中国史上最強の軍師は一体誰になるの?
政治面での能力も加算したら、
やっぱり諸葛亮になるんじゃないかな。
その基準で選ぶなら、少なくとも張良のほうが上
軍師の定義(『アジア歴史辞典』「軍師」の項目、宮崎市定氏が担当)
中国の官名。後漢ころから史上に現れる名で、三国時代に急に広く用いられた。
軍参謀ともいうべきもので、魏の曹操の軍師荀攸、呉の左軍師朱績、
蜀の軍師将軍諸葛亮が特に有名である。(中略)
南朝以後は置かれないことが多く、梁代を最後として消滅し、
代わって御史をもって監軍とする風が起こった。
太公望、張良、劉基その他にはご退場願おうか
1.参謀、補佐的立場から(>>5)
2.軍事面での作戦立案をして(>>28)
3.功績をあげた人物
で、いかがか
張良の場合は外交顧問、ネゴシエーターとしては、中国史上右に出る者はいない怪物なのだろうけど
作戦参謀、または国政のグランドデザインの立案者としては、評価できないなあ
反秦の兵を起こしてからの戦績は振るわないし、政治面に関しては完全に放り投げてるから
個人的には、万能かつ、器用貧乏に陥らなかった王猛が最高クラスかな?
そうとう亀レスだが。
>>7
『史記』読んでると、張良と項伯との関係っって「性悪女とそれに翻弄されてるエ○オヤジ」にしか思えない。
項伯は張良にベタぼれ。張良はその気持ちを十分にわかってて、項伯を利用してるように思える。
自ら敵の重臣をたらしこむなんて芸当ができるのは、中国史上張子房ただひとり。范蠡ですら西施つかったんだから。
でも男って報われないってわかってても好きな女(張良・項伯は男同士だが…)のためには一肌脱いじゃうんだよなぁ。そういう男の哀しい性を描いた『史記』中随一の名文だな。
張良(&劉邦)は項伯には報いたじゃないかw
いや、だから、項伯は張良に恋愛感情を抱いてたように思えること。「義」とか「侠」だけじゃ、あんなに張良の頼みをきかないでしょ。
単なるオレの印象論なので、どうちゃうねんってツッコマれても困るんだが(趣味板なので許して)、鴻門の会前あたりのやり取りは、『史記』の大好きな「任侠」話(伍子胥の逃亡譚とか荊軻や田光とか)とはまた違うニュアンスがある気がするんよね。
項伯が「報われる」には張良とアーッ!な関係になることで、いくら「射陽侯」に封ぜられたところで、「報われた」ことにはならないのさ。
話がどんどんでかくなっていった昔話の人物ばっかりが最高って言われるな
張良は内政や補給は蕭何、敵を陥れる策略は陳平に任せて軍師に専念できたわけで、
その3人分の仕事に加えて軍の総司令官まで全部一人でやる羽目になった孔明よりは
楽な立場だったな。
ただ、結果として、蜀漢は西漢の三分の一以下になっちゃったな。
携帯なので漢字変換できなくてごめん
名将と軍師はどう区分したもんだろうな?
