【考古学】古代中国の鏡?なぜ大分に「曹操の墓から出土の鉄鏡と酷似」指摘も
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190906000236_comm.jpg
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」=「国華」から
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190906000234_comm.jpg
曹操高陵出土の鉄鏡。全面さびに覆われている=潘偉斌研究員の発表から
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190906000231_comm.jpg
“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ…
(残り:1787文字/全文:1937文字)
朝日新聞デジタル 2019年9月6日05時00分
https://www.asahi.com/articles/DA3S14167103.html
そりゃ、日本はそもそも中国と韓国から来たからだよ
>大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、
ほぼ同じには見えんけど
同じなの?
材料が鉄+金銀などで装飾+龍が描かれていた
もうセット品なんじゃないかというレベル
>逆に言えば鉄鏡は魏~西晋の文化と言ってもいいだろう
それが九州から出土するってことは、魏志倭人伝に記された邪馬台国は九州の可能性が高いってことだね
当時の畿内には>>1と同等レベルのお宝は全く存在しないし
まあ普通に考えれば九州以外にはあり得ない
魏志倭人伝を見た中国側の研究者は大半九州説だしな
畿内説ってのは中国語読めない人たちが漢文を曲解してるだけ
畿内説は今の天皇家に忖度して、ねじ曲げてるだけなんだよな
大分に邪馬台国があった
ゴッドハンドだな
あらゆる時代のものがあらゆる場所から出てく特殊能力
曹操が日本人だった可能性が!
>>310
残念賞
筑後の山門(ヤマト)なんだなぁこれが
> 86 :名無しさん@1周年 :2019/09/06(金) 23:46:57.90 ID:953HWZUu0
> >>1
> 最近日本史板で見た内容とおおむね一致してるな
>
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
> https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
邪馬台国をその範囲で囲った図初めて見たけど、
狗奴国とモロに接してるよね
狗奴国は新羅にそそのかされて反乱を起こしたと韓伝にあるらしいから、そりゃ大変だ
あと邪馬台国の範囲は山を囲ってるよね。北部に岩戸山がある。アマテラスのモデル?
韓伝て何?
三国史記?
あと熊本にいた人らは有明の倭人と呼ばれていて、有明航路で朝鮮半島と密に交流していたらしい
(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』)
この本は確か継体天皇の裏に熊本の倭人がいたって内容だった
>>345
中国にある日本関連の記録を総称して倭国伝というみたいに韓伝と書いたけど、詳しくは覚えていない
上の本読み直せば書いてあるかもしれないけど、今は分からない。すまん
この本の内容少し思い出した
継体天皇は朝鮮半島人に援助されているように見えるけど、でも
その半島人っていうのはいったん半島に渡った有明の倭人だから、実際は日本人同士の争いらしい
いったん半島に降臨してから日本に再降臨っていうのはスサノオなんだっけ?
いったん半島に行かないと倭国だか畿内だかへ行けないのは狗奴国っぽい
>>353
倭人とは、扶余族やワイ族と、縄文人が交雑して朝鮮半島に生まれた民族
https://i.imgur.com/USmmEcL.jpg
沖縄から北海道に進出していた縄文人が、朝鮮半島にだけは進出しなかったと考えるのが不自然
縄文人は、日本列島のみならず、朝鮮半島にまで広く生息し、扶余族やワイ族と混雑して倭人となった。
https://pbs.twimg.com/media/Dzr6bbAVAAE4YaS.jpg
そして中国からの先進的な鉄などの技術を取得した半島人が半島と九州に渡る倭国を作った。
ストーリー的にはいいけど敵はニニギじゃないと思うよ
志賀島は>>320のとおり伊都国の安曇氏が祭祀の中心地として崇めていた場所だが、歴史上外国に占領されたことが2回ある
最初は白村江の戦いに敗れた後で、もう一つは元寇
恐らくそのどちらかの時に一族の宝を奪われるのを恐れて隠したが、隠し場所が失伝してしまったものだろう
これは興味深いな…
盗まれる前は大分の博物館的な場所に展示してあったらしいというの見た
>>357
ヒの巫女だとしたら肥前肥後はちょうど>>320の範囲ピッタリじゃない?
歴史に伝えられる曹操は偽者で本物はこれだぞ
http://livedoor.blogimg.jp/gabareki/imgs/a/0/a06d3e04.jpg
中国に行くと発掘品の贋作が結構売ってたりするので結構胡散臭かったりする
支那は今国策で本物の古い陶器を世界中に埋め回ってるんだと。
将来、昔支那人がここに来た住んでたと言い張って
侵略の足掛かりにするのだそうだ。
地面掘ってチャイナ出てきたら捨てましょう。
これが奈良から出ました! って言い始めたらねつ造だよね!
金印は本物でしょ
なぜあそこに埋められていたのかは判らないけど
昔読んだ漫画では。
朝貢して金印ゲット!でも帰国したら国が滅びていて再起の時まで埋めて隠してそのまんま。
古代志賀島は人も入れぬ安曇族の聖地だったし、安曇族が日本各地に移る時に聖地に埋めてったんだろ
金印を授かった一族の子孫が、瓊瓊杵尊に攻められ海に身を投げる直前に隠したんだろう。
隠す必要がなくね
渡したくないなら、海に出て沖合いに捨てるのが間違いない
渡したくないだけではない。
一族の再興の時のために金印は必要なんだ。
この鉄鏡も、その一族のものだったかもしれない。
金印を持っていた一族は、少なくとも2つのルートに分けて、子を逃した。
2つの宝物、権威の象徴を2人の子に託し再興を願ったということかもしれない。
魏滅亡後盗掘を恐れた権力者が東海の離島に隠したんじゃね。
>>5
中国というのは、昔の(中国の地域にあった国、唐とか)遺物を他国にて発見したことにして、ここは中国のものだと言い出すそうな
ロシアの辺りを元は中国だと言う、ソコソコエリートの中国人から聞いた時は、いや、あれはモンゴル帝国だし、元はモンゴルだよとツッコミ入れたわ
中国人は俺も知り合い何人かいるけどおかしいの多いよ
特に共産党支持者はチベットで弾圧と拷問してることすら絶対に認めない
中国人的には異民族に支配されてたのも、時が経てば中国になる。
チベットやウイグルを中国と主張してるのも清王朝が当時支配してたから。
なので、元寇の時に例えば九州支配してたら、今頃九州は中国のものだと言ってるよ。
なるほど
で、油断すると>>366みたいなことを言いだすんだな
金印は田んぼの中に、それだけポツンとあって、周りを掘り返したけど何も見つからなかったんだよな、物凄く嘘くさい
糸島の神社から盗まれたんだろ
これ不思議だよね
同じものが糸島の神社にあって盗まれて何年か後になって志賀島で見つかってるのに
いまだに新発見のような話になってる
このことをガン無視してるのはなんでなのかな?
もし金印が糸島から出たのならあそこに大きい遺跡があるはずなんだけど
来歴とかは今じゃわかんないんだろうね
あー
なんとなく糸島のどの神社かわかるわ
恐ろしく古い神社あるものなあそこ
糸島って伊都国だろ。
隋、北史 大業4年にすでに
現在でも同じ名で呼ばれている島が
竹島だ。第三者の歴史外国文献が証拠になる。
武論尊「日本起源は劉備」
秦王国だっけ
当時、日本に来た中国人が、中国と変わらんとぬかしていたよな
>>12
隋書東夷伝には、
「筑紫国の東の秦王国(大分)にいるのは中国人」と書いてあるのであって、
「中国と変わらない」、ではないと思われ
つまり、中国人の国が大分に存在していた
それなのにずっと嘘八百の歴史を教え続けてきたのが日本
豊前風土記によると宇佐と並んで重要視された香春神社あたりは天日槍の領域
秦王国≒秦韓からやってきた渡来人の領域だったのだろう
珍敷塚古墳の月とヒキガエルの壁画もまんま中国の伝承そのもの
●金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)
復元写真
http://i.imgur.com/cWaweIN.jpg
大分県日田市日高町にあったダンワラ古墳から出土したと伝えられる弥生時代中期の鉄鏡。
金銀を象眼した鉄鏡は、日本国内ではこれしか出土していない。
中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、
魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、
この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。
1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で、線路の盛土を採集している際に
出土した石棺の中から発見されたとされる。
しかし、この鉄鏡は注目を集めることなく、行方も分からなくなった。
1960年(昭和35年)に京都大学の梅原末治が奈良の古物商からこの鉄鏡を買い取り
天理大学附属天理参考館に依頼して研ぎ上げると、
1962年(昭和37年)に金銀玉による模様が施されていることが明らかになった。
そこで、梅原は、発見者の渡辺音吉の案内のもとで現地調査を実施。
その結果、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され、
その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。
ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、
出土地点は前述の線路工事によって発見当時に破壊されていたため、
ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。
意匠パクリで曹操に頃された人の墓だな
>>25
魏の王族しか持ってない豪華な飾りの鏡が日本ではここでしか出てないって重要発見じゃん。
倭人伝に書いてないだけで卑弥呼に関連する鏡の可能性が極めて高いのに出土地点が怪しい。
卑弥呼の墓が見つからないのはそれまでに壊されていて残ってないからでは?
