中国の国家主席にもあった日本史との接点 http://s1.shard.jp/rabbit1/0204/43/289_1.html
その代表的な人物が、「毛沢東」だった。
孫文の後継で、中国の、日欧米からの侵略と闘う。さらに、反共。
国民党が内戦で勝つてたら、もっと早く、
中国は経済大国に、、、かも
人格は立派だったらしいけど。
日中戦争中に自国民虐○しまくりで、
台湾では、重税と虐○の独裁者じゃん。
蒋介石は、アメリカなどの支援を受けていたのにもかかわらず、国共内戦に負けただけでなく、台湾の統治にも失敗している
台湾が新日的だというのは、蒋介石に比べたら日本のほうがマシだったから
日本は犬で番犬ぐらいにはなったが、国民党は豚で食い散らすだけ、と言われたそうだ
毛沢東に中国を統治する能力がなかったということは結果が証明しているが、
蒋介石にあったとは思えない
自民と民主は国難に中って何で協力しないの?
自民と民主は大増税で絶賛大連立模索中。
http://www.youtube.com/watch?v=dxLw9Pbv99A
http://www.youtube.com/watch?v=Fi_iozIylLA
しかし、辛亥革命(1911年)を支援した日本人は今や忘れられた存在になったともいえる。東京国立博物館で26日開幕する特別展「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」は、
写真など約260点により、高い志を持って生きた2人とその時代に改めてスポットをあてる。【山田研】
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110725dde010040035000c.html
◆孫文
◇革命、日本も拠点
ひげを生やし、スーツ姿の孫文を中央に、中国と日本の革命家らが並ぶ写真が、特別展に展示される。撮影は1911年12月。
この年の10月に湖北省武昌(現武漢市の一部)で上がった辛亥革命の火の手を米国滞在中に知った孫文が、欧州を経て香港まで戻った際の記念撮影だ。
緊張感とともに晴れがましさが伝わるようなカット。上海で上陸した孫文は、革命派17省の代表から選ばれて、12年1月1日に南京で中華民国臨時政府の臨時大総統となった。
翌2月には宣統帝溥儀(ふぎ)が退位して清朝は滅亡した。
しかし革命家が歩んだ道はその前もその後も平たんでなかった。
孫文は1866年、広東省の生まれ。マカオで医師になったころには救国の意識が強く、清朝に政治改革の意見書を出したものの取り上げられないとハワイへ渡航。
革命を志して武装蜂起の準備を進めた。香港へ戻って「興中会」を結成。1895年10月には最初の武装蜂起を広州で企てたが、辛亥革命半年前までに10回失敗している。
この間、清朝から逃れ、日本や東南アジア、欧米にも渡り、華僑らから革命資金を集めるとともに知名度を高めた。
1905年には東京で、各地の革命派を集めた「中国同盟会」を結成した。
孫文は臨時大総統の座を就任2カ月後に、共和制支持に転じた清の内閣総理大臣で列強の支持を集めていた袁世凱(えんせいがい)に譲った。
この時期に東京で写された写真からは、陳其美(ちんきび)、胡漢民(こかんみん)ら多くの革命家が逃れていたことが分かる。
その後、17年には広州で軍政府を組織し、袁タヒ後の北京政府と対決色を強めた。クーデターにより上海へ逃れた時期もあったが、
ソ連や中国共産党との協調路線を進めるとともに、財政面から政権基盤を強化。24年4月には三民(民族・民権・民生)主義と五権(司法・行政・立法・監察・人事)憲法に基づく国造り方針を表明した。
そして話し合いによる統一を視野に北京へ入ったが、病状が悪化。「革命尚(なお)いまだ成功せず」との言葉を残し25年にタヒ去した。
◆梅屋庄吉
◇志に感激、生涯支援
梅屋庄吉が孫文と初めて会った日を示すとみられる記述を、特別展事前調査で長崎歴史文化博物館の平岡隆二主任研究員が梅屋のひ孫、小坂文乃氏所蔵品から発見した。
