曹操に勝つのは不可能だから、長江を境にして南に新しい国を作ろうっていう戦略だよ。
統一をしようなんて思ってない。
劉備「ホウ統が生きていてくれれば」
孔明「法正が長生きしてくれれば」
孫権「兄上と周瑜が生きていてくれたら」
やっぱり魯粛は天下というよりの国の安寧を取りに行く武将だと思うが
魯粛がもう少し長生きしていれば
呂蒙が先にタヒんでた
謎だ
魯粛は商人、劉曄は貴族だから名士でもあまり共通点なさそう
劉巴とかみえると貴族の平民に対する差別意識パネエ
当時は名士ネットワークみたいなもんがあったし地理的にも近いなら友誼を深めていても不思議ではない
魯粛にとって最も計算外だったのは劉備の狡猾さではなかろうか
魯粛:徐州臨淮郡東城県
劉曄:徐州淮南郡成悳県
まあ近所になるか
その頃徐州は危険地帯だったような
198年中だと呂布が最後の決戦してるとこではあるけど
肩身の狭い余生を成都で過ごした事だろう。
そして後の神格化もなかった。
劉備側に○されたのか孫呉に○されたのか
劉備側は孫呉最大の劉備側理解者を失い
孫呉は天下二分計の指針を示す預言者を失い
恐らく魯粛は呉のことを考えて親劉備路線だったんじゃないかと
演義を見たら思うけれど
荊州攻めみたいに曹操を出し抜いて領土拡大できる見込みがないと後がなくなる
何の展望も開けないことを、シビアな計算で分かってたんだろうな
周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜
やっぱ魯粛は他の3人と違って派手な勝ち戦がないから地味だな
周瑜の葬儀にて
孔明「これからは魯粛殿も責任重大ですな」
魯粛「まったく身の細る思いでござる」
デブのくせに何の冗談だ?w
魯粛の親劉備の方針は唇亡びて歯寒しの故事を念頭に置いてのことだろう
1996年発売の三国志V・合戦FILEより
赤壁の戦い、最後のまとめの一節
※ちなみにこの本は正史に即した内容で、非常に読みごたえあった。
20年経つ今でも、うちの宝物的な本。
周瑜・黄蓋らの華々しい火攻めに目を奪われがちになるが、
忘れてはならないのは魯粛の働きである。
劉・孫同盟を成立させ、孫権に決戦を終始働きかけた彼なくして、
この戦いはあり得なかった。
魯粛こそが、三国時代を現出した真のキーパーソンなのである。
荊州関羽に事を起こさなかった→劉備弔いしなかった→三国均衡続いた→???
>>50
魯粛→ア○の関羽を利用して魏を牽制しよう
呂蒙→ア○の関羽を騙して領土拡大しよう
ア○とは書いたが周瑜亡きあと関羽ほどの軍事能力を持つ人材は呉にはいなく、魏を脅かす唯一の存在。
その点で関羽を生かさす○さずの魯粛ドクトリンは絶妙。
三国志V・合戦FILEより
208年・赤壁の戦い、序盤の一節(その①)…魯粛ベタ褒め
孫策の後を継いだ孫権には、漢室を復興し大業を成し遂げたいとの漠たる志はあったが、明確な戦略はなかった。
孫氏政権が三国時代の一角を占める帝国へと成長し得たのは、希代の戦略家・魯粛によるところが大きい。
彼は“三国志演義”では単なるお人好しであるが、実際には知勇ともに優れ、大局を見据えた戦略眼は、周瑜はおろか、
諸葛亮をもしのいでいた。
彼は周瑜の推挙を受けて孫権に謁見すると、漢室の復興は不可能であると断じ、にわかには曹操を除き得ないので、
荊州に勢力を拡張して長江流域を確保、帝位に登り機を見て天下を統一しべしとの、天下二分の計を献じた。
それは呉の国家戦略として採用され、孫権は黄祖を滅ぼし荊州を蚕食していった。
(続く)
孫権はあの虞翻を○さず遠島ですませた菩薩様のようなお方だぞ
劉備は孫権の下風に立たざるを得ないのだが,
東征以前でそこまで割り切れるのだろうか。
呂蒙が魯粛のあとを継いだのは本意だったか不本意だったか
三国鼎立の土台が形成されちゃったからなぁ。
その間に蜀を奪って馬超と同盟して、曹操と対峙するって明確な
ビジョン持ってたけど、魯粛の方針がいまいちよくわからない。
魯粛伝を読んでも、なぜか周瑜に関する事柄が多くて、魯粛自身が
どうしたかったのか伝わらない。
>>80
>周瑜は劉備を呉にとどめて飼い○しにして桃園アミーゴを離間させ、
スリーキングダム55話がまさにそういう展開になってて、孫権が採用しなかった
周瑜の献策のシミュレーションみたいでおもしろかった。
諸葛亮の困り顔と取り乱しようを公瑾どのに見せてあげたいわw
結局、諸葛亮が周瑜の一歩先を行ってました~ってオチになるのだが。
ほんの数年前に皇帝僭称した袁術が即袋叩きにされて滅亡したのに
臆面も無く孫権を帝位につけるなどと公言する魯粛は常人の域を超えてる。
