日本でベトナム史とされているものはたいていチャンパを無視してるけど、
このスレでは現在ベトナムと呼ばれる地域に興亡した全勢力が対象。
東アジアから東南アジアにグラデーション的に変化していく領域。
頭の5分程度だけどね
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23379109
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23393802
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23410247
『大越史記全書』では、干支―自国年号の順でしるされ、さらにその下に割注の形で中国年号が挿入される。
『大南寔録前編』では年号が干支のほかに越・中二つの元号が併記されている。
またどちらもが、中国皇帝を「皇帝」「帝」と書く一方で、自国ベトナムの君主も「皇帝」「帝」あるいは「上」と記す。
どちらもが「勅」や「詔」や「諭」を発する。
そしてベトナムの皇帝は中国皇帝とおなじく、「朕」と称する。
これだけで、ベトナムが冊封体制を便法としか見ていなかったことがわかる。
さらにいえば、冊封体制を成り立たせている伝統中国(王朝時代中国)の華夷思想(いわゆる中華思想)をすら、認めていないことがわかる。
冊封体制もしくは華夷思想においては、皇帝とは中国(=天下宇宙の中心の意)にただ一人しかいないからである。二人いたら世界が崩壊してしまう。
このことについては、ベトナムとならんで伝統中国の代表的な三属国とされる朝鮮と琉球は律儀にこの建前を守った。
彼等は冊封されたとおりに「王」を名乗りそれを国内でも通した。
それをベトナムは、中国に対してのみ王として臣下の礼を取ったが、国内およびその他の国(東南アジア諸国)に対しては、「皇帝」としてふるまった。
初期の高麗もさりげに皇帝自称してたり。
ベトナムの場合は五代十国の「十一国目」として台頭したまま
なしくずし的に中華世界から自立していった経緯も影響してるんやろなあ。
ベトナム史上初めて帝号を称した丁先皇(丁部領、ディンティエンホアン)の廟が
ニンビン省ホアルーにあって、そこには「越基を開き正統を始む」と書いてある。
五代十国のプラスアルファとして自立した丁先皇以来、
越南に「もうひとつの正統」が始まったということになっている。
そして次の世紀になると、宋を撃退した李常傑(リーヅォンキェット)が
「南国の山河に南帝あり、截然として分定すること天書に有り、
如何ぞ逆虜来たりて侵犯す、汝ら敗墟を看取せよ」と喝破する。
>>6
> ベトナムの場合は五代十国の「十一国目」として台頭したまま
> なしくずし的に中華世界から自立していった経緯も影響してるんやろなあ。
なるほど
暗黙の了解としては漢と南越、そして当事者了解としては
三国の呉と蜀以来、ある程度の前例がある。
しかしベトナムは天帝・天子・天下のセットそのものが
複数存在するという理論を構築した点が新しい。
対外的にはそれを必ずしも貫徹できていないこと。
ラオスとチャンパーとクメールは朝貢国扱いできたけど、
中国はもとより、西の大国シャム(アユタヤ朝)については、
外交儀礼上も対等の国家として扱わざるを得なかった。
ベトナムにも宦官はいたのか
紀元前扶南国を開国したのは柳葉という女王であった。
その南に激(行にんべん)国という国があり、混填という男がいたが夢をみて天神に神弓を授かる。
また夢のお告げにしたがって船に乗って扶南に向かう。
柳葉は部下を率いて船を出し混填の船を襲ったが、混填が神弓で柳葉の船を射ると矢は船の壁を貫通して柳葉の侍従に命中したので、柳葉たちは混填に投降した。
混填は扶南国を引き継ぎ柳葉と結婚して七人の子供を生み、それぞれ邑に派遣して王に封じた。
混填以後、混盤況・盤盤と続いて、その後盤盤の大将であった范蔓が王に推挙されて范氏に王権が移ったらしいです。
范蔓・范○・范長・范尋と続きます。
扶南は現地語ではプノムっていったらしいね。
中心とされるのがオケオ遺跡。
渾填伝説は、この頃南インド東岸から、スヴァルナブーミ(黄金の地)と言われた
東南アジアに盛んに冒険航海や移民が行われたことが背景にあり、
インドから来た交易商人か植民者が現地の女首長と結婚して
国を建てたことを暗示しているとされる。
ちなみにタイのスワンナプーム国際空港はスヴァルナブーミのタイ語読み。
ところでハノイの国立歴史博物館に行ったら扶南関係の展示が
完全に省略されていたんだが何故だろう。
見落とした可能性もあるけど、自国史扱いされてないのだろうか?