意思決定者(君主や総大将など)ではなく
補佐的立場から献策し成功せしめた人物であれば
自身有能な将軍であれ軍師と呼称されているようだ(例:山本勘助、黒田官兵衛等)
孫武
特筆すべき献策
1.漢水において楚の迂回作戦を逆用し、奇策によって撃退している
2.楚の首都・郢及び紀南を水攻めによって陥落させている
(安能務 春秋戦国志(中))
兵法の祖と呼ぶにふさわしい、また軍師とされて然るべき
冴えのある献策をしている一方、彼自身軍を率いる身であり
戦果からしても、伍子胥と並ぶ名将である
孫武は名将であり、同時に軍師と呼んでよいだろう
有能な将軍や政治家を勝手に軍師にするなよ…
将軍や政治家であり軍師でもある
何も問題ないだろ
軍師ってのは主導的な立場にいたら成立せんだろが
呉起
76戦64勝12引分
秦、韓による侵攻の絶えない西河を確保し続ける
後に楚に移り富国強兵を実現する
特筆すべき策(献策ではない)
1.「長柄と赤豆」「兵と寝食を共にし、その膿を吸う」等、人心掌握/士気高揚策
2.西河の戦い 敵兵を故意に逃がし、報復の軍を誘き寄せた上で、一気に叩き無防備になった敵領を奪う
3.陽狐の戦い 千の精鋭をもって五万の鈍兵の範とさせ、五十万の敵軍を破る
(安能務 春秋戦国志(下))
奇策を使い、敵の心理を読みきった策を練っている点、軍師と呼称されておかしくないのだが
呉起には参謀として献策するエピソードが見受けられない
これは長らく西河の太守として、対秦・韓防衛の意思決定者だったことが影響しているだろう
また、何よりも人心掌握の達人であり、それにより強兵化するという側面が強い点
さらには不敗の将軍としての「戦績」が残っていることから考えても
彼は軍師ではなく名将、あるいは知将と呼ぶのが相応しいのではないだろうか
范蠡
特筆すべき献策
1.対呉闔閭戦における「決タヒ隊(罪人部隊?)」(wikiより、罪人は春秋左氏伝)
春秋戦国志(中)では、要塞を築き、前もってトンネルを掘っておき
そこから夜襲をかけて闔閭を撃退したことになっている(典拠不明、グーグルでも検索できなかったため怪しいかも)
2.対呉戦略 呉に面従腹背し、裏で七術(美女計、贈賄計など)を巡らし
戦略的奇襲をかけることで呉を弱体化せしめ、後に制圧した
(安能務 春秋戦国志(中))
直接戦場で行った献策としては、典拠不明の要塞→トンネル→夜襲はともかく
「決タヒ隊」は奇策中の奇策である
さぞかし呉軍も唖然としたことであろう
また、その後においては戦術面においてこそ特筆するエピソードはないものの
戦略・謀略面での献策は越の成功をもたらした主因に他ならない
対呉防衛戦で、何度も将軍として指揮をとっているものの
敗北した際、呉に連れ去られた越王句践を諌め補佐し続け
その後も知恵袋的な立場にあったことから考えると
比較的参謀色の強い、軍師らしい軍師と呼べるかもしれない
×(背水の陣槌と金床戦法に近い)
○(槌と金床戦法に近い、点在した城の兵を槌、背水の陣を金床)
銀英伝でバーミリオンの戦いでラインハルトが採った戦法とも似てるかも
あとはwikiとグーグルでちょこちょこ調べつつ書いてみました
誰が最強の軍師か、ではなくこの人は軍師か名将か、で書かせてもらっていましたので
スレのテーマとは微妙にズレてて申し訳ありません
>>39
林彪=張良
彭徳懐=韓信
朱徳=膨越
周恩来=蕭何
毛沢東=劉邦+呂后
せっかく同郷の友人達と天下取ったのに、最後みんな
○してしまう。そっくり。
それがなければ劉備に例えられたのにね。
数少ない天寿を全うした朱徳の方が張良かもしれんが、
ゲリラ戦だしw
超現実主義者の林彪が天下取ってたら今のような中国
にはなってなかった気もする。
女の兵士は10万人いたらしい
このような人物は中国では五千年に一人しかいないといわれているから。
軍を率いる司令官は外せ。諸葛亮その他は失格。これが兵法家だったら違ったのに・・・。
彼の献策はひとつも間違っていない
主君を間違えた
諸葛亮は「最強」ではないが、「最高」な軍師の中の一人、と言ってみる。
「最強」の定義が難しいし、何ともいえない。
本来は政治家~必要性?から自ら遠征軍の指揮(総大将)に。
管・楽への憧れもあったかも。
又、彼を惜しんだ後世の人たちや、三国志の作者自身が、
諸葛孔明をスーパー軍師wにしたてた。。。ってのが皆わかってるけど、つい、言ってみる。
腕っ節が強い軍師・・・日本で言うと黒田長政とか鍋島直茂みたい人になるのかねえw?
その言い方では「張良だろ?居なかったら劉邦は勝ち抜けてない」も成立してしまう。
太公望 かな 兵法書のこっているしな。
さすがにそれなない
孫子と孔明は違うの?