近代の道路や線路工事だけでさなく、戦国時代でも古墳を壊して城作ったりしてるからね。
昔の中国の偉い人が持って逃げてきたとかなのかねえ。
なかなか浪漫だなあ。
そこからどうして大分にまで渡ったのかが問題なんだろうけど
邪馬台国の傘下の諸国に鏡を配ったとかだろうな。
何かもらったんだろ
紀元前から天皇陛下がおられたのに朝廷を通さずに勝手に外交をするはずがない
小国分立の時代が結構続いてたんでしょ
奈良方面に引っ越す前の卑弥呼か誰かが
時代が違うか?
卑弥呼の後継の時に贈られたものかな。
宮崎→日向→ひむか→卑弥呼
邪馬台国、トヨの末裔が豊臣秀吉。
朝鮮出兵は、魏の再興。千利休切腹と関係?
邪馬台国はやっぱこのあたりにあったんだろうな
名探偵が見事この事件を解決してしんぜよう。
曹操と言えば河南省。河南省と言えばダルマ禅師が
禅宗を広めた場所でありダルマ和尚が少林寺拳法を
広めた場所
つまり河南省は元祖
筋トレの聖地でありマッスルの聖地
当然に少林寺拳法でカラダをムキムキにした
禅宗の禅師達が欲しくなるもの。
そう自分の鍛え抜いたマッスルを映す鏡!!
つまり臨済宗と曹洞宗のお坊さんが河南省で
仕上げた自分のムキムキの自分のカラダを日本で
見せびらかすために持ちあるていた河南製品のマッスルミラー!!
これで謎はすべて解けた!!
筋肉はいつも ひとつ!!
けっこう好き
交流があったからだろ
清とか明とか正しい呼称で言えよ
中国って言うのアメリカが決めた呼称だ
本来中国は日本の中国地方の事が先だ
洗脳されまくってる日本人
なにいってんだこいつ
まあ言いたいことは分かる
三国志の三国時代までが古代中国かな。疫病と戦乱と飢餓で人口が90%激減した時代
ここで本来の中国は終わっている。
その後北方民族である鮮卑・匈奴・女真・契丹などが流入し、鮮卑族による隋や唐が栄える
さらに南宋が蒙古によって滅亡し、モンゴル帝国、ツングース系(女真族)による清国の時代へ
「国」が国名について呼称するのは
中国と韓国だけ
これらは、中華と韓でいいんだよ
ちなみに明とか清とかは王朝の名前だからな
百歩譲って現代のあの国を中国というのはありだけど
歴史的に正しい呼び方は古代支那だよな
>>134
漢字を使用している日本にとって他国を中華と呼ぶのは自虐世界観だ
地経学的というか金山あるからでは?だから江戸幕府も天領にしてた
曹操は墓を豪華にするなと遺言している
実際でてきた鏡はこれ1枚だけだしあとへんな土細工くらい
かなり質素なもの
鏡が40枚そのほかが出てきた平原1号墳の方が豪華
大分からはたいがいなんでも出てくる。
宇佐平野のところに昔からくにがあったし
大分の県南なんか水銀の産地だったりしたし
日田の近所もむかしからいろいろある
中国にとって倭国は長い間未知の領域だった
公孫氏を殲滅後にようやく倭国と中国は互いに交流をもち、
その時の倭王が卑弥呼というBBAだった
…というのが魏志倭人伝の内容
だから何?って感じ。
古代や現代の中国っていうと、中国というのがず=っと続いてるという
錯覚をしてしまうから、やめろ。
国も民族も宗教もすべて変わってるんだから。
イタリア人がローマ4000年の伝統とか、
ギリシャ人も3000年の伝統とか、
イラク人もメソポタミア5000年の歴史とか、
エジプト人ですら、エジプト5000年の歴史とか言わないだろう。
中国とそのまねしいの朝鮮だけだ、
ありもしない5000年の長い歴史とかアホな宣伝するのは。
古代から2000年以上の歴史と名乗れるのは日本だけ。
ほぼ全員言ってるだろw
だから宝物も返せって話になる
>>133
ローマは4000年も無いだろ
イラク人もエジプト人も言うぞ
渡来人「おっ、そうだな」
薩長簒奪者「そうだよ(便乗)」
国家神道「当たり前だよなあ?」
日本はかつて「姫氏国」 という
倭漢通用の国称をもっていた。
姫の姓は本来、黄帝や周王に関わる者の姓。
曹操の曹姓も姫姓である周の武王の弟・振鐸が
曹に封じられた時に始まるを由来とする
卑弥呼が姫巫女(ひめみこ)だったとするなら
姫姓を継ぐ周王朝の末裔だった可能性がある
というか日本自体が周(姫)の末裔だから
高貴なひとを姫様と呼ぶのではとも言われるから
曹操もとい曹氏とはつながりがあっても
なんら不思議はないのです
ヒメというのは日本語の発音だろw
>>240
>>241
漢字を日本にもたらしたのが王仁(わに)博士
王仁は『おうじん』とも読める。つまり
応神天皇と同一人物の可能性がある
そして応神天皇時代に移民してきたのが秦氏。
亡命してきた秦氏の弓月君は始皇帝の縁者。
秦は『シン(シナ)王朝』そのものを示す名前。
そして秦(はた)は機織りの機(はた)であり
八幡神の幡(はた)に通じるわけ。
わたしはやはり黄帝(姫氏)の子孫が日本の建国に
大きく関わっていると思うよ。
漢字を作ったのが
黄帝(姫氏)の子孫なら移住先の日本でも簡単に再編纂できるからね
「ヒメ」が日本語であることの反論に全くなってなくいよ。
漢字をもたないから、音に対して「卑弥呼」という字をあてられたんでしょ。
>>279
そのくちぶりからするに
あなたは陰陽術における漢字の破字法をたぶん
しらんだろう?
陰陽師は折字法という漢字の部首を分解して意味を解き
吉凶を占う。
陰陽師は漢字の部首を分解した音で
さもそれを暗号のように使う術をもつ
あなたがもし黄帝の本物の末裔で
中国大陸が偽物の皇帝と王朝に支配されていたとして
バカ正直に一族の言葉や文字を使うかね?
もし黄帝の直系がかの島国で生きてるとバレれば
消されるだろう?
だから彼らは一族の文字を本当の意味は
一族にしかわからないように再編纂した。
そう。音読み、訓読み、ひらがな、漢字、漢字分解法、
言葉遊び。
それらを音読みという音を大事にす
る言霊信仰に偽装したり
『恥を知れ』という言葉に『破字(はじ)を知れ』という
言葉遊びの暗号に隠して彼ら黄帝の直系は
漢字を使った暗号をこの国に広めたわけだ
一族だけがわかるように。
もっと直接的に言えば大陸に住まう偽漢民族達に
自分達が消されぬように
>>140
日御子だろ
あと姫は代替に使われるだけで臣の字が違うからな
ワッフルワッフル
というか日本の呼称である姫氏国の姫の姓が
周王の末裔ではなく黄帝そのものの直系を示すなら
なんで聖徳太子があんな偉そうな態度を中国の皇帝に
とれたかも納得いくし
なんで曹操の鏡と日本から出土した鏡がクリソツなのかも
全部簡単に説明つくんだけどな
ようするに本物の姫(黄帝=最初の皇帝)の末裔が日本人で
皇帝ゆかりの品々を日本まで持ってきてたという
だけのこと
このスレのお題は「鉄」の鏡なんだが。
製鉄は今のトルコで発明された技術で、中国の鉄の歴史は浅い。
黄帝時代の中国に鉄なんぞ無いぞ。
発見できなかっただけで
今回の曹操墓によって、覆るかもしれない。卑弥呼、トヨの墓もこの近辺かも?
こういう事もあるよ。最古の白磁
日本で出土されたら、大事件だな。
https://www.youtube.com/watch?v=bHgSomoi64E
物理的にどうなんだって思うわ
九州は自然災害が激しいんだよ。
なぜ大和朝廷が奈良盆地で誕生したのかを考えればわかるだろ?