梅屋が備忘録的に記したとされる「永代日記」にある「孫文 (明治)二十八年三月十三日 香港中環大馬路第八号」の記述だ。1895年のことで、日清戦争終結前にあたる。
「中日の親善、東洋の興隆将又(はたまた)人類の平等に就(つい)て全く所見を同じうし(中略)先づ(まず)大中華の革命を遂行せんとする先生の雄図、熱誠は甚しく我が壮心を感激せしめ(後略)」
孫文支援者としての梅屋の存在をいち早く伝えた車田譲治氏の著作「国父孫文と梅屋庄吉」(1975年)によると、
1929年にあった孫文の葬儀の追悼で、梅屋は出会いの感激で生涯の支援を決意したことをこのように振り返ったという。
梅屋は「明治元年11月26日」(「永代日記」。旧暦表記と推定され1869年1月8日とみられる)に生まれてすぐ、長崎市の貿易商の養子となった。
若くして海を渡り、香港で写真館を経営していた時に孫文に出会った。
記録映画に熱心で、11年には辛亥革命や日本人初の南極大陸上陸の撮影に社員を派遣した。また、大手映画会社4社を統合して日本活動写真(日活)を12年に設立した。
一方で、亡命中の孫文と宋慶齢(後の中国国家副主席)の結婚に妻トクとともに力を貸した。「賢母」と孫文が揮毫(きごう)した梅屋の羽織が残されている。
小坂氏はこの言葉について、孫文が「革命の父」と呼ばれたことに絡めて「支援したことで曽祖父は『革命の母』と思われたのかもしれないし、トクへの感謝の表れかもしれない」と語る。
梅屋邸で15年に開かれた孫文の披露宴には後の首相、犬養毅ら多くの支援者が集まったという。
当時少なからぬ日本人が財政面や時には直接戦闘に参加して革命を支援。
またその対象も中国革命にとどまらず、梅屋自身がインドやフィリピンの独立運動を支援した記録も残る。
孫文のタヒ後、梅屋は孫文の銅像を作り、中国に4基を贈った。さらに日中の関係改善を目指したが、34年にタヒ去した。
◇辛亥革命の革命家と支援者
梅屋庄吉
犬養毅
安川敬一郎
許崇智
胡漢民
鄒魯
写真の所蔵は「犬養」=犬養木堂記念館▽「安川」=北九州市立自然史・歴史博物館▽その他=小坂文乃氏
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孫文の革命の意味を知らない人が多い。
これは異民族の清朝支配からの支那人の独立運動のことだ。民族主義運動である。
ただ支那人は他民族の独立は許さないから、支那人だけの私利私欲の運動である。
ということで、日本人が孫文に協力したが間抜けということである。
「隣国を援助する国は滅ぼされる」からだ。毒蛇に餌をやっているようなものだ。
孫文はソ連にコロット騙され、民族主義政党の国民党にソ連共産党の支那支部である
中国共産党を受け入れた。頭が悪い。
結局この判断が国共内戦を起こし、数百万のタヒ者を出した。
日本の支那事変など問題にならないほどの被害だ。
宗美齢と無理やりでも政略結婚させたじゃない。
それが戦後の中国の混乱を招いたのだから、結構前世紀的な策略家でもある人物。
本当に孫文の意思を達成させるなら、宗慶齢を助けるべきだった。
どうも本心では、女性は内助の功を発揮させるだけの存在にしか思ってなかった気がする。
若い時にはいろいろヤバい商売にも手を出していたみたいだから、少なくとも清廉潔白な
ヒーローとは言い難いようだ。
http://www.worldtimes.co.jp/syasetu/sh111010.htm
2000年以上続いた中国の王朝体制に終止符を打った辛亥革命から100年を迎えた。中国では胡錦濤国家主席が祝賀の演説を行った。
革命を指導した孫文を国父と仰ぐ台湾はきょう、馬英九総統が演説をする。
祝賀は台湾統一への戦略
だが辛亥革命100年を祝う中国共産党の思惑は、歴史を回顧しその意義を確認することではなく別のところにある。
これは今の中国で進んでいる蒋介石(中華民国元総統)や国民党への再評価と重なる。いずれも毛沢東時代に中国が敵視したものだ。
再評価は多分に台湾を統一へと追い込みたい中国政府の政治的意図と結びついている。
中国政府は現在、台湾に対し「以商囲政」による熟柿戦略をとっている。ビジネスで外堀を埋めて政治の本丸を落とそうというのだ。