諸葛亮は政治家。
人材不足故に、致し方なくじゃないかな
もしくは完璧主義で配下の能力を100%信頼することはできなかったか
法正=張良
ホウトウ=韓信
諸葛亮時代の蜀は大規模な人員削減してる
浮かせた分である程度北伐の資金に充ててると考えられるしな
劉兆玄=劉備
馬英九=孔明
馬英九前世是孔明
這是台灣的一位老師感應到的
しかも洪武帝ですら粛清しようとしなかったほどの人格者だったみたいだし。
朱元璋が功臣キラーと化す前にタヒんだからな。
生きてたら無事だったかどうか分からんよ。
実務的な選考に入りましょうか
あいつなら劉邦の横に張り付いて作戦言うだけでも勝てそう。
相手に要求されるからねぇ。
張良などの意見はよく聞き入れたが、さて韓信の意見ならどうだろう。
はなれたところでの成果なら事後追認できるけど、それとは違ってくるだろうな。
軍師として帷幕の中にいても仕事がないと思う
李靖、韓信、孫武、呉起は将軍としても軍師としても一流。
>>119
韓信は自ら先頭に立って突っ込むというより作戦、戦術型だから
軍師で作戦考えるだけでも同じこと。
劉邦と韓信では、そうスムースにいくか? という話。
軍師として有用になるためには、それを用いる相手が重要ってこと。
それは軍師の仕事でも将軍の仕事でもない
軍師は、そもそも普通の臣下とは違う。
主従関係というよりも師弟関係に近く、軍規のある将や兵とも別物。
参謀を務める説客の様な感じ。
張良の場合は、「いずれ、帝王の師となる」と言われた様に軍師である。
韓信は将であり、軍師ではない。
軍師将軍だった諸葛亮の場合、これは張良の頃と軍師の形態が変化している。
つまり、軍師が実際の参謀職として運用された時代。
軍師という立場は、その役割こそ共通点も多いが、時代によって大きく異なる。
だから、一つの定義でまとめず、時代背景を考慮して軍師かどうか判断すべき。
>>125
張良の方こそ「軍師(軍事参謀)」ではないだろ。
ありゃあ、説客・縦横家の類だ。
張良に明確な国家経営または軍事ドクトリンがあったんなら
百歩譲って軍師と呼んでやってもいいが、
あいつはそんなもの持ち合わせてねえ。
ひたすら、外交・調略の鬼に徹している。
それに比べたら、諸葛亮は軍師そのものだよ。
どちらかと言うと、古代における宰相に近いけどな。
>>130
俺は125じゃないが、wikiにはこう書いてあった。
「諸軍閥は軍師を文字通り「師」として、帷幄で謀略をめぐらす任務を託した。群雄と軍師との関係は
君臣の間柄ではなく、軍師は起居進退の自由を有する賓客として遇された」
これだと125が合ってるように思われる。それに歴史的に「張良は理想的な軍師」とした上で、軍師という
言葉が使われて(定義されて)きた。張良が違うってんならお前様の軍師イメージが違ってるんじゃない?
>>131
軍師観の問題ならば、論ずるまでも無く
そういった制度が存在しなかった秦漢においては、
間違いなく張良は分類上単なる「賓客」に過ぎない。
軍事にも口を出さない(戦下手だから出せない。)、
内政問題については、言及しているところもあるが
(旧六国を復興させるか否かの問題で)、実質ノータッチ
とても、軍事・政務・国家戦略すべてにおける補佐を
任せれる人材とは思えんのだが。
政治の荀彧と軍事の荀攸、賈詡みたいな。
確かに外交や調略に長けていたが、項梁の下に着く以前の劉邦の元では、
軍事的な助言も行っていたはず。
兵法に関する知識もあったとの事なので、軍事ドクトリンが皆無という
訳にも行かない。
当時の軍師に、明確な国家運営のビジョンが必要かどうかは不明だが。
>>136の意見が結構的を得ていて、軍師観というものは各時代に異なった
ものが存在していた気がする。
だから、昔の人が「軍師です」と伝えていたら軍師なんじゃないかとw
昔っていうか同時期の人が軍師認定したら軍師ってことでどうかね?
