・正史三国志で数少ない一騎討ち経験者。
・時の権力者董卓のボディーガードを努めていた。
・抜群の弓術と馬術と腕力を持っていたため飛将と呼ばれた。
・蒼天の下に立てらられた戟をただ一矢で射ぬく
・武芸に優れていた丁原、董卓を自らの手で○す。
・黒山賊の数万の精鋭に対し数十騎で連戦戦勝、「人中の呂布、馬中の赤兎」と評される。
・袁術軍筆頭将軍の紀霊が大軍を率いて劉備を攻めた時、少数で出陣してきた呂布の勇名を恐れ、攻撃をしなかった
・兗州を乗っ取った時、引き返してきた曹操軍を一度は叩きのめしている。
・徐州を迅速な速さで乗っ取る。
・捕縛された時、曹操は呂布の強さに魅力を感じ、配下しようとした。
・陳寿は「呂布は吠えたける虎のごとき勇猛さをもつ」と評している。
やっぱりかなり強い武類の武将だったのだろうか?
中国史全体ではどのくらいのレベルに入るのか?
驍将スレとか適当に名前付けて冉閔とか楊玄感みたいな部将を語るスレにすりゃよかったのにさ
>>1みたいな馬○がこの板の三国志規制に拍車をかけるんだ。
確かに強いとは思うが実際負けの方が圧倒的に多い。
曹操とボクヨウ攻防戦を繰り広げ、飢饉によって
休戦になったすぐ後に、弱小豪族の李進と戦って
大敗北を喫してるし、その後も呂布が一万余もの
大軍を引き連れ曹操を攻撃した時も、数百の曹操軍
に大敗北を喫し、闇にまぎれて
逃走したほど、さんざんな目に会ってるわけだし。
実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例
もない。一騎打ちにしたって郭しのような個人的武勇
がどれほどのものかもわからない男に勝ったところ
で自慢にもならないし、郭し自身をも討ち取ってすらいない。
それに賊に勝ったというが賊というのはそもそも指揮系統が
はっきりしている軍とは違って、思い思いに略奪など行っている
ならず者軍団と考えるほうが妥当。正規軍を数万を撃破したとは
わけが違う。それに兗州を確保し、孤立したケン城を攻略し
ようとした呂布はここでも苦戦し退却している。さらに曹操の
呂布討伐戦では緒戦から降伏しようとしてる。結局、陳宮に静止
され勇んで撃って出たが敗北を喫し城に篭ったが降伏してる。
呂布の徐州攻略にしたって劉備軍本隊が不在かつ、守備を任されていた
張飛はソウヒョウ軍と戦っており呂布軍とまともに戦える状況に
なかった。降伏時についても、曹操が呂布自身に魅力を感じた
という保障はどこにもない。呂布は曹操軍にはない騎兵軍団を
統べており、この北方の精強な軍団をまるごと曹操軍に編入したかった
と考え魅力を感じたと考えるほうが自然。
>>14
丁原の元にいた時は主簿
これは地場出身の豪族で士大夫階層がよく着任している官位
この事から普通の豪族だったんじゃないかと推測できる
>>28
魏の記録は戦果の数字を1/5に、被害の数字は5倍にして計算すべき
三国志内部できっちり魏の戦果報告はそんだけ水増しされてるって書いてあるから
なので1万の兵どころか2000の兵で曹操に敗れたということになる
直属の配下である高順も1000人の兵士がいると言ってたが実数はもっと低い部隊だった
正史で評価するなら正史の記述システムももう少し理解しては?
>>28
>実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例もない。
正規軍とはなんぞや?