わからんよ。九州で国家として成功せずに近畿で成功しましたっておかしいだろ。
順序から言えば九州で成熟して徐々に東にってのは日本の歴史の常だよ
天皇家中心の歴史観故に九州をすっ飛ばしてきただけじゃないか
>>148
九州は小国が乱立した状態だな。
初期は確かに九州のほうが進んでるというか豊かに見える。
それが、弥生中期以降、東へ進み、後期の段階では鉄は近畿の丹後地方で増える。
丹後王国論があるくらいで。
弥生後期の鉄は、「出雲」(出雲と伯耆)と丹波(丹後)が多い。
記紀に書かれる邪馬台国直前の時代の丹後の影響は大きく(丹波の竹野媛ほか)。
初期の巨大な前方後円墳もある。
丹後、尾張、近江、摂津、吉備、河内あたりの有力者が共立したのが卑弥呼。
連合政権が首都にしたのがヤマトの地であり、天皇家が牛耳っていたわけではない。
奈良がそれまでど田舎であっても問題ないw
>>148
漢委奴国王は倭国大乱で負けて奈良の山奥まで逃亡したときに貰った金印置いてきた
その後、九州に親魏倭王政権が誕生して金印を貰ってしまった
自分たち(漢委奴国)が金印失くしたってのは不味いので親魏倭王政権に背乗りした
それが近畿のヤマト王権の最初
奈良は卑弥呼の時代は湿地でもう少し前は湖だった
人が住める訳がない
考古学者だってここには都はありません!ってさじ投げたから
そこから外した纏向を必死に都でちゅ!って言い出したんだぞ・・・
湖って、いつの話だw
タイムマシンに乗って時代を行き来するのかw
邪馬台国は九州に確定。
秦以前から交流あったかもしれない。
国宝になるかも?
日田は日田だし、中津は福岡
>>154
むしろ北九州市からむこうは大分だろ
博多弁とは言葉がまったく違う
福岡の漢倭奴国王の金印が有名だが
宮崎は紀元前2世紀前漢時代の穀璧(玉璧)がある
大分の曹操の鉄鏡?と合わせて
不明瞭性からあまり語られはしなかった
金印は本物として藤村ゴッドハンドではない物として通っているが
その後九州に倭の五王に見られる大陸風諡を冠する倭王が誕生し、大陸外交を向上させるノウハウが吸収されると同時に半島含めた支配権を百済より先行して有利に展開することに繋がったわけだろ
卑弥呼の住んでいた筑後地方、敵方の狗奴国は熊本県北部、邪馬台国と狗奴国が
正面衝突している隙をついて日田から山道を通って狗奴国の中心部に攻め込む作戦が
とれる、日田は絶好の位置にあった。
それ同意
出土した物、極めて非文明的な物しか出てこなかったじゃ無いか。
纏向から北部九州では普通に見つかる硯や絹布、金銀製の装飾品でも見つかれば
鬼の首を取ったように騒いだだろうが、今は静まりかえっているな。
纏向は掘れば掘るほど5世紀くさいからな
天孫降臨で九州に降り立ったと言われる
天照大御神とされる人物が
黄帝の末裔である『姫姓』を継いでいる皇帝の縁者で
姫神(女神)として日本神話に取り入れられたんじゃね?
だから出土品は黄帝から続く姫氏の子孫の皇室の品々で
大昔に姫氏が形見分けしてそれが長い年月を経て
九州と河南省から見つかったと
降り立ったのはニニギノミコトだから
君はただの知識不足
新説を出せるレベルに全然たりない
知識不足は貴様だ。ここまでヒントを出して
答えにたどり着かないのだから
鏡の発明者は古代中国では嫫母という人物だ。
この嫫母は黄帝の后でその出自は倭。
つまり日本人。
倭人だった嫫母が黄帝に作って見せたのは石板鏡だが
それはつまり鏡を作る技術が倭から中国に
伝播したことを意味している
これが不思議だと考古学者や民族学者というものは
本当にたいしたことがない。
鏡の発明者が倭人の嫫母であった時点で
必然の結果であろう。
そして黄帝の妻が倭人であったのなら
倭に黄帝の子孫。つまり黄帝の姫の姓を継ぐ姫氏が
移民してきてもなんら不思議はない
そして嫫母の子孫なら必ず黄帝に褒められた手柄である
『鏡』を象徴に持つ。
卑弥呼が姫御子(ひめみこ)の隠喩で鏡を大事に
もっていたなら答えはひとつしかあるまいよ
それは嫫母の子孫のお姫様達だとということだ。
そしてこれが黄帝の直系たる嫫母と黄帝の血に
交わった倭人が中国王朝に偉そうな態度をとる理由であり
今の天皇家が鏡を崇拝する理由だとなぜわからない
答えすでに鏡を大事にしているという時点で
書いてあるだろう?
日本で古墳から出てくる銅鏡は葬式用の量産品だったからな…明らかに加工中のが出て来ている
仿製鏡という劣化コピー品と
舶載鏡という仿製鏡の元になる輸入品がある
舶載鏡ならそれなりの有力者有力勢力
邪馬台国は福岡佐賀大分、狗奴国は熊本だね。
で神武天皇は日向出身。海幸彦、山幸彦の話も宮崎。
天孫族は実は沖縄から北上してきた一族?それとも徐福など海に新天地を求めた中国人の子孫?
そうとも思えるけど天孫降臨は倭国大乱前(卑弥呼前)かトヨの死で邪馬台国崩壊後に
険しい山道を越えて宮崎に逃れた邪馬台国勢力圏の人間のような気がする。
だから卑弥呼=ひめみこ=姫御子で
卑弥呼は姫(黄帝)の御子(子孫)って意味なんじゃね?
だから黄帝ゆかりの品々をもっていて
たまたまそれらの副製品?が河南省の曹氏の曹操にも
渡っていたと
239年
銅鏡2、3枚ください
と覚えたけど
鉄鏡もあったんだね。
鉄鏡は三国志の戦乱が元で生まれた文化らしい
中国側の研究者が下記のように述べている
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。
> このことについて、中国の考古学者、徐苹芳氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)
> という文章のなかで、つぎのようにのべている。
> 「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では
> 銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、
> 新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけて
> さらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、
> 金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の
> 『魏武帝の雑物を上(のぼす)すの疏(そ)』(安本註。ここは『上(たてまつ)る疏(そ)』と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に
> ”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも鉄鏡は引き続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、
> 位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、
> すべて鉄鏡が副葬されていました。
> 銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方に極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」
つまり魏には銅が無かったから苦肉の策で鉄を材料にしなければならなかった訳だね
逆に言えば鉄鏡は魏~西晋の文化と言ってもいいだろう
なんも不思議じゃないわ
どういう縁で嫁いたんだ 皇帝の嫁なんて高家の娘でないと無理だろ…将来の国母だからな
政略結婚か 人質に手を付けたか、、倭が相応の存在力があったとしか思えないのだが
相手をするだけ無駄だぞ
古文書に「嫫姆・倭傀」と二人の個人名が並記されてるのを
「嫫姆は偉大な倭」と曲解することで成り立ってるトンデモ説だから
>>218
じゃあ日本人の神鏡崇拝と中国と同じ鏡が九州から
出土したのはどう説明するの?
嫫姆が倭人なら全部なっとくいくじゃん
九州をグルグル遠回りして案内した結果だと考えれば魏志倭人伝の中身との辻褄が合うな
安全保障上の観点。
なんせ、晋になってから
貢ぎもんが途絶える。
背後の本宮山に奥宮とご神体の巨石がある
二つの岩に大きな岩がひとつ乗っていて二等辺三角形に見える三位一体の巨石
ささむた神社のご神体は三柱
豊前の宇佐神宮に注目が集まりがちだが豊後のささむた神社もナゾが多い
古い時代の大分の研究は意外と進んでいないよなー
神代日本の話になるから、荒唐無稽だと現代人は相手にしない
神代文字で検索をすると、色々な文字種が出て来て、人類?はかなり歴史が有るのに
驚かされる
中国の史料
・倭と日本は別種
・倭人は呉の太伯の子孫を自称している
・隋の使者が噴煙を上げる阿蘇山の見える倭の王都で王と妃・太子に拝謁した(推古女帝の時代)
・倭の東の島に秦国があり東と北の大山までが国土で、山の向こうは毛人が住む
日本の史料
・漢委奴国王の金印が九州で出土
・曹操墳墓出土鏡と酷似する鉄鏡が九州で出土
・平安初期に編まれた新撰姓氏録に九州出身の松野連を呉王夫差の後裔・諸蕃と記す(天皇家など大和の豪族は皇別・神別)
邪馬台国機内説って宗教だよね
>>254
太白に子がいない
この時点で孫呉も卑弥呼もホラ
自称だからね
九州の倭人王朝とは別の民族の国が本州にあって、それが倭人王朝の九州を侵略して国ごと乗っ取り、歴史まで都合よく消し去ってしまった
肝付さん凄いなw
>>255
ヒント: 秦王国 = 大分
隋書東夷伝に記述されている。竹斯国(筑紫)の東にあったとされるので、大分だね
http://izumiyayoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-359e.html
「百済を度り、行きて竹島に至り、南に耽羅国を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中にあり。
また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、
以て夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。
竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す。」
日本では神社で鏡を崇拝する。
鏡を崇拝するなんて鏡を発明した
黄帝の妻である嫫母(ぼぼ)を讃える以外に
なんの意味がある?
