ところがそんな太鼓の歴史はほとんど分かっていないということを知っていますか。専門に研究しているひとがいないんです。
それで①古い太鼓の胴内に書かれた制作・張替記録や②古い太鼓だという情報③太鼓を使った伝統行事や踊り
などについて情報提供してもらえませんか。
ブームで太鼓を張替える機会にしか胴の記銘が分からないし、ブームだから行政の指定文化財にもなりやすいんですね
歴史をまとめる絶好の機会なんです。
古い太鼓の情報ならなんでもけっこうです。
ここでは太鼓系を考えます。そうすると②締め太鼓系と鋲打ち太鼓に分類されます。
締め太鼓の代表は猿回しの時に鳴らしている甲高い音のする太鼓、鋲打ち太鼓の代表が祭り太鼓です。
胴よりも直径のほうが大きいものを平太鼓、
代表的なものが楽太鼓とか座太鼓とかいう仏教で用いるもの
直径よりも胴が長いものを長胴といい
代表的な太鼓が祭り太鼓である。
これまでのところ、胴内の墨書銘があって一番古いものは
兵庫県加東市朝光寺の永仁6年(1298)の太鼓と言われています
これより古い太鼓をオレは知っているゾという情報はないでしょうか。
鰻の太鼓
長胴太鼓のこれまでに知られた最も古い、確実な史料裏付けのあるものとして兵庫県朝光寺の太鼓といいました
中世に最も数が多いのは座太鼓あるいは楽太鼓と呼ばれる平たい太鼓の大きいもので
分類上大平太鼓と呼ばれるものです。鋲打ちだけど胴が短く鼓面が大きいもの
現在一番古い確実な記銘があるのは奈良県吉野郡吉野町吉永院の座太鼓で
徳治3年(1309)のものと思われます。
そんなものよりずう~と古い太鼓を知ってるゾと情報を持っているひとはないでしょうか。
古い太鼓のついて皆さんはあまり興味はないのでしょうか?
鼓系のものはほとんど枠付きです。枠付きは鼓系を除いた太鼓系でも
日本的な展開をしたものと言われています
邦楽は古代の雅楽が出発になっていますが、
そこで用いる太鼓の到達と言われるものが?太鼓(だだいこ=火炎太鼓)で
大寺社にしか残存しませんが、記銘のある最古のものは法隆寺の康永4年(1345)
左方の張替銘だから、実際の制作年はさらに遡る。
銘はないが奈良唐招提寺・兵庫鶴林寺のものが平安期の作とされています。
高さ2メートル80、下端幅1メートル85の巨大なもの(尤も太鼓本体は1メートルあたり)
火炎の大きさでそうなっている。
火炎太鼓は現在13体ほど残存している。
奈良の大寺社、大阪の四天王寺、兵庫鶴林寺、愛知の熱田神社ぐらい
その他で火炎太鼓を見たひとはいませんでしょうか。
それが日本化の大きな特徴となっている。
締太鼓を大きくしていくと皮の張力を維持するのが枠(鉄の輪に皮を巻つけるようにして張力を出す)と
筒の両方から引っ張り合う紐の力だけでは難しくなる
それにどうしても鋲打ち太鼓の迫力ある音にはかなわない
鋲打ち太鼓を大きくしていく方向に向うのは必然性があった
といっても頃合いの太鼓(鼓面直径が30センチとか)と違って大きくすると様々な難問がでてくる
胴の材質が堅固でないとダメ、思いっきり引っ張れる皮でないとダメ、
そしてなにより固定する方法を確立しないとダメ。
古い太鼓をみると木釘から太いタボ、さらに鉄輪を入れるといった方法で試行錯誤している
固定太鼓で鋲以外の方法で留めた痕跡(現存する太鼓はその後に鋲打ちに仕替えられている)
のある太鼓を知りませんか
う~ん、やっぱりスレ立てが場違いなのかな~。
ワールド音楽版覗いてみました。そっちのほうが書込みあるかも、ですね。
でももう少し20まであたり引っ張ってみます。
中世を代表する太鼓は座太鼓・楽太鼓の名のある平太鼓とだ太鼓(火炎太鼓)といいました
平太鼓は固定太鼓だが多くの場合単独でなく釣り下げや台座などがあって大きくみせている
また火炎太鼓は締め太鼓で目いっぱい鼓面を大きくして3~4尺(1メートル)
それをさらに火炎型の木型でもって数メートルに仕上げていく
前者の吉永院の太鼓も元来は木釘だったことが空いている穴から分かる
四天王寺の火炎太鼓調査から、皮面を中にいれた鉄輪に廻して相当引っ張って
裏に廻して縫いつけているが、雅楽の調子としてはそれでいいようなものだけれども
やはりあまりいい音は出ない。
それで中世後期にかけて多く作られるのが、直径と胴長がほぼ同じ長さの太鼓である。
ところが直径が長いと平太鼓、少しでも胴が長いと長胴と分類されるため
その独自の把握ができないことになる。別の分類をしなければならないと思っている
こんな寸足らずというか四角だるまのような太鼓をみたことはないですか
最古の長胴太鼓といった朝光寺のもの、平太鼓に分類される本願寺八幡別院永徳2年(1382)の太鼓も