呂布のいた当時は、各勢力の兵は全て漢の正規軍と言えなくもない。
魏・呉・蜀分離したあと、「敵はxxの正規軍」と必ず言える状態の
張遼や張飛の戦果と同列に比較して、呂布の相手は「正規軍じゃないから」
って、オマエはア○か
つとりあえずwiki
だから演義から入る人は魏越とか成廉を知らないんだよな。
下ひ篭城前に捕縛された程度しか。
野戦はともかく拠点タヒ守は適任じゃないだろうな。
正直正史だと張飛の方が上な感じがる
蜀攻略戦では厳顔を捕虜とし更に魏の名将張コウを撃退し
漢中太守最有力候補と目されている。
名将と言ってもいいだろう。
>>19
厳顔が捕まって、張飛は降参しろと言っても降参しなくて
張飛は怒って打ち首(なのかな?)にしろと命じてもなお、
厳顔が別に良いと言ったので張飛はそのおいおいしい
(省略されました)
三国最強なのだからどんなこともできる
手始めに全裸で貂蝉の部屋にアンゲロ、アンゲロとつぶやきながら飛び込む
タンスをこじ開けブラジャーを腰に巻きパンティーを頭にかぶる
貂蝉が呆然としながら見てくるが三国最強なので気にしない
貂蝉のベッドに潜りこみ「幸せだから!幸せだから!」と絶叫、貂蝉は無言で部屋から立ち去る
だがまだ最強には不十分、次は張遼の部屋にムッシュムッシュと叫びながら飛び込む
張遼は着がえをしている最中だったが三国最強なので無視
半裸で逆立ちをしながら
「俺に充電しろ!!俺に充電しろ!!」と絶叫
張遼は大泣きで退散、確実に三国最強に近づく
開脚後転でトイレに飛び込み便座を外し首に掛ける
ゾンビの真似をしながら董卓の部屋に突撃、タンスを開けると一枚の写真発見
タヒんだ丁原が俺を抱いている写真だった
俺は泣いた
陳寿にもいろいろ愛着や、配慮しなければならない対象があっただろうからな。
「山東は大臣を出し、山西は大将を出す」という。
この場合の「山」とは大行山脈のこと。
つまり涼州、并州は半異民族みたいなものなので、強兵が育ちやすいということ。
動物的な競争力に長けてる反面、人間的な社会性というのは非常に低い。
そういう連中をどうやってまとめるかというと、それはほぼ「力」。
戦利品の分配が公平とかいうのはあくまでオプションに過ぎない。
「山西出身」で「指揮官」というだけで山東系の部将よりは真正面の組合いでは一日の長がある。
それと側面、背面、兵站、その他の総合力は別。
力だけが価値観の連中の上に立つのは最強でなければならない。
だから、呂布は当然最強の強兵で猛将ということになる。
戦績から帰納的に考えると大したことの無いヤツというのは正しいが、
それだけだと何故そんなボンクラが天下をかき回したのか分からなくなるだろう。
孫権だったたが曹操や二袁に比する脅威として呂布の名を挙げている。
李カクとかサク融、黒山や白波らの賊では無くてな
呂布って孫呉と事を構えた事も無いよなあ それだけ有名だったって事なのかな?
最期は割と簡単にやられて討ち取られているように見えるのだが
呂布は最後までしぶとかったな。
内通者や離反者が出なかったらまだまだ粘れただろうか
まぁ 馬○な猛将以上の評価はないってことか?
たしか 字が読めなかったんだよな呂布は。。つまり兵法書も読んでなかった、だからこそ兵法に詳しい陳宮との意見の相違も起きたんだな
陳宮が呂布に造反したのは事実なんだろうか?