今回の発見は嫫母(ぼぼ)が倭人だったというなら
説明がつく。事実。そう読める資料があるのだから。
なるほど、女性器の名称になっているのか?
>>261
そう。『ぼぼ』は女性器を示す。
つまり古代大和において
『ぼぼ』は女性や母親を指す言葉だったということ
おれは黄帝の末裔が母親を呼ぶ時に『ぼぼ様』と
呼んでいたのではないかと思っている
それが日本に伝わってぼぼが女性器を示す言葉になったと
アマテラスの日の光を反射させた鏡じゃね?
鏡は今も昔も『真実』を映す道具。
仏教の十王信仰においても水晶でできた鏡である
浄玻璃の鏡は罪人の嘘を暴く
わたしには黄帝の神霊が
自分の本物の子孫を知りたいなら
朕の妻が作った鏡の歴史をおって真実を暴き
偽りの臣民と王朝を引きずりおろせと語り
かけているようにしかみえんがね
黄帝の末裔達である姫氏達は嫫母(ぼぼ)様の作った
鏡と姫の姓こそ真実の王朝の証と思って
絶対に手放さなかったはずだ。
仏教や神道において鏡は真実を映すという言葉を
したためたのはいつか遠い未来の誰かが
その言葉の真意に気づいて嫫母(ぼぼ)様が作った鏡の
歴史から黄帝の子孫がどこにいるかを知らせるため
だったのではないのかね?
偽物は真実を恐れる
鏡は真実を映す道具
だから偽物は真実を示す鏡を壊そうとする
重要なのはむしろ鏡を誰がまっさきに壊しに来るかである
その民族こそ黄帝の子孫の名を語らう逆賊の末裔ということ
太伯の子孫を称した倭人
夫差の子孫を称した松野連
孫権の子孫を称した牟佐村主・茨田勝
そして、その呉人の末裔の倭人と、天皇家は全くの別民族なんだよな
>>274
じゃあ天皇は中国のどの地域からきたんですか?呉じゃないなら越?
まさか戦後の知識しかない日本のバカウヨの盲言を信じて
土着縄文人とか朝鮮とか言わないですよね?
天皇家の素性は現代人より、その時代に近い昔の人のほうが正確に知ってるに決まってる
でも日本はアメ公に教育を破壊されて古文書を読める人間がほとんどいなくなって
勉強といえば英語英語って元植民地の土人国みたいになっちまったの
天皇家が春秋戦国時代の中国から来たってのは江戸までは日本の常識だよ
>>280
天皇家自身がルーツは半島と言っている。
加羅諸国のどこか。アマ族。
お前のような偏見の塊は歴史の議論など無理。
そもそもが畿内の弥生DNAはほとんどが半島由来。縄文時代は
人が住まないエリアだった。
>>285
素人がフェイク垂れ流すな
初代天皇の神武は日向から出発してる
古事記にそう書いてある
それは称しているだけであってw
そうだよ
日本の史料でも中国の史料でも呉王の子孫を自称している人々がいる
わたしは仏教も黄皇の子孫を隠す暗号文ではないかと
疑っているよ
観音菩薩は音を観る菩薩と書くからね
これもにかしらのお教を音読みで解読しろという
黄帝の子孫にだけわかる暗号文かなにかと思っている
畿内の文化が非常に遅れていたからその遅れを挽回する為に
使者を百済に派遣して畿内への移住を説いて回った
そのおかげで非常に大勢の百済人が畿内地方に住み着いて畿内は
発展した訳だ。百済人は現在の関西人の祖先と言う事になる。
歴史は繰り返すていうけど、古代も現在も同じだよ。朝鮮人が日本に来て各業界で影響力をもつ(これは何故なのか
僅か数パーセントの人口構成なのに)今朝鮮間で戦争でも起こったら、壬申の乱(百済救援)と同じで、日本も朝鮮戦争に巻き込まれるね
しかしながらなぜこうも簡単に日本に支配階級になれるのか不思議だ(ユダヤ人と同じだな
歴史が変わってたら卑弥呼が曹操と出会ったり
諸葛亮が日本に亡命してたりとかあったかも知れないと思うと胸熱だよね
曹操の要請で日本から援軍を出して赤壁で勝ったりとか面白そう
曹操が援軍をとか無理。
日本は徐福一行が農耕と製鉄を齎して間もない。
それな。
魏の骨格を作った曹操が持ってた鏡と似たのがあるなんて胸アツだわ。
佐賀や熊本あたりじゃ、土木工事をすれば大概遺跡が出てくるが、公共工事でもない限り重機で破壊して終了。
時々金の装飾品とか出てくるが、現場のドカタで山分けが基本
卑弥呼の墓はそれまでの工事で壊されて現存しない疑いあるよね。
「我が国から盗まれたものだ、直ちに返却せよ、謝罪と損害賠償も請求する」
これくらいは言ってきそうだな
邪馬台国かどうかはともかく古代日本の歴史は畿内の歴史
古来の国同士のアイサツでは鉄鏡を相手に送ることが最大の敬意であった
古事記にもそう書かれている
そういや、丁度卑弥呼が漢の皇帝に使節を送って親魏倭王の印を貰ったのもこの頃だっけか
貿易とまでは行かないまでも互いを認知して博打まがいの貿易はしてたんかな
博打まがいじゃなく朝鮮半島経由で交易はしていたはずだよ
対馬や壱岐には良田がなくて中継貿易で食料を得ていたと魏志倭人伝に書かれているから
>>327
朝貢貿易してたじゃん
日田市の人が持ってたのか土中から出てきたのか
古物商がそう言ってるだけ
誰も確認してない
古墳の発掘結果や当時の関係者の証言からは、違う場所である可能性が極めて高い
お金だな。
これは紀元8-23年のわずか15年の王莽が建てた「新」という国で作られた貨幣だ。
これがあちこちから出土する。
この時代にはすでに九州は絶対的な先進地域ではなかった。
それなら邪馬台国でなくヒミコの国にならないとおかしい
その辺の種族が中国と交易してた可能性は大いにある。
>>354
種族w
部族というか氏族というか。
天皇家ではないそれらの氏族が倭国の主流であった時代が邪馬台国時代なんだろう。
崇神までは天皇家はただの地方の末端の氏族だったのかもしれん。
宮も墓も盆地の南部のはしっこにある。
だから、魏との交渉が伝わっていない。
崇神の一世代か二世代前くらいがトヨの時代か。
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190906000234_comm.jpg
こういうの真鍮ブラシとかで磨いたら気持ちいいと思う
最後はピカールでゴシゴシ
隋書東夷伝 卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國
「また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ」
(又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏)
筑紫の東にある「秦王国」の人間は、中国人だと記述されている。
つまり、大分に中国人の国があった、ということ
その時代は日本人は夏王朝と同族と思われてたのか?
