鎌倉幕府第3代執権である北条泰時は日本史上唯一の革命家
義時親子
は最強
個人的には義満義持親子が好きだが
性格は正反対だがな
義時正室の子供でなくても御家人たちは泰時の実力を高く評価していた
泰時は実力で後継者の地位をもぎとったんやで。
義時以下は、政村後継で固まってたんが、
義時自身の急逝・政村幼少で思考停止してる間に、
泰時と時房が下向してきて、そこで無血クーデター成功。
泰時がすごいのは、政村も○さず、
潜在的な対立者である重時もまるめこんで
オール与党体制を作り上げたとこやで。
時政の嫡子は牧の方との間にできた政範であり、義時は「江間」の苗字を
名乗って分家していた。
この時代の相続は後世のようにストレートなものではないと考えたほうがよい。
泰時は朝時に気を遣いまくってたから
朝時が有能なわりに単純な性格だったのと、
泰時が気配り性だったので存命中は平和だったが
むしろ例外的な事態だなそれは
朝時が泰時に気を遣っていたんじゃないか
庶兄とはいえ12歳も年上の兄だったから
比企氏の乱が起こらなければ得宗は朝時だったはずだし
吾妻鏡を読んでると、泰時って抜けた人にしか思えない
和田合戦の前夜に酒飲んで酔っ払って当日二日酔いだとか
宇治川で馬で突っ込もうとしたら馬隠されて家来と追いかけっことか
編者にネタにされてる印象すらある
承久の乱の時も泰時がいちばん弱気だった
泰時の言うとおりにしてたら鎌倉は負けたかも
もっとも義時も強気派ではなかったが
はっきり言って有事のセンスはない人だけど、
温和で真面目な性格が合議制の時代にマッチして
安定してたという幸運な人だね
最初の正室は離縁で次男は家臣に○害され期待の嫡男は早世
北条得宗家は泰時以降、早タヒに多い
毒○説が流れるほど
大江広元の強硬策によるものである。
ある意味では公家出身の大江氏が「武士の世の中」を生み出した。
鎌倉幕府打倒は足利と新田の功績じゃないか?
しかも後醍醐は足利兄弟にボコボコにされたし
>>69
天皇家自体は現代にまで特別待遇が残る唯一の家系であり勝者だろ
北条の子孫とか足利の子孫とか言ってもただの一般人で
何の優遇処置もなし
御成敗式目こそ革命
御成敗式目を参考に建武式目を定めた尊氏はくしくも泰時の子孫の一人
江戸時代の寺子屋ではこれが書道の手本
実質明治憲法発布まで日本の憲法がこれだったと言える
さすがに違うわ
朝廷が定めた飛鳥浄御原令やら大宝律令のほうが先行するし
もっと多くを網羅している
御成敗式目は幕府御家人にのみ有効な法令で
朝廷や庶民は無関係だったし
,
北条一族は短期間だが天皇家を超越して日本の王に君臨した。
天皇家を超越した一族は北条一族しかいない。
中途半端に天皇権力を復活させた足利氏は、権威ガタ落ちで武士社会の秩序をかき乱した
和田合戦の時は二日酔い、承久の乱でも総大将自ら川に飛び込もうとするし
吾妻鏡の記述を見てても泰時をちょっと茶化してる所がある
公家たちから嫌われた
御家人たちから絶大な信頼を得ていた尼将軍・北条政子がタヒ去してからは
北条独裁ではなく御家人たちによる合議制にせざるを得なかった
北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を○すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525955928/
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