物語のような忠誠心があったとは思わないが。
造反者なのに呂布は最後まで仕えさせたし、陳宮も殉じたんだよな
高順が全軍の前で陳宮を告発した事で、呂布軍と陳宮の信頼関係は失われたと思う。
追記。あくまで推測だけど述べてみる。
カク萌の乱後、
「呂布は高順を嫌うようになり、その兵を奪って魏続の部将としたが、高順はそれを恨まなかった」とされる。
その理由について正史の注では「陳宮の事が有ったからだ」としている。
しかし、これは陳宮がカク萌と乱を起こした事に関連させると全く意味不明。
何故なら、高順はカク萌の乱の鎮圧では大活躍だったからだ。
呂布を脳筋馬○で高順の大活躍に嫉妬した小物、と取ればこういった経緯もアリかもしれないが、
自分は、呂布はそこまで馬○ではないと思いたい。
では、高順と陳宮の何を問題として、呂布は腹心である高順にそんな仕打ちをしたのか。
呂布は、陳宮と高順がかねてから不仲である事を知りながら、2人を同時に用いている。
呂布の、両者への評価が高かった事が伺える。
そして、カク萌が造反する事件が起こった。
高順は陳宮を告発したが、陳宮は押し黙って反論せず、呂布は結局陳宮を不問に処したとされる。
謀叛はタヒ罪をもって当たるのが正道。陳宮を不問に処す理由は2つしか考えられない。
1:呂布には陳宮を処罰出来なかった=呂布軍に陳宮が不可欠だったか、陳宮はパトロンだった
2:陳宮は無実だった=真実無実だったか、証拠不十分だったか
高順は、不適当な告発によって兵士に混乱を起こした罪によって兵を奪われたのではなかろうか。
1でしょうな
陳宮は曹操の下でもかなり有力な将だったようだから、
呂布の下でも多分有力だっただろう
多分呂布の指揮する兵の多くが陳宮の私兵だったんじゃなかろうか
下手に陳宮を切ると自分が痛いわけだ
主君の窮状を理解するってのも忠だよね・・・
俺も2だと思う。
そもそも呂布と陳宮の力関係以前に、陳宮がカク萌と反乱を起こすメリットがあったのかどうか。
また、陳宮が関わった謀反劇なら、そう易々と鎮圧されるものなのか、とか。
実際、陳宮が謀反したとするなら、
陳宮やカク萌ら非并州系のグループが袁術との連携で?とかなんだろうけど、
それはそれでジリ貧のような気もするし…
同盟者、または出資者と雇われ社長みたいな微妙な関係だったんじゃないかと
>>45
確かに陳宮のほぼ100%の活躍でエン州奪ってるし
呂布にも遠慮があったと考えると面白いな
そう考えると
キングメーカー(は言いすぎとしてもそれに似た役割)としての陳宮を見るのも面白くていいな
当時の漢民族の人口は800万人で大阪府くらい。
呂布を日本にあてはめると
大阪府最強の男=岸和田の番長=カオルちゃん=竹内力
呂布が居た頃はまだ5000万以上いたはず
その後の動乱でだいぶ減ったと思うけど
時、便所の天井から必タヒこいて脱出てのが彼もまた人の子なんだな~と
ほのぼのさせられる。
自分自身は全然実力ないんだけど、なぜか有能な若手に慕われる
呂布の強さって有能な部下に支えられてただけだと思う
一部隊はあっても総大将だった覚えがないんだが…
呂布にはそんな権限が無い。
だが元丁原の軍はそのまま丸ごと率いている筈。
虎牢関では胡軫の副将だったしな。
自分で兵を率いたのは董卓暗○後じゃない?
???
なぜ断言できるんだろ???