大分に中国人の国(秦王国)があった、と記述している隋書東夷伝は魏志倭人伝と同じくらい日本にとっては
貴重な資料なので、一回読んで見てね
日本の歴史がウソだらけなのがバレるので、学校ではあまり教えませんが(笑)
隋書?(倭)国伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
隋書(東夷伝・第81巻・倭国)を読む
http://kamodoku.dee.cc/zuisho-wo-yomu.html
大分県には国東
国の東とかいてクニのサキがある
宮崎には日南、日の南
リンクさせりゃわかる
国見、クニを見るの地名もある
その時誰かに持って帰られたかブルトーザーでつぶされて泥と一緒にどこかに運ばれたか
運ばれた泥のかなからいつか偶然に金印が見つかるのかもね
国璽を副葬品にはしないだろう
その代で国家滅亡した場合を除いて
普通は中国に返すみたいだけど
倭奴国は滅ぼされたのかもしれない。だから金印を捨て置かれたのかもしれない。
漢委奴国王は倭国大乱で負けて逃亡した
秦(ハタ)王国。
豊前にある宇佐神宮は
全国の八幡(ヤハタ)神社の総本社であり、
豊前国一宮で豊前国を代表する神社でもある。
もし卑弥呼の時代の物なら国宝かもしれない
近畿で出てたら嬉ションで直ぐに国宝になってただろw
新聞テレビで国民を騙す確定キャンペーン
纏向や箸墓なんてほっぽり出してさ
ホント。真実なんかどうでもよくてマウント取りたいだけなんだよね
百済は日本の親戚で間違いないけど、
半島は、その後2度ほど民族が代わったので、今の朝鮮人とは何の関係はない。
今の朝鮮人は、モンゴル人と女真人のあいの子だろ。
今のギリシャ人やローマ人が古代の人とは別物というのと一緒
現代朝鮮人と、現代日本人の遺伝子に殆ど差異はみられず、縄文人とはかけ離れている
https://i.imgur.com/Mq0Xygo.jpg
これほど顔の特長が違って、体格が2回りも大きい奴等とルーツが同じ訳がない
今に始まった事じゃない
大昔は近畿より古い遺跡は日本にはないと明言し
関東や東北の発掘調査実質禁止していた
だから日本に石器時代の遺跡があると関東で発見したのは在野(素人)考古学者
今や青森の三内丸山遺跡とかあるけど
あれも中々認めたがらず教科書にのったのは最近
筑紫との国境の大牟田荒尾の周辺地域
同じく筑紫との国境の吉野ヶ里から鳥栖
豊前国国境の大野郡大野町
熊襲国との国境の球磨地方人吉盆地
には、戦の痕跡がある。
>九州に邪馬台国があって支配地か属力の有力者に鏡を下賜してても何も不思議は
でも学会で有力なのは邪馬台国畿内説
その頃は九州や沖縄方面から入ってくる技術がなくて無理だったかも
縄文時代になって大陸の技術が上がってから九州方面からも入りはじめてやっと北経由の数千年過ごしてきた縄文人と接触開始
その後も大陸からは九州方面に新しい文化が入ってきて本来いた縄文人は肩身の狭い思いだったろうね
なんとなく双方の交流地点が近畿になってそこはマホロバになったかも
縄文時代には九州は部族間の争いで混沌となって最後には卑弥呼も死んで九州勢はみんな近畿に逃げてきて一緒に大和を作ったんだろうと思う
九州は昔も今も修羅の国だったんだろうね
その義が倭の五王の大陸朝貢にも一目置かれる国家として信頼を得るが白村江の戦の敗戦により九州倭国は壊滅。
薩夜馬王の解放は倭王の誠実な人望からであり、その後の勃発した近畿日本王権が余りにも現韓国人並みであったため唐王朝より忌避されたのは、この鉄鏡の出土で全て説明がつく
ビジネスのために考古学を悪用するクズの歴史として、
日本史の一頁にきちんと残しておこうぜ。
古事記によれば八咫の鏡も鉄鏡で草薙の剣も鉄で古代の鉄は信仰の対象になるほど重要なもの
邪馬台国は鉄鏡を貰った記述もないし
もしかしたら金印より遥かに意味があるかもしれないね
場所としては狗奴国あたりの王が貰ったように思う
畿内のは日本製の鏡じゃないのか
三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡は銅鏡だから複製しまくって配りまくってるっぽいね
芦原中国の根拠地は瀬戸内のどん詰まりの畿内
金印は従属した国の王
鉄鏡は対等な外交国というイメージ
そういう鏡が日本にあっても不思議はないだろう
その鏡が大分にあるってのが要点なんよ。
やっぱり邪馬台国は九州?大分も勢力圏だったの?じゃなけりゃどういう経緯とルートで大分に来たの?とか。
最近までゴミ捨て場だったと聞いたことがある
もしかしたら実はかなり日本を制圧出来ていて、本拠が畿内で戦争の最前線だから九州地域に遺跡が多いのかも
秀吉の九州征伐みたいに卑弥呼もやっていたとか
この時代すでに畿内も北部九州も親戚同士だったという可能性はある
鏡を埋葬する文化は当時の中国と同じなことを考えると、北部九州から畿内までの瀬戸内海文化圏は渡来系の影響がかなり強かったのかもしれない
中国から貰った銅鏡を地域の長に渡して味方を各地に増やして
中国から鉄鏡を貰った九州の国と争ったとか
この頃の鏡は占いに使うから政治的に重要なものだっただろうし
まあ妄想が膨らむね
福岡、大分、宮崎
点と線が繋がったな 邪馬台国は九州 別に大和に王朝があって戦った、そこが最近話題
の阿波徳島 で、大和朝が勝って今日につなぐ
徳島説は邪馬台国じゃ航路がかなり厳しいと思ったからこっちの方がしっくりくる
ふつーに考えて、邪馬台国が大分近辺にあったんやろ
複製とは考えられへんし
邪馬台国論争からは、纏向なんてポイやわ
渡来系文化でネットワークがあったのかもね
どうしても皇国史観につながる東大派の邪馬台国山門説を潰す必要があった。
だから、間違えるはずの無い方角を間違えた事にして、
帯方郡から拘邪韓国まで7000里って短里である事は明白なのに、
あえて短里でない事にして、無理やり大和まで邪馬台国を持ってきた。
それに異を唱える東大派や九州説派は公職追放で発言権を消しながら。
そうやって、無理やり作り出した畿内説も、
結局、発掘の成果がつみあがる結果として、
大和は魏志倭人伝に書かれた邪馬台国でない事が明らかになって来たが、
大和政権が中国に朝貢してきた倭国とは、
まったく別の勢力であることが明らかになって、
そこが中国の属国を目論むコミュニスト達には、
まったく受け入れられないというのが今の畿内説派の現状だ。
邪馬台国論争ってマジで飛ばされたり首になったりするらしいな
正史ごと捻じ曲げる赤旗勢力は恐ろしいもんだ
>>464
7000里て3500キロ?
卑弥呼は当時 倭国大乱で荒れていた日本の豪族をまとめるために曹操が送り込んだアイドル的存在だった
鉄の鏡をもって当時最先端のファッションに身をつつんだ卑弥呼は
金属鎧や剣で武装して馬に乗った護衛に守られて各地の豪族をまわって説得した
そしてメロメロになった豪族の同意をえて初代大統領みたいな存在になった
そのストーリーで行くとやっぱり枕営業もしたんだろうなあ卑弥呼さん
日田と玖珠って近い?陸上自衛隊の玖珠駐屯地や大分大学近くの分屯地は奈良時代には
もう兵馬の基地的な要所だったと聞いた事がある
日田は金山があるから天領だと思ってたけど日田とか玖珠は昔から軍事的に重要な場所だったのかも?
馬の餌場があったとか?権力者を惹きつける金以上の何かがあったのかな
あと大分と福岡の県境の英彦山神社と前方後円墳がある福岡の赤村周辺や豊後一の宮西寒多神社は
なんとかかんとかカチハヤヒ天之忍穂耳尊を祀っている
ニニギとニギハヤヒにくらべてカチハヤヒって語られる事が少ないけど
カチハヤヒを祖とする豪族が弱小勢力だったとは思えないw
X線で調べたら曹操の鏡と日田の鏡がそっくりだった事がこのあたりの歴史を紐解くキーになりそう
日田玖珠ってひとまとめにされるくらい同じ山間部の地域だからまあ近いよ
玖珠の子が日田の高校に毎朝汽車(田舎だから汽車)で通えるくらい
徒歩では無理
>>478>>480
有り難う大分は江戸時代の藩も多いイメージだw隣接していても経済圏も言葉も違うんだろうな
古代は尚更だったはず夢が膨らむ
姫島とか古代は瀬戸内海における交通の要所のはずだし
豊予海峡を渡れば伊予と豊後は玖珠と日田より楽に行き来できたんだろうな
古代は、経済圏も言葉も似ていたのが、
江戸時代の藩政の都合で、経済圏も言葉も違ってきたという可能性もある。
朝倉に近いから経済圏も久留米、朝倉経済圏、玖珠は中津や大分の経済圏となっている
九州にどうにかして関わりたいと必死なのが笑えるが、当時の北部九州は
畿内や本州とは絶縁状態だったから近畿から北部九州に来ても殺される恐れが
あるから来る事は無かったし北部九州から本州に行く事も無かったと言う事だ
但し高地性集落があるので九州勢力が本州攻略を進めていたんだろう。
卑弥呼が吉備系という説が最近は有力視されているが、宇佐と吉備は同族でもある
大和から銅鏡を九州に持ち込んだのではないかという説を唱えてる人がいてわろた
そこまで邪馬台国が大和でないといけないかと
どこの土地に限らず利権がからんでるから必死なのは仕方ないね
特にお金の出る研究者の人や関係者は死に物狂いでしょう
まあまだ邪馬台国が特定されていないからどこが名乗っても問題無いけどね
また、この時代頃から鏡の分布が北部九州中心から瀬戸内/畿内へと遷移している
何かしら大きな政変があったのだろう
金印は臣下に送るが技の皇帝が持っているものと同等のものを持つことが許されるもんだろうか?
曹操は皇帝ちゃうやろ
話にならんな、オッさんwwww
そうだったな笑
まあ鉄鏡は魏と倭にとってかなり価値があるものだろう
>>527
それやw
秘宝館の入り口に闊書いて、
太平洋!殿は太平洋はお嫌い!秘技!ハーケンクロスは瀬戸内海と申しておられる!
言うてるわ
鶏肋鶏肋
すぐに帰り支度を整えます
質素な墓を厳命した曹操が持ってたって事はマジでお気に入りだったんだろう
魏から金印を受ける国ならこれを賜ったとしてもおかしくは無いな
質素にしろっていったんだが、曹丕がやっぱり親を心底敬ってたんだろうな巨大にしてしまった
後に縮小したらしい
238年以降は公孫氏の反乱や司馬氏によるクーデター
曹操の鏡とやらがありがたがられるのは
存命中から238年より前という事に成る
弱小勢力にはやらんと思うよ。そんな大事なら
そこまで大きな勢力出来てたろうか?
