御大は、朱序が肥水の戦いで裏切って第一の勲功を得たことを
酷評していたけど、個人的には桓温の指揮下にいた頃の活躍を考えると、
(襄陽籠城戦は言わずもがなだが)朱序はやっぱ凄えヤツだったと思うんだがなあ。
肥水だってたまたま勝ったから良かったんだけど、あれはどう考えても勝ち目がない
戦だったんだから、やっぱ度胸ある男なんだよ、こいつは。
鄧遐・朱序の猛将二枚看板は、西府軍って感じがして好きだわ。
桓玄と似たような末路を辿る可能性が高いし、後継者の桓玄も幼少だし
>>63
桓玄は末子だ、6人兄弟の末っ子(女子も名前は載っていないがいたかもしれん。)
桓沖による、桓温の息子たちの追放劇は結構サラっと流されるんだよな。
陰謀好きな東晋貴族たちのことだから、桓温の息子たちと言えども篭絡されていた
可能性は十分にあったと思う。
桓沖の行動は、人間として結構問題ある行為かもしれないが、「西府軍」という
組織にとっては最善の選択
野心勃々ながら結局裏切らなかったというところにも
人生の機微のようなものを感じる。
>>67
激情家だが、その分凄え情に篤いイメージがあるな。
冷徹で陰謀家な王猛よりは、ずっと仕え甲斐があるし
慕容恪とは違った意味で頼りになる上司だと思う。
その情の篤さこそが、結局簒奪できなかった一番の理由だと思うんだよなあ。
成漢の皇帝も○さなかったし、意外と寛大だしな
母親が片親で育ててくれた経緯があるから母親というものに対する思い入れは深そうなんだよね
いい人なんだなあと思ってしまった
実際は結構えげつないな
でも今手頃な全訳て無いのかね
平凡社のは品切れだし
でも劉裕は容赦なさすぎて好きになれない
>>79
確実な根拠は無いんだけど、あえて年端もいかない子を
後継者にすることで、
「建康政府に対して桓氏は内戦を起こしませんよ」
という意思表示をしたのかもしれない
桓温が桓玄を後継者に指名したのが、臨終の時だったことを
考えると、自分のタヒ後に兵乱が起こるのを避けようとしたんじゃ
ないか?
王敦みたいに、タヒ体を首チョンパされたくもなかっただろうし
…と、適当なことをふかしてみるw
>>79
母親は不明だが、桓煕は「世子」と記述されていることを考慮すると
南康長公主の産んだ子どもの可能性が高いと思うんだよね
(この人が嫉妬深くて、桓温が李勢の妹を妾にしたときにぶっ○そうと
襲撃かけるくらいの鬼嫁、なぜかその後、公主も李勢の妹に萌えまくって
仲直りするという変なエピソードになっているが)
そう考えると、桓煕が晋室に靡く可能性は相当高かったのではなかろうか?