13~14世紀のクメールやチャンパに女王はいないと思うんだがな。
本国では本当にまったく批判ないのかな?
批判なんてしたら即収容所行きでしょ
報道の自由度は世界でも最下位に近いらしいが…収容所なんてのは存在しないんじゃないか。
民衆レベルの本音ではどうなんだろう。
いまでも素直にホー伯父さんを敬愛してるのかな。
一概に言えないかも知れないが、旧南ベトナムの人間は嫌ってる
頼んでないのに勝手に『解放』されたに等しいからだ
しかも『解放』された結果、言論の自由も民主主義も私有財産も消滅した
元々南ベトナムと北ベトナムは、ベトナム戦争以前から仲が悪かったしね
南の人間は今もサイゴンと呼び、
隣国カンボジアの人間はプレイノコールと呼ぶらしいな。
サイゴン陥落の際に、共産国の御多分に漏れず、ベトナムも大粛清やってるからなぁ
田舎の小学生だった時、同級生にベトナムからの女の子が一人いたよ。
友達になった。
両親がホーチミン政権を嫌って逃げ出したのかも知れないなぁ。
今にして思えば可愛かった。残念なことをした。
若き日のホーチミン自身も越僑だったわけだけど、
サイゴン陥落後には南の支配層が多く越僑化した。
欧米のベトナム料理屋とか行くと旧南の人が多くて、
南ベトナム料理をベースにしたメニューになりがちらしい。
どこかの田舎で道観を修復して伝統祭礼を復活するというんで、
その町出身の在米越僑が多額の寄付をして
記念式典に参加した。
ところが会場に入ると正面にホーチミンの肖像画が上げられてる。
主催者側は当局にいちゃもんつけられないための
お守りみたいな感覚で肖像画を掲示したらしいんだが、
越僑はホーチミンの肖像画見たとたんに激怒して帰国したそうだ。
カオダイ教の印象が強すぎる
カオダイ教の教会(?)は全く見なかった。
漢服みたいなものとは聞いてるけど、絵がないとイメージがわかない。
徴姉妹で画像検索してみた結果
ごめん、絵っていうのは、再現図・想像図じゃなくて同時代の絵が見たいんだ。
ベトナム中央高原におけるゴングの文化的空間
中央高原の少数民族の動向も面白い
なんかあると震源地になりやすい
西山党みたいに
日本はベトナムでフランスとあたってますか?
どういう状況なんでしょうか?
それは何戦争の時ですか?
ありがとうございます!
読んできました、スッキリしました
42です
実は仏で知り合った高齢の女性の家に招かれたとき
「ベトナムで父が日本人の友達にもらったの」と
見せてくれたものがカーキ色のマットだったんで、
「友達なんですか……?」と聞いたら
「……捕虜だったの、日本軍の」
「~があって日本軍がいなくなったので
記念に父が担いで持って帰ってきたのが本当」
と言ってて。自分は仏語が全くだめなので
それ以上何も聞けず、自分で調べても脱線してばかりで、ここで質問させていただきました。
大変勉強になりました。ありがとうございます
むしろ1945年の明号作戦じゃないの?