後生の軍師認定だと俺らの軍師認定もokになっちゃうし
それも一つの定義かもね。
ただ、軍師だと言い切ってくれてる人が同時期にいるかどうか・・・・
諸葛亮なんかは、軍師将軍だから軍師でOKだと思うけど。
日本での知名度は孔明より上。
張良という面もあるでしょ
>>147
戦略目標の策定に関しては実際信用できる記述がほとんど見当たらない。
有名な隆中対にしても陳寿の創作である可能性が大きく、実質信用できそうな
彼の戦略的進言と言えば劉表がタヒんだ際にケイ州を乗っ取れ、と言うこと程度。
呉との同盟はあくまでも主として動いたのは魯粛の方ですしね。
戦略家としての側面は劉備生存中はほとんど見られませんよ。
そんな事言ったら周瑜の遺書のような筆記した戦略以外の
面談による献策はほぼ全て信用ならないということになる
>>149
密室で人払いをした状態での会話、と言うことが一点。魏略での発言内容と
かなり違う点が二点目。
呉との同盟が重要、と言う割には魯粛が来るまで同盟締結に動いた形跡が全く
見られない。発言内容の中に劉備が北伐する際わざわざ「ケイ州から上将が
一人北上して」とまるで後の関羽の動きを見てきたかのような発言。こう言う
場合、普通はケイ州からも軍隊を北上させて、と言う表現になる。状況を知って
いる後世の人物が創作したと考える方が自然かと思います。
合議の場での発言は記録として残されるでしょうからある程度信用して良いかと
思います。しかし隆中対や、魯粛と孫権の密談などは額面どおりに取らない方が
良いかと思います。
>>150
>まるで後の関羽の動きを見てきたかのような発言。
横レス。この辺は説得力あるな。でも天下三分の計が無かったとするのは早計では?
だってwikipediaによればその考え自体は特に目新しい物ではないんでしょ?
諸葛亮だってそのくらい考えつくでしょ。
スマン、冬廚みたいな文章になったがそうではない。
>>151
天下三分については普通にあったと見ても良いですが、劉表健在、後継候補の
息子達二人も健在、と言う状況で、誰の不平・反乱も無く、しかも曹操の動き
を抑えてケイ州を取る、と言うのか。
しかも曹操は何時南下してくるかわからない状況、で劉備が天下三分を聞いて
そこまで諸葛亮に傾倒するものか?となると、時期的に適当な進言とは言えない
かと思います。天下三分自体が古来よりあった計であれば尚更、そこで劉備が
尊重するような類の話ではないと思います。
諸葛亮が主にケイ州でやっていたこと(税収を増やし、国を安定させた)を考慮
するとまだ魏略の説の方が説得力があるかな、と思ったりもします。真偽は別に
しても。
まぁ、今となっては真実はわからないのですから、こういう可能性もありますよ、
とか考えた方が考察する上では面白いじゃないですか。史書の言う通りなんて
言ってしまったら議論の余地が全く無くなりますからね。絶対こう、じゃなくて
こう言う可能性もあるよね、て感じです。
>>153
>劉備が天下三分を聞いてそこまで諸葛亮に傾倒するものか?
盗りたいけど義に悖ると悩んでいたところに、名分を与えたとかじゃないかなぁ。
>こう言う可能性もあるよね、て感じです。
まぁ、こちらもそういうレベルでの話です。
>>154
諸葛亮は劉備に名分らしい名分は与えられていないですね。そう言った
記述は一切見られませんので・・・。
益州攻略をためらった際、劉備を叱咤激励して後に劉ショウを遇すれば
義に悖ることはない、と言ったのはホウ統ですからね。しかもそれ以降
もホウ統の進言に従い、益州攻略を行っている点から見ると軍師的な役
はやはりホウ統の方が担っていた、と見る方が自然かと思います。
>>155
劉備は年若く門地も無く実績も無い諸葛亮を
辞を低くして迎え入れた。(部下の反発もあるくらいの高待遇)
これは優れた見識を持った若者であるからだ。
次に高い地位を与えたのは、この若者は
劉備の最大の危機を奇策をもって助けたからである
口だけではない見識の持ち主であることが実証された。
ホウ統の見識も優れていたため実績を積ませる為に
入蜀に同行させた。残念ながら実績を残す事はできなかった。
軍師は優秀であることはもちろん、君主の敬意が必要であろう。
その意味では孫策の軍師は周瑜ではなく張昭といえる
あと細かく占領に手を貸したとかで
最強の定義はとても難しいと思う。
何故なら私達から見た最強か主君から見た最強かの違いがあるからだ。
例えば、荀彧は優秀な軍師だったとは思うが最後は曹操と仲違いをして非業のタヒを遂げる。
つまり主君に信用してもらえなくなった軍師は、果たして主君から見たら最強だろうか??