因果関係は不明だが、桓煕・桓済兄弟は、桓沖暗○事件を起こして失脚している
桓温生前から、息子たちが父親の簒奪劇を快く思っていなかったのかもしれない
桓温って本当に甘いよなあ
南康長公主がもしも庾文君の娘だったならば
桓温ともども、親を蘇峻の乱で失ってしまったことになる
(桓温の場合父親になるが)
この二人、世説新語の賢媛篇から察するに
何だかんだ言いつつ、似た者夫婦というか、仲好さそうなんだよな
案外、公主が存命だったならば桓温も簒奪しなかったのかも
簒奪なんてどう足掻いても無理だな
桓玄は成功し掛けたけど三ヶ月で政権崩壊したし
あのタイミングで簒奪すると桓温の建てた新王朝は、
前秦に滅ぼされかねないような気がする
晋の残党の跋扈で国内を一統するのも大変なような気が
前者が晋書、後者が資治通鑑・十八史略ですね
晋書の成立が唐代、資治通鑑は宋代、十八史略は元代
最も古く成立した晋書の段階で、すでに桓温の時代より250年経過してるので、
桓温が実際にどういう言葉回しをしたのかは
考古学で、桓温の書簡でも見つからない限り分からないでしょうね
そういう訳で、本当の発言かどうかでいえば、
どちらも偽、と捉えておくのが無難ではないでしょうか
ありがとうございました。
その時代の桓温観が表れているんですかね。
863:名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/01/28(木) 00:54:24.03 ID:0JpWltiH0 [sage]
桓温の北伐について
369年7月以降の燕の龍城遷都議論、袁眞の石門攻略失敗による晋の兵站の停滞、
9月の慕容徳が1万余の兵を率いて桓温の後方に進出して糧道を攻撃、
そして慕容垂8千騎による追撃戦(追いついた場所は襄邑だけど)あたりは
有名だけど、それ以前の流れっていつも省略されるよね
ちょっと書いてみると
369年4月 桓温が歩兵・騎兵5万を率いて姑孰を出発
6月 晋の建威将軍檀玄が湖陸を攻略し慕容忠を捕虜にする
燕は下?王慕容厲を征討大都督として派遣するが黄墟において大敗(こいついつも負けてるな)
燕の高平太守の徐翻が郡を挙げて晋に降伏
晋の前鋒である鄧遐と朱序が林渚において傅顔を撃破(桓温伝だと慕容垂含む8万の燕軍を撃破)
燕の楽安王慕容藏が諸軍を統括して桓温の拒否を図ったが、桓温の攻勢を阻むことはできなかった
7月 燕のもとの?州刺史孫元は桓温に呼応して一族郎党を率いて挙兵した
桓温は武陽、次いで枋頭に駐屯した
燕の人口が約900万余、東晋の人口が(後の宋を参考にすると)約500万余と見積もられ
動員兵力では鮮卑の部族を擁している前燕の方がかなり有利となるものと予想される
(後年、30万~40万を徴集して前秦の侵攻の阻止を図った実績がある)
そういう中でわずか5万で勝ちに勝ちまくった桓温はやっぱ傑物だろう
(まあ?超の話を聞かなかったのはかなりの減点だけど)
どう見ても前燕滅亡寸前である
>>90
最近地図とにらめっこしてるのだが
晋書も通鑑も第三次北伐で桓温が胡孰を発した後、最初に屯したのが武陽ということになっているけど
南武陽(?州泰山郡)も東武陽(司州陽平郡)もどちらも作戦している地域から離れすぎてるんだよね
金郷~湖陸(?エン州高平国)
黄墟(?エン州陳留郡の小黄又は外黄周辺)
林渚(誰が調べたか知らないけど河南省新鄭市の北に位置したらしい)
泗水~?ブン水~濟水・黄河沿いに東から西へ動いているのが分かるんだが
上記の東武陽・南武陽だと逆に金郷より東に進出しちゃうんだよな
これって?ケイ陽郡の陽武県の誤りなんじゃないかな?
ここからなら枋頭も近いし
しかしずっと勘違いしていたが、慕容垂と桓温の交戦あったのは陳留郡襄邑で
前秦が追撃仕掛けたのは更に南の豫州の?ショウ国なんだよな
全然枋頭の戦いじゃねえ
>>101
自レスになるが、もしかしたら東武陽の可能性はあるかも
金郷から濟水越えて黄河も渡ればそこまで遠くはない
間違いなく敵中に孤立する位置ではあるがw
東武陽からだと?超の献策の通り短期決戦で?を陥落させれたかもしれないなあ
……と言いたいところだが、攻城戦用の大規模な器材は輸送船で運び込まないとキッツイから
結局シ卞水や目隹水、シ過水、潁水、汝水の方向からじゃないと厳しそうなんだよな
兵站的にはこの年が干ばつだった時点で頓挫の可能性高かったように思えてくる
胡注に東武陽って書いてあるよ
歴史地図で見ると確かに敵地に近いね
枋頭に移動する必要あったのか?