そもそも弱小勢力に金印はやらん
しかし曹家なら遠い異国であり極端に魅力的なら厚遇してもおかしくない
芸術を解する民族とかなら凄い喜びそう
曹三代って中国王家でも特別変わってるし
宮崎を「日向」と名付けたのは、景行天皇が九州へ行った時と古事記に書いてある。
では本当の日向はどこか。
九州で、「日向」とつく地名の一覧
https://i.imgur.com/jCJpZkL.jpg
宮崎県には、延岡と日向市の2ヶ所しかない。
ほとんどが九州北部に集中している。
「日向」とはその名の通り、日に向かった所。
これらの中心に日があると考えると、
それらを線で結ぶと大分県の日田が浮かび上がる。
さらに日田は、宇佐・中津と隣接し、近くには耶馬溪もある。
http://travel.rakuten.co.jp/group/hojintiku/prefecture/images/Oita_x.gif
耶馬溪は江戸時代につけられた名前だが、もともと山国(やまくに)と呼ばれていた場所。
頼山陽がそれに「耶馬」とあてたものだ。
日向は古くは、「ヒムカ」と読んでいた。これを卑弥呼と関連づける人もいる。
また宇佐神宮は神道のルーツとも言われ、卑弥呼の墓説まであるところ。
道鏡事件のときも、天皇家の大事を、アマテラスのいる伊勢神宮ではなく
この宇佐神宮にお伺いをたてている。
そして中津だが、天孫が降臨した豊葦原(とよあしはら)の中ツ国(なかつくに)こそ、
この豊前の中津ではないかという説もある。
https://www.fsight.jp/articles/-/41598
中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』(そうそうしゅうやくちゅう)には、
皇帝は金をあしらった鉄鏡、
皇后と皇太子は銀をあしらった鉄鏡、
以下の貴人たちは、金銀を用いない鉄鏡を持った
とある。
日田の金銀錯嵌珠龍文は皇帝クラスっていうすさまじさ。
三種の神器の八咫の鏡はこの経緯を組んだのか
どう考えても邪馬台国を超える国になる
これ古事記や日本書記の歴史がやっぱり神話ってだけじゃないんかな
>>543
(1)博多と久留米をつなぐ河川交通があった。
江戸時代にも米を運ぶのは陸路ではなく、その川を利用した。2つの川を利用するんだが。
(2)そして、久留米と日田は、つい最近まで河川交通があったことは知っているだろう。
魏志倭人伝では、博多の少し南あたりとされる不弥国から水行20日で投馬国に至り、次に水行10日、そして陸行1月で邪馬台国となっている。
水行20日が、(1)の2つの川を利用した久留米までの行程を指す。
次の水行10日が、(2)の久留米から日田までの行程を指す。
wiki見ると、247年から20年過ごしたとあるけど
来た時は魏だけど、帰ったら西晋
249年には司馬懿によるクーデター
曹操の鏡を持って来るだろうか?
魏の領域に銅山が無かったから代用品としての鉄鏡が生産された。
呉が滅びて統一される280年位までは鉄鏡が生産されていたのでは。
曹操の墓も発見された時すでに盗掘に遭ってたらしいからなぁ…
孫権も1万の兵を日本に送り込んだって知ってた?
夷州(台湾と見られる)と亶州(日本かもと思われる)に送り込んだけど、
台湾までしかいけずに失敗。
兵の8~9割を失い、替わりに現地人数千人を連れ帰った。
責任者は激怒した孫権に処刑された。
実は兵の半分は日本に残って○○国を築いた、とか有ると面白いんだけどねぇ
>>564
マークシートの天才孫権が自分で立案した事だから仕方がないw
孫権「人口が増えれば国力が上がるから台湾から人を攫って連れてこよう」
陸遜「おい馬鹿やめろ」
治安悪化などで大変だったとか
現代の移民政策と一緒だな
衛温「イヤだって言ったんですよ」
諸葛直「陸丞相は武昌にいるし…」
鉄鏡は弥生、古墳時代、畿内、九州を通じて一度も序列に組み込まれたことはない
この事からこの鏡は仮に本当に弥生終末に手に入れたとしても、
どことも関わりを持たないものとなっているので倭を代表するような存在の所有物ではなかっただろうと思われる
何らかの形で6世紀ごろにで入手した輸入品ではないだろうか
ロマンに欠けるけど冷静にそうだろうなぁ
記述が無いんだから正式に貰ったという証拠もないし
コレは誰の鏡か分かりました。
曹丕(魏文帝)の子孫安貴公です。
日本にわたってきた渡来人の中にも曹操の子孫がおり、
新撰姓氏録には「大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、
大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。率四部衆帰化。
(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓」とあり、
曹丕(魏文帝)の子孫安貴公が雄略天皇の時に
一族とともに帰化し、神護景雲三年に「大崗忌寸」の姓を賜ったとしている。
この一族からは高向玄理が出ている。
コレです。
畿内にあるのは普通の弥生人の大きく平和な集落でしょうに
九州のような大乱があって戦う村の作りになってないと思うけど
大和が大和朝廷って言うのはそうだと思うけどね
>>599
つまり
大和朝廷と邪馬台国とはなんの関係もないってことか
なんとなく
邪馬台国が後の大和朝廷の元になった国だというイメージあるよね
名前も似ているし
邪馬台国って、中国語読みでもヤマタイ国なのか?
道長の日記なんかに書いてあるな
特に鉄鏡と言う話はないな
古事記の記述には金山から取れた鉄で作ったと書かれてるんだけど、平安時代の火事で溶解したから実物は鉄じゃないという話もあるよ
どっちが無理やりなこじつけをしている感じなの?
畿内説は時空を歪ませないと無理
九州説は微細な正誤を正せば成立
九州の遺跡は小規模、近畿は大規模。
邪馬台国がどの程度の規模だったかの問題になるな。
金印もらうくらいだから、小規模とは考えにくいとすると、九州説が無理なこじつけかl
>>660
金印をもらうくらいwww
バカか。属国の金印をもらうくらい小規模な証拠
日本を支配するくらいだったら、「日出づる処の天子」とおまえらとは対等だとかますぞ
邪馬台国は社民党みたいなもの。
消えそうなので、福島瑞穂が中国へ助けを求めた。
もちろん中国は大歓迎して、「親中倭王」の称号を与えた
その記録を読んだおまえみたいなのが「当時の日本は、福島瑞穂が支配していた」と発表
日本列島を一つの国として認識していない当時の魏から見たら、規模なんてどうでもいいんじゃないか?
「近畿の方にもっと大きい国があってそいつらが頭下げてきた」となったら、そっちはそっちで金印送るだけだろ。
雄略天皇(21代天皇)の治世=倭の五王の時代=477年頃~502年頃
安貴公が郷土の人々を率いて渡来した。←コレが日田だったのだろう。
その子の龍(辰貴)は画才も以て武烈天皇(25代天皇)から首の姓を賜り、
また、その五世孫に当たる恵尊も画才を認められて倭画師の姓を賜った。
これらの実績を以て大崗忌寸姓を許されたのである。
で、子の代以降に楢に住み着いたと。
だから鉄鏡も同じ様に材料を魏から仕入れて作ったんじゃね
出してきたのは、ただ単に、邪馬台国北九州説に有利になることを狙った印象操作でしょ。
北九州の遺跡は後漢時代のがほとんど。魏の時代は奈良のマキムクになる。
史実とは認められてないけど実際に任那あたりから古墳があるということは領有は確実にしていた
ていうか白村江の戦いをする意味もないし
領有した経緯は神功皇后以外の記述は全くないからそれ以外は考えられないね
このアクロバット解釈が畿内説論者www
九州大学の辻田淳一郎准教授は「出土状況や遺跡の時期が不明確なため、位置づけが難しい」と話す。「中国でも最
高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で、もしダンワラで出土したとするなら、近畿などの別の土地に
当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる」とみる。
御用学者はアクロバットが凄いねw
ていうか畿内説押してる人は、済州島虐殺で日本に逃げてきたあちらの人の系譜とか
満州行って帰ってきた人の系譜じゃない?
あるいは、その人たちに唆されてる日本人
上でも書いてる人いるけど利権で飯食える、って実感したたかりの人が
その道極めたい、と思っているような印象しかない
中国に文明があったなら九州がどうしてもその最初の余波を受けるだろう
アメリカが黒船で横須賀?に来て、関東からその流れが波及したように
そして、アメリカが西進する限りにおいては日本は前線で、シナと半島は、日本に隠れて
楽できるんだよね、地勢的に
>>628
日本史板で見たが、実はヤマタノオロチ伝説って出雲国風土記には載ってないらしい
地元なのになぜ?というのは古代史の謎の一つ
ついでに言うと国譲り神話も載ってないらしい
> 649 :日本@名無史さん :2019/09/08(日) 22:01:02.95
> >>647
> 山鹿・菊池は怪しいねえ
> なんとスサノオのヤマタノオロチ退治の逸話がこのあたりにもあるらしい
> 実はヤマタノオロチ退治の逸話って地元のはずの出雲国風土記にはなぜか載ってないんだよね
> 本当はこの地域の話だったんじゃないか?
