ヨーロッパ・オスマン・中国・日本の兵たちを同時代で比較してみたい
傾いているとはいえいまだ健在な明。などのほぼ同時代の軍隊の
装備や戦術などについてかたらうスレです。
慶長の役のでの各地での倭城防衛戦
ともに日本側が明・朝鮮側の攻撃を
恐れて城内に立て篭もった状態での
戦闘だ。日本側の勝率が高いのも
その多くは防衛戦での守備側だったからだ。
大体、日本側が明軍を恐れていたのは
文禄の役の戦略目標が大明国の征服だったのに
慶長の役では朝鮮半島南部の征服に変わったことでも
判る。
清明時代の中国の砦とか城を詳しく知ってる人がいたらよろしくお願いします。
あと前スレのこれは前スレでの結論として扱っていいの?
984 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/30(土) 12:07:22 ID:jtqzmUk4
朝鮮の役で判ったこと
・日本の陸軍は朝鮮の陸軍よりも兵力も多く
装備も充実していたこともあって強かった。
・日本の海軍は、一般の朝鮮海軍よりは強いが、
李舜臣配下の朝鮮の海軍よりも弱かった。
・日本の陸軍は碧蹄館の戦いでこそ明軍を相手に
兵力差もあり勝利を収めたけど主戦論者の小早
川隆景からが追撃を主張する立花宗茂の意見を
押しとどめて漢陽城防衛を主張したように明軍
の実力を恐れていた。
・朝鮮の義兵は装備は貧弱だか、士気も高くゲリ
ラ戦で日本の陸軍を苦しめた。
・慶長の役においても日本側は14万人以上の兵力
を投入して一時は漢陽城を奪還しそうな状況に
なりながらも、明軍の本格的な来襲後は朝鮮半
島南岸に撤退して倭城を築城して
明軍の来襲に備えた。
・倭城守備の日本側と攻め寄せる明・朝鮮側で何
度かの戦いがあり日本側が勝利を収める。
・倭城でも防衛戦には勝利したが追撃して漢陽城
攻めなかったことからも野戦で明軍と戦うことを
恐れていたのだろう。
基本的にはレンガと石材で構築された城壁型
㌧
まぁ、遊牧民相手の戦いならそれで十分だったんだろうな
柳成竜『懲毖録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)
・日が暮れ、賊は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に○されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。
・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。
・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
(金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。
・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、タヒ者は数しれなかった。
・水際を行ったり来たりしている者は、あるいは一、二名、あるいは三、四名ずつ、
大剣を肩にしていて、それに日光が反射してきらきらと電のように閃いていた。
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
「朝鮮国の描写、およびアゴスチイノ(小西行長)がその艦隊を率いて先発した次第」
・(※注:朝鮮人の)その他の武器には威力がなく、特に刀剣は短く、たいして役立たない。
『日本史』豊臣秀吉篇第三七章(第三部四八章)
「朝鮮に向けて出発したアゴスチイノが、ついで幾つかの城を攻撃し、大いに苦労して
軍勢をもってそれらを屈服せしめたこと、ならびにそこで彼が獲得した名誉について」
・双方とも大いに奮戦したが、朝鮮人は頭上に振り翳される日本人の太刀の威力に対抗できず、ついに征服された。
朝鮮人の側では約五千の兵が戦タヒし、日本人の側では二つの城塞
(の攻略に際して)百人近くの戦タヒ者と四百人以上の負傷者を出した。
『日本史』豊臣秀吉篇第三八章(第三部四九章)
「アゴスチイノが朝鮮の都に入るに先立って生じたこと」
・だが日本軍はきわめて計画的に進出し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、
朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼(のよう)にして先を争って遁走した。
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ち振るい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
程宗猷 「単刀法選」
日本刀法は神秘的だ。
左右への変化がすさまじく誰にも予測できない。
そのせいで槍を持ってしても毎回日本刀に負けてしまう。
「武藝圖譜通志」
「倭軍と対陣すると、倭軍はたちまちタヒに物狂いで突進してくる。
我が軍は、手に槍を持ち、剣を帯びていても、その剣は鞘を出る暇も無く、