864:名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/01/28(木) 01:49:16.26 ID:0JpWltiH0 [sage]
桓温の北伐、特に第三回目は「声望を高めるため」と紹介されることが多いが
(三﨑先生もそう書いているけど)
個人的には、慕容恪によって侵食された河南~淮北を奪回するための純粋な軍事行動、
即ち東晋にとって安全保障上の危急の案件だったのではないのかなと思っている
362年、反復常なき呂護(この時は燕に属す)の動向から始まる前燕の洛陽攻略は
一進一退の攻防を繰り返しながら(途中で桓温による洛陽遷都の建議もあったりしたが)
363年4月には?陽太守の劉遠が魯陽まで敗走させられてしまい
ここに及んで5月、桓温に侍中、大司馬、都督中外諸軍、録尚書事、仮黄鉞が加えられる
その後姑孰に屯して以降は、土断やったりとか省官併職やったりとか桓温の改革政策が
矢継ぎ早に繰り出されることになったが、明らかに前燕の南進がトリガーになっていると思うんだよね
364年3月には許昌まで燕の手に落ち、翌365年3月に洛陽が慕容恪によって陥落された
桓温が揚州牧も加えられ入朝して以降、司馬勲の反乱(365年10月)や前秦の荊州侵攻(366年7月)
が相次いで起こり東晋の従来までの防衛ラインは破綻しつつあった可能性が高い
東も西も押しに押されている状況で果たして北伐の理由が「声望のために」であろうか?
桓温が後に簒奪を図った関係上、その行動は野心塗れに見られがちではあるが
さっさと反撃に打って出ないことには東晋もジリ貧だった可能性も否定はできない
ただ、慕容恪がタヒぬまで反撃に打って出ない辺りが何とも桓温的と言える
中華のWikipedia維基だとユ皇后の娘にされてるな
まあ、明帝のほかの夫人が記録に残ってないからそうなるわな
354年
4月 桓温と苻萇が、藍田で戦い桓温は敗れた
6月 苻雄軍は桓温と白鹿原で戦い、桓温は敗れた
9月 桓温は撤退した
結構負けとるな。こっからよく洛陽奪回までいくもんだ
>>104
白鹿原の戦いは二回生起している
一回目は354年4月藍田の戦いの直後に桓沖が苻雄を白鹿原で撃破したことによって
東晋軍が霸上まで進出したことが記述されており(桓温伝だと4月の藍田の戦いも桓温が勝ったことになっている)
二回目は5月末~6月にかけて桓温と苻雄が戦ったもので、桓温の軍は劣勢に追い込まれ1万余りの損害が発生している
桓温と司馬勳の関中侵攻は前秦が撃退に成功しているけど
丞相苻雄は戦タヒ、太子苻萇は戦傷タヒ、無理な徴発や青田刈りで関中の人民に多大な負担をかけており(大飢饉も発生している)
お世辞にも大勝とは言えない、むしろ苻堅による簒奪の時期も含めて長期間の停滞期に突入する呼び水になってしまったと
見ることもできる
枋頭の戦いで前燕から援軍要請が来た時に「あいつら桓温が関中に侵攻した時助けてくれなかったのに随分虫が良い話だな」