すなわち主君から見た最強の軍師は、後の歴史でメジャーではない人物でもいいのではないか?
ちなみに郭嘉がタヒんだ時に曹藻は涙を流し家臣団に「君たちは私と同じ年ぐらいだが、彼(郭嘉)は若かった。私がタヒんだら後の事を頼むつもりだった…」と言ったと言われている。また、赤壁の敗戦後には「郭嘉が生きていたなら…」と彼のタヒを嘆いたと言う。
このことから主君との関係が良好で、功績を残した軍師が最強だと思う。
超長文スマン
軍師の能力の一つとして忠誠心はあるだろ?
野心が高い人は知謀が冴えても軍師としてはマイナスだし
君主を度々変える人は見る目が無いと言えるだろうし
ところでこのスレの認識として李世民の軍師って李勣・李靖なの?
普通は房玄齢、杜如晦じゃね?
あれか政治家だから軍師じゃない理論?
でも君主レベルでの軍師は普通政治家じゃね?
夏王朝を倒し、殷の湯王を支えた伊インや、殷王朝を倒し、周の文王と武王を支えた太公望はどうなの?
こいつらも最強名軍師の一人だと思うが。
どこまで事実なのかわからない。
李善長を推す
軍師とはちゃうが管仲もいいな
「曙に怠るなかれと戒めよ」
はいい言葉だと思った
あれ?これ管子だっけw
三国時代なら、 郭嘉 賈詡、龐統 法正 あたりじゃないかな。
中国において、偉業を成すものは軍師を必要としない場合が多い。
諸葛亮の蜀は結局天下統一できず、その後すぐ結局国は滅んだのだから
最強ではないだろ。
諸葛亮を挙げる人が多いのは、いかにも判官贔屓が好きな日本らしいな。
すぐ滅んだ?バ○じゃねーの?
はっきり言ってやろう。
軍師なんて代物は中国国内が分裂して
地方勢力同士のどんぐりの背比べの時
にしか役に立たない存在だ。
所詮は同レベルの弱小勢力が相手を
出し抜くための小細工を弄する時に
しか役に立たない人種だよ。
その証拠に世界を席巻したモンゴル帝国には
圧倒的な騎馬隊は存在しても軍師なぞは存在しなかった。
最強の軍師というものは最弱な勢力にしか
存在しない。
最強の勢力には軍師は不要。
大兵・強兵に小細工は不要。
正面から激突し武力制圧すればよいだけの話。
軍師を語る前に、なぜ軍師が必要になってしまうのか
よく考えたほうがよい。
諸葛孔明が有名なのは蜀という国が弱すぎたからだ。
とりあえず、天下統一もできなかった時代の軍師が中国史上最高はないだろうな
ってか、書き込まれている内容が史記や三国志ばかりで萎える。
>>186
つ耶律楚材
その最強の軍勢が貧弱な軍勢しかもたない宋を滅ぼすのにどれほどの年月をかけたでしょう?
また、武力制圧の結果、中原をどれだけ支配できていた?
あなたも軍師がなぜ必要なのか、考えたほうが良いな
>>186
そういう奴らに勝つ為の存在が「軍師」なんじゃないの?