槍は矛先を交えることもできずに、凶刃のもとにやられてしまうのである」
「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 タヒ而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)のタヒによって戦争は終わった
シナ人は自国のおびただしい人口に自信を持っているものの、
スペインのわずかな鉄砲隊で、
何百万人ものシナ人を滅ぼせるという事が理解できていない。
先年僅か13人の日本人の搭乗した小舟が一艘渡来し、
3000人以上のシナ人に包囲され、洞窟に閉じ込められたが、
彼らはそこから脱出するや、
直ちに多数のシナ人を○してしまった。
シナ人は彼らを一昼夜に渡り包囲しながらも攻撃を加えることができず、
脱出した日本人は近くの海岸に行って舟を奪い、
それに乗って逃げてしまった。
シナの征服は日本人の軍事力を利用してすべきである。
「これは日本のサムライが明に攻めて来た時に初めてわかったことである。
彼らは舞うように跳び回り、前方への突進は光が閃くようで我ら明の兵は
恐れおののくのみだった。 日本人はよく躍動し、一息で一丈(約3m)も
飛び込んできて、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間隔があっても攻撃される。
我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎて、(サムライと)遭遇すれば皆両断されて○される。
これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである」
「揮刀如神」 明末期
「日本のサムライの剣術はまるで神の如しだ。 我々の兵士(明兵)はサムライを見れば皆身が
すくみ逃げ腰になる。 剣術に優れたサムライだが剣術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。
弓の扱いも我が弓兵と互角、その他あらゆる兵科と比べても不足が見つからない。
本当に日本人は○戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、 子供の頃から武術を鍛えられ始め、
壮年にいたれば手に負えなくなる」
「単刀法選」 程宗猷 1621年
「日本剣術は神秘的だ。左右への跳躍が凄まじく誰にも予測できない。
そのため長技(槍)を使っても毎回刀に負けてしまう」
「広東新語・語器」 屈大均(1630~95)
「日本人が全力で動く時風のように漂って動く。 常に寡兵で陣に入って来て、
大勢の兵士でも抵抗できない。 その刀の使い方は、長い方で構え守り、短い方で止めを刺す。
しゃがんでいるかの如く低く移動し、決して退かない。 相手が何人いようと対応する、島の中の絶技である」
ルイス・フロイス「日本史」
日本軍は極めて計画的に行動し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、
朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。
ルイス・フロイス「日本史」
フロイス『日本史』
・(朝鮮人の)その他の武器には威力がなく、特に刀剣は短く、たいして役立たない。
宣教師が報告する中国の鉄砲
・さらに日本人と同じく刀剣、また多数の鉄砲隊を用いた。彼らの鉄砲は、どのようにして発射されるのか
不可解である。というのは、無数に発砲した後も、そのためのタヒ傷者が一人も出なかったからである。
フロイス『日本史』
「日本の武士の刀術はまるで神の如しだ。
我々の明兵は武士を見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。
刀術に優れた武士だが刀術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。
弓の扱いも我が弓兵と互角、そのほかあらゆる兵科と比べて不足が見つからない。
本当に日本人は○戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、
子供の頃から剣術を鍛えられ始め、壮年にいたれば手に負えなくなる。
それゆえ接近戦は日本の武士に一方的に有利で明兵では相手にならない。
日本人を有効的に○せるのは火器のみである。
であるにも拘らず、多くの鳥銃手を擁している我が明兵が勝てないのは外でもない。
日本人は戦いに臨んで命を忘れるが、我が明兵は戦いに臨んで恐れてしばしば勝手に逃げるため、その鉛子は地に堕ち、あるいは薬線が法なく、手震え、目眩み、天を仰いで空しく発射する為である。」
城壁で囲ってある状態を城っていうのかな?よく分からないけど
中国の城は基本的に羅城ですから
に見られるように、なぜか防戦に回っているという時点で、戦略的には大失敗かと。
文禄の役の初期にせっかく下ってきた民衆を敵に回し、義兵と化してしまった時点で