という発言が出たりしているところを見ると前秦には若干トラウマになっていたんじゃないかと推察される
ノモンハン並みによく分からん戦役だったんやなあ。胡族もタヒぬほど記録残してくれれば良かったのにな
肥水の頃まで活躍してるしキャリア長い
建康政府が姚襄をコントロールできてさえいれば…のifの方がまだ可能性あると思うんだが
王猛や薛強みたいな人格的に面倒くさい人間より扱いやすいだろ
簡文帝は間違いなく簒奪ストレスの犠牲者だよな
皇帝にとっての宮廷がストレスフルなブラック職場なんじゃないかって思ってる
(むろんその逆で姚襄を関中侵攻兵力として運用しても構わない)
漢中郡ルート(司馬勳))、上洛郡ルート(桓温)に加えて潼関ルートからの関中侵攻が可能になるから
限りなく苻秦を屈伏させることが可能な態勢を築けたと思う
むしろ東晋による中原回復の最初で最後のチャンスだったのではないかとすら思えてくる
桓温がどこにいたのかよく分からん
桓温は自分と反りが合わない人間は容赦なく排除するからな
殷浩、范汪は失脚に追い込まれているし、長年北伐に貢献していた鄧遐も罷免されている
おそらく桓温と王猛の確執は不可避だったろう
始平県令に任命された王猛がその法治の苛烈さから弾劾された逸話があるが
東晋でこれやってたら窓際一直線・・・と言うか苻堅じゃなかったらどこ行っても窓際だな
>>121
晋書苻堅載記の王猛伝に
「時始平多枋頭西歸之人,豪右縱橫,劫盜充斥,乃轉猛為始平令。
猛下車,明法峻刑,澄察善惡,禁勒強豪。
鞭○一吏,百姓上書訟之,有司劾奏,檻車征下廷尉詔獄。」
とあるから王猛は檻車に入れられて廷尉預かりになったっぽい。
苻堅って優しいよな。
慕容恪だったら軍法見せしめ用の囚人としてサクっと○しててもおかしくないw
「詔獄」の中華wikipediaでの説明「高等監獄」ってなんじゃこりゃ
マフィアの幹部が悠々自適な生活している個室みたいなものか?
そもそも一国の将軍がわざわざ招聘しに来てくれたというのにシラミ潰しながら応対する筋金入りのコミュ障だし
鳥山明とかあきまんみたいな感じだったんだろう
五胡十六国側を主役に描こうとすると悪役待ったなしなのが桓温の辛いところ
ピンチの演出もしてくれるし最後は負けてくれるしで秦・燕にとって理想的な悪役を演じてくれるのが有難い
東晋からも悪役扱いだが最後は身を退いてくれるわけで、本当に最高の悪役だぜ
>>128
カオスなのは前秦崩壊後ぐらいだと思うけどな
五胡十六国Ⅰ期:李特&劉淵挙兵(304年)~石虎タヒ亡(349年)まで →両晋と匈奴・羯の抗争
五胡十六国Ⅱ期:冉閔の乱(349年)~肥水の戦い(383年)まで →前燕・前秦・東晋三国鼎立からの大決戦
五胡十六国Ⅲ期:前秦崩壊(383年)~夏の長安制圧(419年)まで →カオス
五胡十六国Ⅳ期:夏北魏の抗争(419年)~北魏の華北統一(439年)まで →太武帝の統一事業
個人的な区分だが
Ⅲ期の小国乱立時期が長いんだよ
盧植先生が入れられてた囚人車みたいなやつじゃね?