仏印進駐は、一部小競り合いがあったとは言っても、全体としては友好的だったし、
「フランス人捕虜」なんて発生しなかったぞ。
明号作戦、読んできました。
この可能性が高いですね。
「日本軍がいなくなった」のくだりで
「戦争が終わった」と、身振り手振りでたぶん原爆のことを言っているのではないか、と思ったので
ただ自分が仏語が出来ないのと、その方が
日本人である私に気を使うのでさらに分かり難くなってw
WW2を調べたんですが自分に素養がないのとすぐ脱線してしまうので
最初聞いた時も日本人が捕虜だと思っていたぐらいです
>>45
ありがとうございました。
と、読んでいて思ったのですが、
ベトナム人の日本人に対する印象はどうなんでしょうか?
>>48
ホーチミンは、
『日本人の統治により500万のベトナム人が餓タヒした』
とかデタラメなことをほざいているね。
おまけに、ベトナムは北朝鮮や中国と同じ一党独裁国家だから、そんなデタラメが未だに通用して反日教育している可能性が高いね
「仏印進駐」とは言っても、日本は別にフランス軍と戦争しに行ったわけじゃない。
同盟国のナチスドイツ政府を介して、ヴィシーフランスに納得させた上で仏印に進駐した。
ヴィシーフランス政府も、日本軍の通行と駐屯は認めたが、
「統治権」だけはずっとヴィシーフランス政府が握り続けていた。
従って、この期間にもしもホーチミンの言うような餓タヒ者が発生したとすれば、それは完全にヴィシーフランス政府の統治責任である。
(そもそもホーチミンの挙げている数字そのものが、共産主義者特有の誇大な嘘だと思うが)
明号作戦でフランス人を排除した後も、日本はベトナムを直接統治などせず、阮朝に統治は任せていた。
従って、一度も軍政を敷いていない日本には、一切統治責任が無い。
けど、ベトナム共産党の正統性を主張するためには、是が非でも日本軍は悪役じゃないとならないわけだ。
>ベトナムは北朝鮮や中国と同じ~
なので印象は随分悪いな、と思ったんですw
と明号作戦もフランス軍にベトナム人兵士が結構いたみたいで
このフランス軍自体、将校連中はフランス人だけど
後は外人部隊とベトナム人兵士という認識でいいんでしょうか?
>>50
全部が全部じゃないとしてもね。
インドシナを支配していたフランス植民地政府も、本国がナチスドイツに征服されたり、
ヴィシーフランスになったり、
またドイツに征服されたり、
連合軍の自由フランスになったり、
本国の事情が全くわからない状態でした。
当然、本国からの軍や軍需物資の輸送も無かったでしょう。
元々、フランスは第一次大戦で多くの若者が亡くなり、人口不足だったこともあります。
フランス外人部隊もあることですし、現地人部隊も多く存在していたのでしょう
WW2に至る経過を詳しく知れたこと
終戦までのインドシナでの1つの流れを知れたこと
自分にとってとても意味のあるものになりました
戦時中の日本では1945年3月の明号作戦まで、フランス人は「友好国」扱いでした。
ヴィシーフランスの人間扱いされていたので。
当然、捕虜とか抑留とかの憂き目に遭ったのも末期の3月からですし、
おまけに、そんな粗略な扱いも受けませんでした。
軽井沢の別荘地に逼塞を命じられたくらいです。
>>52
そうきれいな布団だった、まだ新品のようだった
彼女のお父様が使っていたものだが
「扱い悪くないなあ…」と思った。言わなかったけどw
そう、フランスが複雑でそれもあって脱線しまくりでしたw
服飾や小物の造形に文化的な豊かさを感じたよ
伊藤正子 『エスニシティ「創生」と国民国家ベトナム 中越国境地域タイー族・ヌン族の近代』
興味深い
中国と戦ってきた歴史と自国の地理を知り尽くしたことが
アメリカとの戦いを勝利に導いたのか。
同じ中国の隣の地域である朝鮮と対比してみても面白い。
引用元: https://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/whis/1398509302/
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