漢民族の統一王朝って漢と明だけだよね
漢
隋→鮮卑族
唐→鮮卑族
宋→テュルク系
元→モンゴル族
明
清→女真族
よって漢の最後の後継王朝は陳
王名はその血統がその国で行き着く王祖、氏族名は主なものを記載
周、武王、山田氏
秦、始皇帝、秦氏
前漢、劉邦、文氏
後漢、光武帝、坂上氏
魯、白龍王、河内氏
燕、公孫淵、赤染氏
魏、曹操、高向氏
呉、孫権、蜂田氏
匈奴、頭曼単于、和薬氏
渤海、高歓、高氏
衛氏朝鮮、満王、筆氏
高句麗、東明聖王、高麗氏
新羅、奈勿尼師今、金氏
百済、温祚王、百済氏
李氏朝鮮、李成桂、李氏
清、ヌルハチ、愛新覚羅氏
あらゆる東アジアの王族の血統が日本に帰化している
東アジア統治の正当性は日本にある
15才で下山して軍入り出世して立派な将軍になったという
ある書によると中国に渡って活躍したともいう
怪しくないだろ、突厥の1択
東晋を簒奪した桓玄打倒を契機に地位を築き躍進、外には南燕や後秦を滅ぼし、内では五斗米道や?縦の反乱を鎮圧し、また政敵の劉毅や司馬休之を打倒、東晋内の第一人者としての立場を確立し、恭帝より禅譲を受けた。
土断などの経済政策で財政の再建も成し遂げている。
一方で政敵の粛清の苛烈さや東晋二帝(安帝・恭帝)の暗○、いちど奪還した長安と洛陽の即時失陥についての批判も受けている。
徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実際に住んでいたのは南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)である。
宋書では漢の高祖劉邦の異母弟である楚元王劉交の子孫と記されているが、実態は東晋の中級官吏の出身である[1]。曾祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移った。
[1]^ 『宋書』巻1「漢高帝弟楚元王交之後也。交生紅懿侯富……混,始過江,居晋陵郡丹徒県之京口里,官至武原令。混生東安太守靖,靖生郡功曹翹,是為皇考。」また、以下特に断りなき場合は『宋書』巻1による。
その宋ではなく趙匡胤が建てた宋な
趙匡胤自身は遠祖は?郡蠡吾県の人である前漢の名臣の趙広漢の末裔を自称していたが、このことは早くから疑問視されていた。例えば日本の江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、「蜀漢の劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに出しているほどである。
宋の建国者の趙氏は、南方系の出自とされていたが、近年の学術研究では疑問視されており、チュルク系民族突厥である可能性が指摘されている[3]。
楊海英は、「960年、後周の趙匡胤が帝位につき、国号宋。趙氏一族もテュルク系出自との説あり」と述べている[5]。
突厥である可能性ってたとえば具体的にどういう記述を言ってる?
特に永楽帝の父は蒙古人で母は高麗人というのはよく知られた話しで、当時の中国人でもモンゴルでも周知の事実だった
うん?永楽帝の父親は朱元璋のはずだぞ?
母親が聖女馬皇后であるかはこれは疑問符がつくが
まったくのデタラメとまでは思わんが反漢民族親遊牧民のバイアス強いからなあ
王族は東方からの出身だから
羌とは言えないんでないの
彼の実母は高麗人であった
永楽帝は高麗人の女性を多く後宮にいれていた
男性性の観点から女性の好みはその男性の本性を表しているものとなる
韓半島で政変が起きて高麗王朝は李王朝に変わったが永楽帝の好みは変わらなかった
この時代の話は混みいっており理解が難しい
大王世宗(テワンセジョン)という韓流ドラマに詳しい
これは面白い大河ドラマだぞ
http://blog.livedoor…rchives/3123851.html
朝鮮王太祖李成桂の出自については、女真人説とモンゴル人説とがある.
女真人説
李成桂が女真人であることを示す状況証拠が多々ある.
1)太祖李成桂の生地の咸鏡道は、15世紀までは女真族の領土であった.その後、第4代世宗の時代になって朝鮮の領土となった.
2)李成桂の父李子春は、高麗王朝の「咸鏡道万戸兼東北面兵馬使」であり、父のタヒ後、李成桂自身もその官職に任命された.
3)李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結び、多くの女真族を従えていた.
4)李成桂の高祖父李安社も元朝の地方行政官ダルガチ(達魯花赤)であり、また、5000戸の「千戸長」として高麗の女真族の統治をしていた.
5)李成桂の外兄弟の三善三介は、女真族の族長である.
モンゴル人説
李成桂が高麗系モンゴル軍閥であるとする説はこれまでにもあったが、
最近になって、モンゴル人であるとする説が出てきた.
1)李成桂の高祖父李安社が元から任命を受けた「千戸長」はモンゴル人以外には殆ど就任できない官職である.
2)李成桂の直系4代の祖までモンゴル名を持っており、李成桂自身もモンゴル名があったと推定している
● 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次のような記事がある。
「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。・・・」
これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチ(徴税官)だった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。
彼は女真で育ち(女真の族長になった)、
腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。
この記事を見ると、太祖も女真族としか考えられない。←←←
「外兄弟」には二つ意味があり、一つは「父の姉妹が産んだ子」もう一つは「姓が違う兄弟」である。
遊牧民や狩猟民のような族外婚制をとる人たちは、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とするから、
父の姉妹が嫁に行って産んだ従兄弟を「姓が違う兄弟」と呼ぶのである。
だから、李成桂の伯母/叔母が女真の族長に嫁入って生まれたのが三善三介であるとするなら、李成桂の祖父は女真の族長と
結婚関係を結ぶような別の族長であった証拠である。
どちらの意味にしても、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、
太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。←←←
『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、
なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、
この「三善三介」についての記事である。
●なお、 最後に注意しておきたいことがある。「ジュシェン」という種族名を「女真」と写すのは、朝鮮と宋の漢文史料である。
遼・金・元・明の漢文史料、正史はすべて「女直」と写す。
ゆえに「建州女直」はあっても、「建州女真」という言葉は存在しない。
人種・宗教に関係なく「広義の漢民族」と呼べるんでは。
「漢人種」と言うべきだろう
ササン朝以降はほぼトルコ系やアフガン系の王朝が続く
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1650744882/
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