>
> https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12513375590.html
> >熊本県山鹿市菊池市一帯は「肥川 ひのかわ」と呼ばれる菊池川が流れ、八岐大蛇(やまたのおろち)神話の櫛稲田姫(くしなだひめ)生誕の
> >伝説の地・熊本県山鹿市に旧稲田村があります。櫛稲田姫の本来の名称は「稲田媛」。
>
> >福岡県高良大社の「高良玉垂宮神秘書」第1条に「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について古典的記載があります。
ついでに軽く調べたらサメに娘食われたり地味な話ばっかりあるわりに載ってなさそうだった
なるほど
弥生時代や日本の不明な歴史の部分は鉄が重要な鍵になってそうだな
これは面白い
ありがと
>>631
お酒をふるまって寝込んだところを襲うのは熊襲の常とう手段で、出身地は山鹿や菊池も含まれる。
邪馬台国の役人は蛇の刺青を入れていたらしい
つまり出雲地区は当時、邪馬台国に支配され、重い年貢に苦しめられていた
そこへ熊襲出身のスサノヲが現れて、8人の役人をお酒を飲ませて接待し、寝込んだところを征伐した。
この話が神話となり、毎年大事な娘を八岐大蛇に食われるが、お酒を飲ませて退治したという話に変化したと推測。
娘の名は奇稲田姫、つまり年貢のこと。
もちろん、魏と交流のあった場所がそこにあったからとしか言いようがない。
もちろんその時代は既に大和政権傘下にあったと言う事か。
これは、江田船山古墳の鉄剣から見てもそういう事だろう。
秦人の住んでた秦王國かもしれない
「祖母」とは神武天皇の祖母であるトヨタマヒメを指している。
豊後まで足を伸ばした理由は何だろう
さすがに桃の種が沢山出土したから邪馬台国だってとんでも説とは違うよね
装飾鉄鏡で図柄も普通の物じゃなく特別性なのは見たら分る鏡と桃の種じゃあ話にならないね
魏は南の呉と敵対してるんだから東に優遇する友交国を求めるのは当然では?
納得できる
呉の南に魏の友好国が在るだけでも牽制になるね
魏からみたら日本は東というより北だと思うんだけど
倭人の記載は魏志倭人伝東夷伝やぞ
出土しなかったから、九州からの出土品を徹底的に貶しまくって憂さ晴らしをしよう
と言う朝鮮系関西人特有の心理状態がある事を考えておく必要がある。
理系から見たら頭がクラクラする
それか曹操の鏡と日田の鏡を分析したら同じ隕鉄を利用していた事が判明したらいいなw
これを認めるかどうか。認めないんだなw
俺は九州邪馬台国説だけど日本人の主な原型に関しては北方からの流入説派だわ
縄文後期になって海を渡る技術が上がってからの大陸沖縄方面からの流入だと思ってる
弥生文化と稲作や金属なんかは九州に拠点が出来て発達しながら北上して縄文文化を駆逐したと思う
で俺は九州の拠点が邪馬台国だと思うわ
畿内よりも北や東の大集落は北方から流入して繁栄したけど稲作や金属なんかの文化は無くて採集や狩りがメインのマッタリした生活だったと思う
当時の魏とかから見たら野蛮な生活してた印象だろうけど
縄文文明というのは別に考えなきゃいけない。
2000年そこそこの弥生時代に限定して考察すべきで
一万年も遡れる縄文文明には触れる気ない
最近は弥生時代って、そもそも無いんじゃねってのが主流では?
ずっと縄文時代
先に日本の鏡が出て最近になって曹操の墓の中に同じような鏡があるってなったら
もう物証としては国宝級だよね
曹操が日本に贈った鏡で確定なんて凄い
今までに三国時代との強いつながりは魏志倭人伝しかなかったから嬉しいね
曹操と日本国天皇の関係。
魏史倭人伝の原文に書かれている、卑弥呼の帯方郡への使者派遣の年「景初2年(238年)」を、日本の
歴史学会は、なぜ、わざわざ、「景初3年(239)」として、理解して、それを、国家の権威にしてきたか?
「景初2年である」としたときの意味が分かるもの、あるいは、本当の真実を知っているものがいても、
列島民を、蒙昧なままに置いておきたいために、あえて、日本書紀の記載(神功皇后の条)どおりに
「景初3年」として、教育の現場で強制してきたのでしょうね。
この状態を、ようやく、中国側の研究者が、日本国の歴史「改竄」を解き始めましたね。
これによって、日本列島で実在したハツクニシラス、初代王権の成立者、第10代の崇神(ミマキイリヒコイニエ)が、
公孫淵である可能性が生まれます。
これは、新井説です。
私は、これを2005年に歴史系図の第一番に書き、そのとき、金井敏伯氏に渡しました。
そのとき、金井氏からは、「縄文からの連続性を調べよ」と課題を言い渡され、その課題は、2008年に
解いて、以後、より大きな全体像の構築を進めてきました。
ここからは、アメノミナカヌシから始まる日本神話と、地球史の中の歴史事実のすり合わせ作業です。
なかでも、ダビデ~アレクサンダー~始皇帝~武帝~光武帝~曹操 と、列島の王権の関連性です。
それにしても、これは、ほんとうに嬉しいニュースだ。これで、列島民のファンタジーが終わる。
公孫淵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AC%E5%AD%AB%E6%B7%B5
倭との関係
遼東公孫氏の滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が魏の帯方郡に遣使することにつながった、との見方が有力である。
これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を
遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたため、滅亡により陸路が通じるようになったという見解に基づくものである。
なお、『魏志倭人伝』においていわゆる倭国の乱から卑弥呼の遣使まで倭国に関する記述が途絶えているが、
この期間は公孫氏が遼東で自立していた時期と重なるため、根拠に挙げられている。卑弥呼の帯方郡への
遣使は、ちょうど公孫氏滅亡の直前である景初2年6月であると魏志倭人伝に記述されている。しかしこれに
ついては、帯方郡など遼東での戦乱最中時(まだ公孫氏はまだ滅んでいない)の遣使は困難であるとして、
翌年の景初3年ではないかという説[3]が主流である。ただし、邪馬台国が遣使2人で朝貢物の奴婢10人
布2匹2丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇したのは、
公孫氏からいち早く魏に乗り換えた事の功績を認めたからだという観点から、公孫氏滅亡直前のこの時期
の遣使が正確であるという説[4]もある。
日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、公孫淵の子孫と称している。
https://nunato.net/%e3%90%e3%94%e6%a1%e5%85%e3%91-%e6%b0%e4%ba%e4%bf%a1%e4%bb%8b%e8%ac%9b%e6%bc%e4%bc%9a-%e3%8e%e5 %a4%e4%bb%a3%e5 %b2%e7%a0%e7%a9%b6%e4%bc%9a%e3%8f%ef%bc%882/
列島で初の本格的統治体「ハツクニシラス」は、3世紀中頃、後漢の献帝の実子、公孫淵による亡命政権だった。
https://nunato.net/%e6%9b%b9%e6%8d%e3%92%e3%82%e3%a3%e3%a8%e7 %a5%e3%8d%e3%86%e3%82%e8%b5%a4%e5%a3%e5%b9%b4%e3%a7%e5 %b8%e9%a6%ac%e6%bf%e3%8c%e5%ba%e3%a6%e3%8d/
曹操は196年に後漢の献帝劉協を抱えこんで許に連れていき、自らは丞相・魏王のまま生涯を閉じた。
実質的に最高実力者ながら最期まで皇帝にはならなかったが、息子の曹丕は違った。魏の皇帝になり、
献帝を山陽公にした。
ここで問題。この間、卑弥呼は日本列島のどこにいて何をしていたのか?