戦わずして勝つ孫子の兵法通りの戦略である。
そもそも民族・民権(人民主権)・民生(経済的平等)の三民主義を謳った孫文の辛亥革命は、一党独裁体制下にあって民主主義とかけ離れた現在の中国の実体とは程遠い。
むしろ台湾でこそ孫文の三民主義が自由民主主義として大輪の花を咲かせたと見るべきだ。
唯一、中国共産党が活用しているのは民族主義だけだ。共産主義を棚上げして資本主義を便宜的に導入した中国は、国家を束ねる理念がない。
もっぱら民族主義を煽った手で、孫文がいみじくもいった「ばらばらの砂」を固めているのが実情だ。
しかし共産党独裁政権という強権を持ってしても、「ばらばらの砂」を固めるのは難しい。中国は非常に大きな経済のパイをつくるようになったものの、
ごく一部の権力者やその周囲だけがパイの主要部分を独占し、権力からはみ出た一般庶民が手にするものはごくわずかにすぎない。幹部の汚職は深刻だし、貧富の格差は広がるばかりだ。
中国の政府統計によると2008年の暴動件数は10万件を超えた。それ以後は、統計の公表もされない。今は恐ろしい数になってしまっていて、
発表すれば火に油を注ぐようになることを当局は恐れているのかもしれない。権力と資本が「悪性結合」し、搾取する「権貴階層」に対する民衆の不平不満が暴動の一大要因となっている。
なお、わが国と孫文との関係には深いものがあった。孫文を公私にわたって支援したのは宮崎滔天や犬養毅、頭山満らのアジア主義者だった。
彼らは命をかけて孫文を守り、孫文と宋慶齢夫人の仲人役を引き受けた梅屋庄吉などは財産を擲ってでも支援を惜しまなかった。
そして1924年、孫文は北伐宣言をして神戸に立ち寄り「大アジア主義」と題する講演で「日本は王道を取るのか覇道を取るのか」と、その選択を迫った。
志ある人々への支援を
いみじくも今の中国は100年前の状況と似ている。いつ政権を揺るがしかねない暴動が起きてもおかしくないし、
「富国」から「強兵」への舵を切った中国共産党へ国際社会の疑念は渦巻いている。わが国は共産党政権の覇道への道に立ちはだかり、
孫文が唱えた三民主義へ回帰できるよう志のある人々への支援を惜しんではならない。
日本国内 [編集]
箱根彫刻の森美術館中正堂 – 箱根 彫刻の森美術館内にある。蒋介石からの恩義を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた。
中正神社 – 蒋介石が、日本が敗戦した際に寛大な処置を取り、復員に便宜を図ったことなどを讃えるため建立(愛知県幸田町)。
蒋介石頌徳碑 – 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。
中正堂会館 – 日華文化協会が入居している(港区南麻布、1968年竣工)。
以徳報怨之碑 – 千葉県いすみ市岬町江場土、1985年4月建立。
胸像 – 千葉県市川市中山の法華経寺境内に、1972年岸信介・佐藤栄作兄弟と親しかった132世武井日進上人が建立。
そもそも孫文の財布は中国の利権をアメリカに売り渡す宋一族の財力と、
自国民に麻薬を際限なく売りまくる上海マフィアのしのぎ
林則徐が生きていたら、康有為が失脚しなかったら、孫文の一党をまるごと処分してただろう
日本のアジア主義者たちは立派だったけど、孫文に対する評価は彼の事績を無視したダダ甘で、
そのことを危惧した人々に注意されても聞く耳持たなかった
そして辛亥革命の後、孫文の不実な行いを見て、彼を助けたことを後悔した
まさに後の祭り
遭難者救出の礼状に尖閣の工場の従業員があたったから。
共和国になって、「国家の継続性が無くなったから前の事は知らん」と言ってるのかと
思っていたが、孫文を国父としている時点で継続性アリと主張出来るのではないかと思った。
領土問題にしようとしてきてるだろうw
清からの継続性を否定したら、チベットや東トルキスタン領有の根拠がなくなるしw
もし、毛沢東がタイムスリップで現代に来たら
今の共産党を打倒するためにかつて自分が作った共産党と戦うのではないかと言うのだ。
つまり今の共産党にとて最も危険な人物は
共産党を作った毛沢東のような人物と言うことになるのだ