径と胴とがほとおど同じという太鼓を分類上独立させるとその分類に入ってしまいます。
現在3尺(90センチ)を越える祭り=長胴太鼓を新調するとおよそ1千万円程度の値段
そうするといくら物価が安いといっても中世の太鼓も相当の値段になったはず
それで、古い太鼓の内部には祈願の経文が書かれるのが多い。
奉納者の名前も連名で記されるが、だいぶ経過しないと太鼓職人の名前は出てこない
貞和3年(1347)唐招提寺の今は破損している長胴太鼓だったと思われるのに番匠(大工)名
しかし皮工の名は近世まで出ない。戦国期に入ると有難い経文や祈願文はまるっきり消えて
制作年や太鼓屋・皮工の名のみになる。大きな変化があったのだろうが、その理由は分からない
何にしても古い太鼓で制作年だけ書いてあるような太鼓はちょっと疑わしいということになる
やっぱり戦国期というのが太鼓の運命にとっても大きかったのだろうか。
戦国期といえば何といっても陣太鼓だろう。胴の短い陣太鼓にはあまり記銘のあるものはない
千葉県松戸市慶林寺に伝わる天正12年(1584)と銘のあるものぐらい
絵巻物では前九年の役を描いたものに2人がかりで担いでいる長胴太鼓様の陣太鼓が描かれているのが早い
戦国絵巻にはおなじみの短胴のものが多出する
記銘のある陣太鼓を知りませんか。
形態上では中凹みがあるかないか、大きいか小さいかという程度の違いだろう
ところが鼓の代表壱鼓(いっこ)より後に現れる鞨鼓(かっこ)はそれをそのまま大きくすれば
胴は刳抜きで皮面は付締めだけど、太鼓に限りなく近づいている
雅楽に用いられた楽器が高尚で、それ以外から生まれた楽器は田舎楽器と観念されていた時代
奈良・京都の王朝都市周辺ではこの鞨鼓を田植え踊りや風流踊りに使ったという来歴をもった
かんこ踊りが流行ることになる。それは現在でもどんどん派手になって滋賀・三重・岐阜にひろがっている
そこで用いられる太鼓も鞨鼓から離れて付締太鼓や桶胴太鼓になっている
かんこ踊りとその太鼓について情報ないでしょうか。
楽器となってからも、シンバルと同じく「おまけ楽器」の地位に甘んじてきたといえる
和楽器の文献でも太鼓を楽器と位置づけてのものはまずない。
ブームは助走期は長いが、諏訪太鼓の小口さんと林英哲さんの登場以降のことだろう
義務教育で邦楽をしなければならないとか、バブル期に村や地域の再興というような幸運も重なり
押しも押されもしない一大ブームになった。おかげで寺社の片隅に捨置かれた太鼓が
皮の張替で持ち込まれて胴内の記銘が見られるようになって、色々のことがわかってきた
中世あたりの古い太鼓もこれまでならば、業者に張替や修繕が依頼されるだけだったのが
ブームを背景に文化財に指定されたり、注目されたりしてきたのである。
当然江戸時代の銘が多いのだけれども、数を集めていかないことには江戸時代の太鼓の歴史も流れがつかめない
なんとか個別の事例を集めたいとスレを立てたのだけど、江戸期の太鼓でもけっこうです。
情報を寄せてもらえませんか
江戸時代に入っての太鼓で1つの地域で連続して太鼓が残るか文献が伝わる処として
京都の鞍馬村、熊本県宇土市、それと200体からの太鼓が奉納された島根県美保神社だろうか
最後のはちょっと意味が違うが、海の神様として船主・船頭らが太鼓を奉納した慣行から集まった
鞍馬のは太鼓屋(太鼓作り・皮張替)の保証書が多く残る、宇土市のは雨乞い行事が全市的に広まり
江戸時代の始め頃から盛んになった。それで古い太鼓から新しい太鼓までたくさん地域に残った
関西の東辺、中部地方からいうと西辺に集中するかんこ踊りの場合古い太鼓、記銘のある太鼓の報告はない
最近に作った太鼓は別にして、1つの地域でたくさんの太鼓があるような情報をもっているひとはないでしょうか。
教えてください
鞍馬村の寛文11年(1671)あたりからの保証書から大小とあって大きさは分からないが
銀110目(金にすると2両強)の値段だったことや、以前は竹釘かタボだったものを
鉄輪を入れたものにしていること、およそ六齋念仏に用いる太鼓が多かったことがわかる。
宇土市雨乞い太鼓は珍しい形で鋲のところが橋の欄干の擬宝珠のようなものが皮の留具になっている
(今は装飾だが)、寛永13年(1673)が現存する最も古い太鼓だか、
胴が膨らみをもたずほとんどまっすぐ、それがやがてふっくらとしてくる変化のあることがわかる
地域に江戸時代のまとまった太鼓を知らないですかね
僕のスレもこれで書込みがなければおしまいです。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/rakugo/1227996537/
コメント