劉表が苑に張繍、新野に劉備を置いて対曹操の弾除けにしているけど
それの規模を大きくしたのが魯粛の構想だと思う
盾代わりにしつつ、もし劉備が襄陽・樊城に進出するなら助力してやって
成功すればその都度荊南四郡や江陵を返還させる。
魯粛は基本戦略を、北とは争わず長江流域を抑えて、皇帝を称するべしとしているので
周瑜と同じく、天下二分の計と言える
魯粛は劉表の代わりに劉備を使い、北の防壁に充てる、周瑜は独力で防衛するとしている
自身で用兵のできる周瑜と、軍師である魯粛の差のように思える
周瑜の劉備家臣の懐柔方法はひょっとしたら劉備を皇帝することなのかもと妄想する
この条件であれば、関羽張飛(劉備家臣団を取り込み)を従わせることもできるかなと。
劉備を皇帝にし、劉協と名分を同じくし、孫権は南の曹操となる。もちろんゆくゆくは禅定させる。
周瑜が魯粛を孫権幕下にするために説いた説って、あやしいよな。
「先哲が残した秘かな議論には、天運を承けて劉氏に代わるものは必ず
東南に興る、その人こそ孫権であると」
周瑜もとっくに漢室再興なんて考えてなかった(張昭の手前言えない)か、
魯粛を引き留めるために、魯粛が好みそうな話をしたのか。
もし、前者なら、周瑜も魯粛も志を同じくする盟友であるわけで、
一般に「魯粛は親劉備派」と思われてるのは間違いということだよな。
魯粛は、劉備一派を手なずけられると踏んでたけど、周瑜ははなから
劉備を除きたがってた。結果論で言えば、周瑜は正しかった。
孫策は許都襲撃後に献帝を迎える心づもりみたいだったが、簒奪まで
考えていただろうか?
>>83
異論があるな
魯粛は独力では軍事的に江陵の維持が難しいと考え、周瑜は独力で維持できると考えている
この差だと思う。
地元ではない呉には荊州の実力者劉備(ないし劉表)は必要だった。
荊州人士は劉備について行って、地盤をつくれなかったことからも明らか
周瑜のような軍事的天才でもないと維持は無理だと思う
>地元ではない呉には荊州の実力者劉備(ないし劉表)は必要だった。
劉備はその当時敗走してきただけで実力者ではない。
むしろ、孫呉が土地を貸し与えたことによって実力者にしてしまった。
(劉表とその息子たちは、曹操が南下するに任せてじりじり後退するだけのヘタレ)
魯粛は、劉備に同盟・協力させるのではなく孫呉に帰順させるべきだったのでは?
>>85
呉(魯粛)が貸し与えたのは江陵とその付近。
周瑜でなければ損耗した戦力で確保するのは難しい地。
荊南を得、地力を回復した劉備に貸し与えることで
曹操への防御を担わせるのが目的。
貸し与えたのちに魯粛が陣取っている場所を見てもわかる
荊南制圧は荊州に地盤をつくっていた劉備の手柄。
その証拠に制圧に呉勢力は出てこない。
そして荊州人士のほとんどは劉備に付いたことからも明らかかと。
赤壁後やっと夷陵を落とすがそれも周瑜の命と引き換えだった
劉備達が一定の戦力を持った時の荊州から巴蜀漢中にかけて爆発的な膨張は
孫策も周瑜も失った呉には不可能時と見定めたんだろう
だから彼らの成果を貸し出し契約と小競り合い込みの交渉で少しずつ呉のものとした
掲げた旗からして巨大な魏に敵対する姿勢を崩せない劉備達は
どう渋られようが呉の外交相手として結局は無理の通る与し易い相手でもあったからな
荊州も益州も劉備のものになり、焦った魏は荊州に攻め入ってそれを
背後から孫呉が挟み撃ちにして天下統一w
孟達の裏切りも起きず、夷陵もないので無駄な将兵の損耗もないので
劉備が漢中から北伐してそれなりの成果を上げたかもしれんな
食指が動くのはちょいと手を貸せば覇道を進める英雄ですがな
ハタチそこそこの若いの(周瑜)が私兵引き連れて挨拶に来たからって
ホイっと米三千穀くれてやったら、そら親戚中Oh My 天帝!!やろなw
予想以上に力をつけるのが早すぎた劉備が凄いだけで
やっぱり、魯粛に対してはそうとうの恩義を感じてたのかな。
そりゃあ惜しむだろう
なんで甘寧が?って思ったら、蜀で役人してたことがあったからなのね
後に呉の末期を飾る名将陸抗が蜀の滅亡を受け三万の兵を率いて晋領となった同地に攻め入ったが
羅憲が二千の兵で守る永安を何ヶ月も抜けず胡烈に西陵を突かれて空しく引き返したからな

コメント
コメント一覧 (1件)
魯粛があの路線になったのはそれこそ「周瑜がいなくなってしまった」ことのほうが大きい気がする。周瑜がいてこそ天下二分の計は可能性があってそれができなくなった結果魯粛のあの方針になった。そういう意味では周瑜が長生きしたほうが歴史に影響があったかもしれない。