存在感って意味だと張良だと思うが…
やっぱり孫武さんに一票
耶律楚材が軍師なの?彼は中国統治の行政官ではあったが、軍権はなかっただろう。
優れた人材ではあるだろうが、そもそも軍師ではない。
元はおよそ100年弱の帝国だったが、元が滅んだからといってもモンゴル帝国が
完全に滅んだわけでもない。世界各地になおもハーン国として残存していたがね。
第一、国家の歴史の長短で軍師の優劣を論ずるならば、著名な軍師がいたはずの蜀
が、軍師のいない元より歴史が短かったのは皮肉だね。
君こそ不勉強もはなはだしい。
ま、中国人同士の戦いで、そもそも中原も制することすらできなかった
蜀の軍師が中国史上最高ではない、という意見には賛同するが。
だが、軍師がいなくても国家は成り立つ。所詮、軍師は個人レベルの才。
国家にとって必要なのは軍師ではなく、官僚制というシステムだった。
科挙がそのいい典型例だ。
元が短命に終わったのは、貨幣制度の混乱と官僚制の欠如だよ。
軍師の不存在ではないな。
軍師よりも官僚が大事。
個人の才という偶然の要素に依存する軍師などというものは
国家にとっては一時の存在に過ぎない。
国家が継続的な存在であるにはシステムとしての官僚制度の
方がはるかに必要であった。
軍師なぞ論ずるに足らん存在だ。
後世のお手本になってるんだからな。
理論構築して且つ実践して結果を残してる。
後世の人が優れてるというなら、その根底に孫武の理論が下敷にあるのを考慮しないと比較にならんと思う。
しかし、孫武も同じか。
前時代の理論が下敷あったかもしれないのは。
あぁ。思考が袋小路に入ってきた。寝ようw
蜀の軍師が中国史上最高ではない、という意見には賛同するが
というわけで陳平に一票
項羽を謀略で退け、劉邦タヒ後の漢朝の危機も救った忠臣だし
文武両方こなせたのは彼くらいだろ
参謀かつ将軍として当時の大国を滅ぼし、丞相として国の教育、風紀を大幅に改善した
君主:劉邦
内政官:蕭何
軍師:張良
策士(闇軍師):陳平
将軍:韓信
オールラウンダー:曹参
漢初が分類は一番わかりやすいな。
軍師は張良タイプの人材だ。
三国志だと、ジュンイク・ホウトウ・(孫策時代の)張昭・グホンあたりか。
演義だと李儒も。
孔明は史実はもちろんのこと演義ですら軍師でないが
巷のイメージ(京劇?)だと最強軍師なのは間違いない。
ちなみにカクテイイク郭嘉らの魏の参謀や法正は陳平タイプ、
呉の都督たちは将軍タイプな。
諸葛亮は蕭何系、司馬イは君主だ。
なぜ荀攸入れない?
中国の文化で軍事国家として存在して大規模な豪族の反乱が北伐中に起こらなかったこと
この二点は蜀の規模で考えても北チョン以上にプロハガンダ教育が行き届いていたのか納得させるほど行政システムが優れていたか
どちらにしても軍師じゃないがやっぱ非凡ではあるし時の運と戦った悲劇性も加味されるわな
相当厳しく選考すれば張良 孫武 太公望の三人がベスト3だな
この中の順位は適当に人によって分かれるだろう
一番軍師らしいのは張良だけど他の二人も劣らない点がある
中学生特別賞は孔明。
孔明・・・大軍の行軍や維持などの‘管理’をしていた
こんなイメージなんだよな
実際北伐は誰かの配下として策略を練ったわけじゃなくて自分で軍を率いて戦っただろ?
しかも奇抜な作戦もないし彼は軍を率いる大将、つまり方面指揮官という感じだと思う
もし配下にお前らがいう張良や孫武がいればそれを群しとして用いてたと思うよ
結局長けてたとかは置いといて孔明の北伐は軍師というより大将の役割をになってたと思う
外交内政顧問→宰相→遠征軍総指揮官だもん
「秦の統一大体こいつのお陰」って一文、サラっと書いてるけど割と凄い事してると思う。
>>232
いまでも使われてる計だな
「我が国の素晴らしき先人達のおかげで中華人民共和国の世界統一が成し遂げられた。
これぞ我が国の兵法(キリッ」
なんて時代がくるのだろうか
知名度もルックスもいい。まさに最強にふさわしい
結局は孫武じゃね?
楽毅、呉起とかの戦国時代の人間はもとより張良、曹操ほとんどの名将は孫子を学んでたし
みんな孫子を基準にそっからどう変えてくかって問題だったんじゃね?