何と言う皮肉
しかし、その危険性に気が付いたからこそ
今の中国は、毛沢東の評価を控えめにし始めたのではないかと思われます。
文革時に共産党と闘ったじゃないかw
http://dbeat.bandaivisual.co.jp/bambino/sonbun/
言われてるが例のヤルタ会談で侵略戦争と断罪してるし
その後の台湾に豚を落としたと揶揄されるほどの暗黒政治を行った事を
鑑みれば過大評価といわざるおえん
時代によって意見が変わる
毛沢東はガチガチのポピュリストなのでちょっと違う
「普通の政治家」以前に普通の人間だからね。共産党の指導者は
普通の人間じゃない。
中国軍の日本人女スパイ処刑は偽装工作だ
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0202/1/111_3.html
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/C2/02/15.html
蒋介石率いる国民党軍は川島芳子を処刑したことになっているが、
それは偽装工作であり、
蒋介石が完全な日本の傀儡(かいらい)であったことを暴露した。
それとも奥さんの?
りもないのだが。皆が金で動く訳でもなく、結局は民族統一という鍵が効いてくるのだ。
蒋介石は、ナチスが好きな程の全体主義者だ。将来は、アメリカの手に余るのであるが。
コミンテルン指令で、蒋介石の拉致を以って承服させ、日本との戦争状態を作り「世界赤化政策」の
礎にすることが決まっていた。日本と蒋介石が懇ろになれば、アジアでは、世界赤化は出来ないから。
当時コミンテルンのスパイ網が国民党にも迫り、国民党の中枢にも共産党員が二重三重スパイとして
コミンテルン下で蠢き、その動機は中国統一をコミンテルンが約束したことである。、
国共合作は、こうしてあっさりと出来上がり、政治的には日本は終わってしまった。
軍事的に、日本が中国全体を納めることは無理であって、アメリカ合衆国の中国
支援が濃厚になるにつれて、軍事的な敗色が見え隠れする頃に、2発の原爆によっ
て日本軍はアメリカに降伏した。蒋介石は、その全体主義的な性向の為に、アメリ
カ合衆国からの救援物質の横流し、中国人に届かずに蒋介石の懐に入ると言うでた
らめさに驚き、一時はアメリカは、毛沢東に肩入れするのであった。、
中国の辛亥革命の指導者・孫文を支援した長崎出身の実業家、梅屋庄吉の生涯を振り返りながら、現代の日中関係
について考える催しが長崎市で開かれました。
この催しは、中国の清朝を倒した辛亥革命の指導者・孫文と、孫文を物心ともに支援した長崎出身の実業家、
梅屋庄吉の2人の交流を通して日中関係を考えようと、長崎県が開きました。
26日は、梅屋庄吉のひ孫にあたり、みずからも日中友好に取り組む小坂文乃さんが講演し、梅屋庄吉が清朝末期に
香港で孫文と出会って意気投合した後、事業の利益を革命で使う武器の購入にあてるなど、孫文を献身的に支援した
ことを説明しました。
そして、孫文の没後も中国に孫文の銅像を寄付し、上海に滞在して満州事変を前に悪化する日中関係の改善に努める
など、日中の友好に尽くした生涯を紹介しました。
26日は、中国駐長崎総領事館の李文亮総領事らが参加してパネルディスカッションも行われ、李総領事は冷え込む
日中関係に触れたうえで、「両国が手を携えて歩むことがそれぞれの国益となる。
梅屋庄吉と孫文のように、100年先、1000年先の関係を見据えてつきあう必要がある」と話しました。
会場を訪れた長崎市の80代の女性は「梅屋さんは長崎の誇りです。同じように親密な日中関係を築くことを期待します」と話していました。
11月26日 19時38分
国家建設に向かない指導者だった。
堀川辰吉廊が玄洋社から孫文に中国についていって、一緒に行動してたらしいけど
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1285852411/
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