本来の戦略目標の唐入りが不可能になり、この時点で失敗はもう確定。いくら戦術的な
勝利を重ねてももはやほとんど無意味。特に慶長の役末期での戦術的勝利なんて、
単に安全に撤退するためだけのものに過ぎなかったのだし。
装備や戦術について語れ。
ほぼ互角の勝負が行えると考えられる(どちらが強いというのは微妙だが)
これは揺ぎ無い事実
勝ち星も一方的だし色んな国の資料にも日本軍の凄さは出てるけど撤退したから負けは負け
ベトナムのアメリカも負けだがベトナム>アメリカと思ってる人はいないようなかんじ
でも軍の強さが楽しいから元やオスマン帝国との比較ではそっちをみたい
この時代は大国レベルでの目的達成はないから
・日本の陸軍は碧蹄館の戦いでこそ明軍を相手に
兵力差もあり勝利を収めたが、主戦論者の小早
川隆景からして追撃を主張する立花宗茂の意見を
押しとどめて漢陽城防衛を主張したように明軍
の実力を恐れていた。そこまでして防衛しようと
したが、明軍の方が一枚上手で食料庫を焼かれ
結局撤退した。
・慶長の役においても日本側は14万人以上の兵力
を投入して一時は漢陽城を奪還しそうな状況に
なりながらも、明軍の本格的な来襲後は朝鮮半
島南岸に撤退して倭城を築城して 明軍の来襲に備えた。
・倭城守備の日本側と攻め寄せる明・朝鮮側で何
度かの戦いがあり日本側が勝利を収めるが、そのまま
北上するでもなくまた倭城に立て篭もっていた。
・結局、秀吉がタヒぬまで漢陽城を攻めなかったことからも
野戦で明軍と戦うことを恐れていたのだろう。
文禄の役では手付かずだった全羅道を制圧し、海路での補給が可能に
なったのにも関わらず、内陸部や北部からは完全に撤退し、沿岸部の
倭城に完全にひきこもってまったく遠征しようとしなかったのは、
文禄の役での補給切れにとことん懲りていたんだろうなぁ。
にしても、Wikipediaには1597年の稷山の戦いのあとに漢城に進軍
しなかったのは1597年での作戦目標が全羅道・忠清道の制圧だったとか、
1599年は漢城まで遠征する予定だったとかあるけど、いったい誰が
こと書いたんだ…。
全羅道・忠清道の制圧が目標とするのは慶長の再動員時の軍令に
「赤国(全羅道)残らず、悉く一篇に成敗申し付け、青国(忠清道)其の外の儀は、
成るべき程相働くべき事」
とあり
釜山を落とすは慶長3年3月13日付、秀吉より立花らに宛てた朱印状に
「来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けられるべく候」
とある
モンゴルや西域を支配した清が弱いって、ヲイヲイ
他の兵科があんまみえてこないんだよな。
オスマン軍にはカリフ直属の奴隷階級(カクブル)と徴兵された2種類の部隊があったのよ
カクブルで有名なのはイェニチェリ、軽装で小銃とヤタガン(刃渡り60cm程度の曲刀)で武装してた
キリスト教徒から徴用され(デヴシルメ制)トルコ語を習った後首都の兵営で軍事訓練されるシャリフ直属(奴隷)の軍隊で最精鋭
カクブルには他に騎兵や砲兵隊も含まれ、常備兵として西欧と戦う主力として規模が拡大していった
シバーヒっていうのがいわゆる全国から徴用された兵で、封土を与えられた貴族階級子弟が騎士としてカリフの招集に応じた(ティマール制)
たぶん16世紀には重装騎兵として武装してたはず、でもだんだん軽騎兵(ピストルやカービン)に変わっていった過渡期だと思う
西欧の重装騎兵と小銃装備部隊の前に力負けすることが多く、だんだん兵としては重要視されなくなっていくかわいそうな時代だったはず
他に領土内の異教徒から徴用したり、亡命者やイスラムに転向した志願兵部隊とかも存在した
これらはほぼ歩兵部隊だけど、あんまり戦力としては重要視されてなかったみたい
あとは、麻薬常用する狂信者部隊(ラヤラール)とか、略奪品が報酬になる騎兵部隊(アキンジ)とか、わけわかんない特殊部隊があった
でもどれくらい活躍したのか、いまいち不明(だけど怖いよね? そういう役割なのかな??)
足の引っ張り合いがすごい。
サッカーみてるとそうだな
1人1人は屈強で優れてるのに
チームとしては勝てない
育成や協会組織のチームワークもなってないと思う
結局我欲利益だけで動いてる
文化発信しないからか知らんが西洋食ってた時代でも影薄い。
キリストとイスラムという敵対関係の影響もあるだろうけど。
残ったモンゴルの後継国家もあとはヤラレ役を演じるくらいまで落ちぶれた
やっぱ火器・鉄砲最強
オスマンが近隣諸国に侵略していったのは歴代の名スルタン、
バヤズィト1世やメフメト2世それに大帝スレイマン1世の治世
ぐらいじゃん。
スレイマン1世タヒ後は跡目争いが恒常的に起こって
神聖ローマ帝国(ドイツ王国)へ侵略できなかったじゃん。
神聖ローマ帝国(ドイツ王国)で旧教徒と新教徒の対立から
30年戦争が起こったのも、オスマン帝国による脅威がほとんど
なくなったからだし、第二次ウィーン包囲については30年戦争
で神聖ローマ帝国(ドイツ王国)が戦災から立ち直っていない上
フランス王国と同盟関係を結びその支援により遠征を行えたに過ぎない。
トルコ風呂が押しかける、と覚えたぜ!