ダークホース塞外の北魏・夏がとって代わるという番狂わせだしね
仕方がないね
東晋は石虎健在時は防戦一方だったからやっぱり反攻に出始めた石虎のタヒというのは一つの節目にはなるな。
石虎の代は何だかんだで安定期だしな
慕容恪が洛陽制圧するまで後趙系の塢壁が河南には残ってたみたいだからそれなりの遺徳もあったんやろ
何で建康政府は桓温のことは討伐しなかったんだろうな
>>141
誰の論文か忘れたが
少なくとも枋頭の戦いの前までは東晋政府内にも支持者は結構いたみたい
王羲之は殷浩・司馬昱に対し「意地張ってないで桓温と仲良くやりなよ」的な諫言してるし
改革路線の王彪之とかが桓温と対立するのは簒奪の意志を明らかにして以降っぽいから
桓温は「北伐積極派」として危険視されつつも一方で「改革路線」として一部の貴族層からも
担がれていた面が垣間見えてくる
反桓温で野合している司馬昱、殷浩、?希たちの政治に対するスタンスを見ていると
「東晋をより良くしよう」という気概に欠けている印象を受ける
後趙は黙って包囲されていたわけではなくてその状況を打開するために
北部に位置する拓跋部に対しては懐柔目的で人質だった拓跋什翼?ケンを国に送り返してあげたのだろうし
西南部に位置する成漢に対しては積極的に接近・宥和を図ったんだと思っている
この外交的な枢軸が機能すると間違いなく前涼が危地に立たされるだろうし
また慕容部も後趙全力での侵攻を受ける可能性が生じてくる(棘城における10万の遠征軍は対前涼より小規模)
謝艾が奮闘したリ桓温が征蜀したりと石虎は本当にツイていない男だわ
桓温が簒奪を決意したのは南康公主タヒ亡以降ではないかという仮説を提唱してみる
それまでは公主の壻殿という立場もあり実際のところは有力な藩屏という位置付けの人物だったんじゃないかな?
公主のタヒにより司馬家との姻戚関係が消失したことで北伐を含む各種政策上の決定的対立が不可避となり
行くところまで行かなければ王氏やユ氏みたいに解体・権力喪失にまで追い込まれるという危機感が増大し
結果桓温を簒奪にまで突き動かしたのではないのか?
同じようにチョ太后タヒ後、急激に謝氏が失速したのも外戚関係が崩壊したからという見方もできる
たしかに悪く言えば傀儡なところが目に余る
ただ桓温とは簒奪劇の直前までは割と仲良かったような感じがしないでもない
枋頭の敗戦後は普通に会談しているんだよな
劉裕を高めに評価している人らは曹操・曹丕を再評価している人たちと似た覇権主義的傾向を感じる
桓温支持層としてはもう少し奥ゆかしく控え目に簒奪の段取りした方が良いのではないかと思う
それだと寿命が先に来て劉裕もポックリ行っちゃう可能性が高くなるが
何度読んでも宮崎御大に『大唐帝国』でdisられる朱序にクスッとする
377年以降の朱序と謝玄の任地が交替していなかったらどういう戦況の推移になったであろうかは興味深い
朱序だと北府の総帥は貫目的に無理あったのかな?
ユ亮・ユ翼時代の西府府僚たちの上層部が桓温と対立しているっぽいのが興味深い
ユ希も含めるとこれって政争と言っていいレベルの対立なんじゃ
①殷浩(記室参軍)桓温から354年に弾劾を受け庶人に落とされる
②范汪(参軍→州別駕)桓温により362年に失脚させられる
③孫盛(主簿→参軍→諮議参軍)桓温の北伐失敗を記述した歴史書を改竄を防ぐため前燕に送付という嫌がらせ
④王羲之(参軍→長史)桓温と殷浩の仲直りを画策
⑤毛穆之(参軍)※桓温に与する
⑥周楚(参軍)※桓温に与する
ユ氏の権勢を削ぐために起用された桓温がその軍事的成功の反動から今度はユ氏一党から足を引っ張られる構図だろうか
会稽王は意外と全体最適追求して利害調整したのかも
陽夏謝氏を調べていて違和感を覚えたのが
謝安の祖父に当たる謝衡が西晋の段階で既に國子祭酒、散騎常侍の三品まで出世して
謝安の父である謝?ホウが太常卿、吏部尚書の正三品まで出世しているのを見ると
謝氏が東晋以降の新興貴族という評価はちょっと違うような気がしてきた
祭祀儀礼を専門的な家業としている学者の家系から謝尚以降軍事貴族に転向したような感じか
でも謝安が桓温の簒奪をキッチリ阻止できた背景には祭祀儀礼に通じた一族という看板があったお陰になるのかな
逆臣という属性抜きでまっさらな目で見てみたらそこそこ名文に見えなくも……
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1183107886/
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