>>235
揚げ足取るようで悪いけど呉起(呉子)は違うでそ・・・
張良も太公望の六韜と言われてるし
まあでも確かに根本をつくった人がいてどれだけそれを学び応用できたかってことだね。
確か六韜なんて内容がほとんど無くてしかも書かれた時代が古すぎて張良とかの時代じゃほとんど意味なかったらしいぜ
謎らしいね。まあそもそも張良がもらったという話もなんか怪しいし。
じゃ、信陵君をプッシュしてみる
単純明快ってわけでもないけど、今より縛りは少ないよな。
今、国にとって何が勝利かも明確では無い時代にどう勝利し、それを維持するか
ハードモード過ぎる現代における参謀の役割とは。現代で一線で活躍するブレーンと呼ばれる人らは故人を遙かに凌駕しているのでは
一家に一人欲しいのが陳平
嫁をNTRされるぞw
多くはない
独裁できた期間自体短いから失敗も少ない
謀略策略政略奇策に加えて見事な引き際
色々脚色されてるんだろうけどそれだけの異才を放ってる
自身が聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るんだぜ
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだな
その世界ではやたら有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報だな
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタだ、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識だろうぜ
功績と保身の上手さは范蠡に匹敵する
李衛公問対の最後で李靖は唐太宗に「歴史上誰の兵法が最も優れているか?」
と問われて「兵法には3つがあり一に道、ニに天地、三に将法だ」と答えている
そして戦わずして勝つが上、戦って必ず勝つが中、戦って決して負けないが下、としている。
この内道を知っていたのが「張良、范蠡、孫武」
天地を知っていたのが「楽毅、管仲、諸葛亮」
将法を知っていたのが「謝安、王猛」
と書かれてる。
唐代だからまだ劉基とかはいない。
演戯成立前から意外と諸葛亮の評価が高いことが分かる。
またこの中じゃ張良は相当に高く評価されている。
君主としては項羽も劉邦も駄目で劉邦が勝てたのは張良やショウカが偶然集まったからにすぎず
光武帝こそが賢明な君主だ、と言われている。
に納得だわ。唐代にできたからそもそも百戦奇略すらないんだよな。
孫武を高く評価してる所が李衛公問対を信用しづらくしてる。
正直龐統の評価高いのは疑問
よく長生きすればって言われるが
戦死だしなあ
そこまですごいの?
実績が無いから判らない。前評判は高くても馬謖とか趙括の様になっていた可能性もある。
縦横家もそうだけど後世軍師と呼ばれないと軍師の範囲にすら入らんのかもな。
参謀的な役割を果たしていたとしても。
軍師=諸葛亮(三国演技)だと思う。
その上で得意分野、能力などで諸葛亮に近い人を軍師として挙げていくのが
正しい判断ではないか。
イメージは
諸葛亮(三国演技)=軍事参謀、軍事統率、内政、外交をすべてこなす人
諸葛亮を除くと孫武ぐらいでしょうか。
韓信には内政、外交はインパクトがないし、范蠡は内政はNG。
劉基は軍事の参謀としてはいいとおもいますが、統率はできたの
だろうか。できなかったと思う。
むしろ正史のを基準でも充分いいんでない?
それなら司馬懿も軍師だ。
正史基準でも演義基準でも司馬懿は軍師ではない
軍師としての才覚を持っていても、軍の統率力や戦闘能力も兼ね備えていたら
将軍や提督をやっているだろうしね
頭が良いけど将軍にはなれない人を軍師と呼ぶのもなんか違う
単純に戦略家と戦術家を軍師と呼んだ方がまだしっくりくる
外交いれると縦横家とかも軍師扱いだし、諸葛孔明を例に出すと何でも屋過ぎて占術まで軍師の仕事に入る
兵技巧、兵権謀、兵形勢という点から比較したいなら軍師というより軍略家と言った方が明確
韓信や王翦みたいなのも軍略家に入ると思う
少なくとも軍師というイメージではない
当時の国土見たら大したことなかった
最強の道士だけど、梁山泊での役職は軍師。
神将を使役し、天候を自在に操るこの軍師を前にしてはいかなる智謀も意味をなさない。
負けないための陣形とか、なんだか守勢な思想の印象があるけど
人間の壁超えてるわ、この人
ただ、この人を最期まで臣下として信頼し続けた趙王様も器の大きい英雄だったと思う
劉邦みたいな奴だったら、讒言聞くたびに粛清しまくってたこと間違いなしだからな
美化されている
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1192760012/
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