狭霧のニコポリス、婆やじっと、と覚えた。
なんか懐かしい。
カール5世時代の君主国は南でイタリア半島の覇権をめぐって
フランス王国と争い、北で信教・旧教の信仰をめぐって北ドイツ
諸侯と対立する。まさにその時に第一次ウィーン包囲があった。
ちなみに当時の君主国は首都を特別定めてはおらずウィーン包囲
=首都包囲ではない。
中国本土まで遠征できるほど兵は兵農分離されてるのかね?
それだって清が介入してきたらどうなるかわかったもんじゃない。
(清だって中国の裏切り者が連れてきたんだし)
問題はTOPかわっても中国という組織や制度がかわらんから”占領”とか”征服”とか呼んで良いものかどうか……
土地が痩せてるし欲しくないだろうな
もともと中東はインドとヨーロッパの貿易の仲介で稼いでいたけど
アフリカ回りの貿易航路が開拓されてから儲けががた落ちした
軍隊は最強だけどそれだけじゃ駄目って話
秀吉の朝鮮出兵が軍事的に成功していたとしても結局は撤退しなきゃならなかっただろうな
あんな僻地を取ったところで採算がとれないもの
対中貿易を独占できる台湾にでも攻めこんどけばまだよかったかもしれない
戦争が無くなったのと幕府の規制が主な原因で廃れたけど、
そのまま海洋国家になってれば和船の未踏の地が見えたかもしれないな
変に独自外洋船を進めてなかったから幕末に西洋蒸気船に躊躇無く踏み切れた部分があると思う
…言われてるほど日本は貿易(船)に頼ってなかった気はする
鎖国って制限貿易なんだし、よく考えると室町だって同じだったしなぁ……
よく言われる明治の「西洋帆船」の実態は弁才船にジブやスパンカー、肋材や舵の改良を施した物
弁才船が完全に消えるのは機帆船が登場する昭和初期まで待たないといけない
君沢形スクーナーもあるんだけどね。
後、和船が生き残ってたのは法制面・税制面で有利だったって理由もあるのよ。
明治政府は洋式船に関しては、諸外国の法を参考にルールをきちっと作って税金も取ったけど、
和船については参考にできる法が無かったのでかなりいい加減なルールを使っていた。
で、どこまで和船と言い張れるかに挑戦してるみたいな船がはびこることに。
それでもやはり建造費は和船の方が良かったらしいけどね
西洋のやつは竜骨が傷むと廃船と同意義らしいね
今の車なんかモロそうだし
同じくアジアに進出していたヨーロッパと対立
戦争になって日本が負ける流れ
S スペイン、オスマン帝国、明、日本
A イングランド、フランス、ポーランド、サファヴィー朝、ムガール帝国
B スウェーデン、モスクワ大公国
C モンゴル
D イタリアの都市国家、李氏朝鮮
メソポタミア → モンゴルによって焦土と化す
ギリシャ → スラブ人の侵入、そしてオスマン帝国による占領
古代から続いた文明地が全滅や・・・
1558 エリザベス1世即位
1588 アルマダの海戦 スペイン終了のお知らせ
1603 エリザベス1世タヒ去
オスマン帝国の兵士たちはあんなのとどうやって戦ったんだろう
見かけ倒しだな
最上胴あたりのが硬そう
(オスマン帝国は除くけど)
戦の時は諸侯の騎士を召集したり、傭兵を雇ったりしていた
それもキリスト教徒奴隷から集めた皇帝の私兵だから傭兵のように士気崩壊しても逃亡しない皇軍モドキ
火砲鉄砲で諸族騎馬軍団のサファヴィー朝粉砕してるし創作長篠の元ネタ
いつぐらいまで騎士層が身代金出すから許してちょんまげって闘いしてたんでしょうね?
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