ゲームと違い、当時の軍は豪族の私兵だから。
呂布に張遼や秦宜禄、李粛という丁原時代からの并州出身者が付き従っている所を見ても、
呂布が丁原の軍をまとめている事が分かる。
丁原の軍が全て、丁原を直接的な支配者と認識していて、
丁原の後継者を呂布と認めているという前提がつく話だな
ゲームじゃあるまいし、そんなことはありえないと思うけどね^^
丁原は騎都尉で呂布はその主簿
主簿は上官の文章や印鑑なんかも管理してるので
上司がいなくなれば最もその権力を掌握し易い存在
董卓が呂布を抱き込んで兵目当てで丁原を○させたのもその為かと
騎都尉の兵権をそのまま掌握し、土豪なんかの私兵も同じ并州出身の呂布ならば調整できる
>>61
ゲームじゃないけど呂布は丁原の持つ兵をほとんど掌握できる状況にあった
そもそも「後継者」って発想が間違ってる
漢の兵権を借りて兵士を使ってるわけで拠り所は丁原じゃなくて「印綬」
「印綬」持ってれば官兵の掌握は難しいものじゃない
丁原の出世コースは役人(今の日本だと巡査か?)からスタートする。
危険を顧みない勇猛さが認められ、最終的に執金吾まで出世する(つまり、呂布に○された時ね)。
状況的に官兵の可能性が高そうだ。というより私兵を雇う余裕がなさそう。
主簿には権限ないよ
でも権限を掌握する事は可能な立場なの
権限の拠り所である印綬の管理役が主簿だから
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
豪族の私兵だから全部ついてったに決まってる。
↓
豪族の私兵なら、なおさら分散するはず
↓
豪族の私兵じゃない。官兵だから主簿の呂布が統率できた。
↓
ただの主簿如きにそんなの無理
↓
丁原の全兵権握れたんだから、ただの主簿じゃなかった証拠になる。
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
以下、上に戻ってエンドレス
俺の調べた感じでは正史にも記された名馬なんだが
ある人が俺の読んだ正史三国志にはそんな記載ないアル。
俺は職業上、中国語が読めるから、俺の読んだのは発掘された陳寿の三国志をそのまま写した真の三国志アル。
今知られる正史三国志は唐代以後の粉飾の混じった偽書アル。
ということなんだが、キティ認定でいいのかな?
1
布有良馬曰赤兔.
布は良馬曰く赤兔を有す。
呂布は赤兎という良馬を所有していた。
2
曹瞞傳曰:時人語曰:「人中有呂布,馬中有赤兔.」
曹瞞傳曰く、時の人語りて曰く「人中に呂布有り、馬中に赤兔有り。」
曹瞞傳という書によれば時の人々は「人に呂布という英傑がいるように、馬にも赤兎という名馬がいる」と噂した。
正史三国志巻七 魏書七 呂布臧洪傳第七 呂布 より抜粋
あとは自身で判断してくれ。
魏志と曹瞞伝の当該箇所は太平御覧にも引用されてる。
これが全部、唐代以後の加筆とするにはかなり苦しいだろうな。
もし陳寿の原典に近い三国志が発掘されて、それに記載されてないとしたら、
むしろ発掘された方に佚文があるとまともな学者なら考えるだろう。
曹瞞伝は曹操をひたすらクソミソに貶す書だから一般的には信憑性が薄いとされてるけど
人中有呂布、馬中有赤兔
この一文に限っては捏造する意味がないもんな
強くなきゃあそこまで増長は出来ないだろうな
呂布に足らなかったのは自分が馬○だっていう自覚
機を見るに敏だぞ
呂布に足りなかったのは長期的展望
項羽と劉邦関連のスレで
「呂布と劉備だけの三国志」って説明があったな
単に数の差?
王允のクーデターは涼州と并州の州閥争いの側面もある。
并州の方が軍事力に劣り、朝廷の名士層の支持も少なかったんだろうな。
「謝っても許しませんよ。あんた等は皆○しです」とさえやらなきゃ、
軍事的には劣ってても主導権は握れたように思う。
だから李カクが報復処置で王允一派を鏖したんだな。
呂布と李カクらって仲悪かったんかな?
確認してないけど(というか記述があるか?)
面識も殆どなかった可能性はある
他にいなかったのかね、武将が?
それとも、牛輔程度の相手なら李粛で充分だと思ったのか…
負けたから史書で大したことない扱いされてるだけだろう。
牛輔の方は董卓の娘婿で、長安の東に駐屯し、
つまり山東の諸侯との前線に位置して李カク・郭シらを指揮下に持っていた。
董旻と並んで長安外の董卓軍主力を擁していたと考えていいだろう。
朱儁を破ってもいる。記述が少ないだけで小者感は微塵もないよ。
だったら尚更李粛では荷が重くないかな?
やはり、この時点ですぐに牛輔隊と戦える兵力を持っていたのが騎都尉の李粛しかいなかった…と見るべきか…
で、李粛って目立った戦績有った?