魏志では、卑弥呼が景初2年(238年)に帯方郡へ使者難升米を送ると、そのまま郡の吏に連れられて洛陽
まで行き、魏の皇帝と謁見しているのですが、遼東地域は公孫淵の支配地域で、しかも司馬懿との戦闘中
というより、襄平で籠城している最中でした。
しかし、629年に編纂された梁書では「至魏景初三年(239年)公孫淵誅後 卑彌呼始遣使朝貢」とし、公孫淵の
死後に卑弥呼は初めて使者を出した、としています。
卑弥呼と公孫淵の関係は、中国の正史編纂においても「何かの重大問題」があったことが分かります。
因みに日本書紀では、卑弥呼のこの記事について梁書に習って年代を景初3年とし、しかも、わざと神功皇后の
条に書き込んでいます。これは神功皇后の生存年代を卑弥呼時代に重ねる作為そのものでした。
また三国史記・新羅本記には、阿達羅尼師今「二十年(173年)夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘」の記載があります。
公孫淵とは何者か?この人物は魏の曹丕が226年に死んで曹叡(明帝)が即位した2年後の228年に、強引に
叔父から遼東太守の地位を奪いました。公孫淵は204年に帯方郡をつくった公孫康の息子とされていますが、
生年がはっきりしません。私の考えでは210年生まれです。
208年の赤壁の戦いで曹操が呉と蜀の連合軍に負けたことは、献帝に対し、曹操自身は大いに面目を失った
はずです。このとき公孫康は曹操を支えていたのは間違いなく、このころに公孫淵が生まれたのではないか、
と考えられるのです。公孫淵には出生の秘密がある。これが私の見解です。
因みに、新撰姓氏録では、公孫淵の子孫は、赤添氏となっています。
曹操曹丕の子孫で、応神時代に阿智王と一緒に列島に入ったのが七姓漢人で、その中に高向氏がいて、
高向玄理は、608年に来た裴世清の帰国に際し、仏教研修生として隋に渡っています。そして、隋の滅亡から
唐の成立、李世民の即位まで、全て大陸側で実見しています。
日本列島の古代は、孔子や始皇帝の時代から、中華皇帝を軸とする東アジアの政治的ダイナミズムのなかで
動いてきましたが、それを、いかに、列島だけの「香しい物語」にするか、これが持統と不比等の狙いでした。
そうした画策の下に、皇祖神アマテラスと高天原神話が誕生しています。
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11991001691.html
春香神社の赤染氏(息長の姫を祭る)は公孫淵の後裔である。
*新選姓氏集より。
net上では、子孫を名乗る赤染氏は、公孫淵の兄の公孫晃の子孫としています。けれど、公孫晃は、魏の
洛陽に人質兼大使としてとらわれており、その家族ともども処罰(毒を飲んで死んだ)事になっています。
つまり、洛陽・帯方郡の方にいた公孫淵の後裔である方の確率が高いので、新選姓氏集にあるのが正しい
気もします。(→訂正。7000傑ではちゃんと淵の子孫となっています。web上の、別のソースが違っているようです)
中国側の情報でも、公孫淵とともにとらえられて処刑されたのは、長男のみ。直系の息子は一人しか
処罰されていない。この混乱の世、息子が一人とは思えないが、、。ちなみに、公孫淵には、叔父に
公孫恭がいるが、この人には子供がいなかったらしい。
さらに、赤染氏の系図によると、この公孫氏というのは、もっと昔の魯国の傾公から続くとされています。
それは、「姫」姓のようです。
なお赤染氏は、豊前国(現福岡県田川郡香春町)の式内社・香春神社(カハラ)の神職でもあったという。
香春神社は新羅系渡来氏族(秦氏に連なるともいう)が創建した神社で(豊前国風土記に、「昔、新羅の
国の神-香春の神-が自ら海を渡って来た」とある)、その渡来氏族が香春の地から東進して宇佐地方に
入り、在地氏族(宇佐氏)と一体化して創建したのが宇佐八幡宮という。
彼らは土木・養蚕・機織・採鉱冶金といった先進技術をもって各地に展開したといわれ、当地の赤染氏も
その一族として染色・赤染(紅染・茜染)などの特技をもった技術集団であろうといわれ、時代は降るが、
鎌倉時代の吾妻鏡(1300頃)には、
「この地の人々は河内国藍御作手(アイミツクテ)奉行に任ぜられ、諸国へ藍作・藍染の技術を指導した」
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11424901355.html
話は変わるが、「晋書」には、卑弥呼は公孫氏の出という記述があるそうである。真偽は不明だがもし公孫氏の
一派なら、公孫氏が魏に滅ぼされる前後、とてもタイミングよく魏に朝貢できたのはうなずける事になる。公孫氏は
中国人(漢人)だから中国の情勢にたけていただろうし、公孫氏が韓や倭を支配したのは文献上明らかだから、
その支配の一環として同族の誰かを倭に派遣し土着させた可能性もある。
(このような観点から、邪馬台国は元は韓半島にあり、邪馬台国は亡命政府だ、とかいう人もいる)
新撰姓氏録には、公孫淵(公孫氏の最後の代)の子孫だという人物の記録があり、歴史上確認されていない
子供が当時国交のあった倭国に亡命していた可能性は十分にある。
そしてその新撰では、公孫淵の子孫は当然ながら諸藩(外国からの移住)扱いになっている。もし邪馬台国が
大和朝廷なら、遠い血縁関係にあって時代も渡来時期もかなり古い公孫淵の子孫を諸藩の項目に入れるだろうか。
推測の域を出ないが、
公孫氏=中国・魏と繋がり、卑弥呼(公孫一族の一派)、公孫淵の子孫の受け入れ、大和朝廷に滅ぼされた
邪馬台国は、渡来氏族の一派と認識されている、という事もできる。
公孫氏・卑弥呼(道教)・大陸との国交の邪馬台国の背景には中国らしさを伴い、大和朝廷や奈良の遺跡には
中国らしさがない。
http://kamodoku.dee.cc/sin-jo.html
晋書・四夷伝・倭人
宣帝の公孫氏を平ぐるや・・・宣帝は晋王朝初代・武帝(司馬炎)の祖父・司馬懿への贈号。
宣帝・司馬懿は魏の大将軍として景初2(238)年、帯方郡を拓き、燕王を自任していた公孫氏の嫡流で
ある公孫淵(コウソン・エン)を遼東の襄平で破り、帯方郡までを平定した。
その余勢を怖れた邪馬台国では女王・卑弥呼が早速に朝貢使を送り、よしみを繋ごうとしている。それはまた
女王国の南部にある狗奴国への牽制でもあった。幸いにも女王卑弥呼は魏の明帝から「親魏倭王」の金印を
授かり、九州島では並びなき権勢のお墨付きを得て、7~8年の安泰を確保することになった。
この部分に関して、上の「名づけて卑弥呼という」から「宣帝の公孫氏を平ぐるや」までを一体と見る解釈がある。
それは「名づけて卑弥呼という。(卑弥呼は)宣帝の平げし公孫氏なり」と解釈するもので、それだと「卑弥呼が
燕王を自任し、宣帝(司馬懿)に討ち取られた公孫氏の同族に他ならない」そうだ。
驚天動地とはこのことで、改めて原文を提示してみると、その誤りがわかる。
<名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使、至帯方朝見。>
誤りは「宣帝の平げし公孫氏なり」と「也」を「なり=である」の意味に採ってしまっていることで、ここでは「也」を
「や」ととらねば次の「その女王・・・」につながってこない。帯方郡という韓半島中央部までが強大な大陸国家・
魏による直接支配に入れば、やがてさらに南下し、半島南部はおろか九州島にまでその食指が伸びてくるのは
避けられまい――という危機感が九州島全体を襲ったゆえの遣使朝貢であった。
現に、その直後には楽浪郡、帯方郡の両郡支配を断行し、半島南部の三韓を、冊封体制に組み入れようと
しており、それによって辰韓を中心とする反乱が起こっているのである。
卑弥乎がもし公孫氏の出身であれば、何と言ってもまず「魏志韓伝」「魏志倭人伝」に真っ先にそう書かれなければ
おかしい。中国人史官がそのことを隠す必要はさらさらないからだ。まして滅ぼした宿敵公孫氏の出自であれば
いくら倭人に擁立されたとはいえ「親魏倭王」などに任命するはずはない。逆にそのような卑弥呼を王に立てたら
倭国までが魏の敵国になってしまうではないか。これが有り得ないことは言うまでもないだろう。
中国製のはんこであって貰ったからには日本のもんだろ
>>708-709にあるように
名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使、至帯方朝見。
の解釈については、やはり中国人の間でも2つに分かれている模様。詳細は山形 明郷氏のページでどうぞ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~takao-3/h34.htm
あまり長文コピペしてもあれなのでこのヘンでやめるが、
公孫淵と卑弥呼の関係、
公孫淵の後裔とされる帰化人系の氏族の赤染氏の存在などを考えれば、
公孫淵一族は、卑弥呼の計らいで、日本へとわたって来た可能性が高い
だから、曹操の墓から出土した鉄鏡と酷似したものが大分県で発見されるのは何の不思議もない
神武は架空だが、重要存在。 崇神は実在で公孫淵。 後漢献帝の息子「劉淵」。
卑弥呼は、AD172年に後漢に反発した、浙江会稽山「五斗米道」の許生の娘、許黄玉。
彼女の死しんだ247年、魏は張政を派遣。 阿波に。
許さなかった鏡が
日本の日田にあるという事実が
明らかになった訳で、
その様な鏡を日本に贈る筈も無く、
長宣子孫と書かれている通り、
やはり、日本に来た安貴公が、
曹家の直系の子孫で間違いないのではないか。
荀彧「丞相、大海の向うに在る、倭国に薬草があるかも知れません」「嘗て、徐福も不老不死の薬を求め渡海しました」
なんて事もあったかも
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