なんでこんな設定にしたのかは知らんが
李粛を派遣したとあるじゃないかw
相応の兵力を率いていただろうけど、正面決戦目的じゃなさそうだな。
新政権の権威と董卓のタヒによる涼州兵の動揺・寝返りを計算に入れたのだろう。
でも軍を率いて行ったなら迎撃されるのは目に見えてるよな。敗けて処刑される李粛タンカワイソス。
牛輔だったら、董卓の娘と離縁すれば罪は問わない…とか言えば、ノコノコ出頭して来そうな気がする。(勿論、餌も用意してな。)そこをバッサリと…
長らく雍州・涼州方面の統治をしてたよね。
差し障りは無かったのかな?
魏で出世した涼州出身者ってどんなのがいる? 賈?とか
出身地の仕事貰う方がマレ
出身の反対側で活躍するような人間沢山居るじゃない。
劉備なんて3/4周してるぜ
郭淮はどうやって涼州人と接していたかってことなんじゃないの。
涼州閥、并州閥の対立って董卓陣営内でのものであって
別に并州人と涼州人が対立していたわけじゃないんじゃないか?
南陽
そうすると董卓暗○直前には少しばかりの兵しか持ってなかったことになるか、呂布は。
こんなスレがあったのか。呂布好きには嬉しい。
最近初めて魏書の呂布伝を読んだが、例の虎牢関の戦いなんか一行も書かれてない
ので笑った。あの名場面や三兄弟との一騎打ちなんか全部フィクションだったのな。
ちくま学芸文庫以外で呂布の史料読めるのって他にないですか?
でも>>112が求めてるのはそういうんじゃないような気がする。
ネットに和訳が掲載されてる。
『資治通鑑』漢紀52~54。現代日本語訳書は抄訳ばかりで、呂布が出る箇所の訳があったかは判らない
両書を訳してる奇特な人もいる。「ほぼ訳!後漢書」で検索するとわかるでしょう
趙翼の『ガイ余叢考』で春秋から明までの一騎打ちの事例を集めた話があるが
三国からは呂布と郭汜のタイマン勝負が選ばれてる
三国で一騎打ちがほとんどなかった事を示しているとも言えるかもしれない
太平御覧にしても、呂布が袁紹のガサ入れから逃げるのに琴の奏者を使った、
みたいな勇ましいというより風流?な話が載ってたりする
親切な人が多くて嬉しいです。ありがとうございます。
最近、史実の呂布がどうだったかに興味がわきまして、ちくまの奴を読んだ
ところなのです。演義と史実の違いとか、比較したいと思いまして。
最強説の出所である虎牢関の話がなかったり、一騎打ちで化け物じみた力を
発揮するところがなかったりとか。演義の作者は呂布萌えだったのかな、とw
なんで最強設定にしたのやら。
ほとんど演劇の筋が取り入れられてるんだよ。
演義より先行して演劇の影響も強い三国志平話なんか見てみると、余計によく分かる。
平話の呂布や張飛を見たら、演義のは劣化版にしか見えないかもしれない。
その曹操を一度は打ち破った呂布や馬超の評価の高さは
知識としてしか知らない日本人のそれとは隔絶してるらしいからな。
演義であれだけ活躍してる趙雲が端役として認識されてるのもそう。
呂布の出身はモンゴル。
モンゴル出身が一番の強いなによりの証拠。モンゴル人が築き上げた元の国は、
歴史上最大の帝国。領土拡張能力は、モンゴル人は最強だということだ。
弓馬をとらせては、天下無双なのも理解できる。
さらに、朝青龍、白鳳の強さもモンゴル人の象徴だ。
元のモンゴルがいたのはゴビ砂漠の向こうで呂布の出自の五原の住人をモンゴルなぞいわん
そもそもモンゴル自体がはるか後世の民族だろうが
呂布が異民族と漢族の雑居地帯にいた事は確かだろうが、呂布がモンゴルな訳ないだろ
それに蒙古にも相撲はあるんだよね。
呂布はそれに比べると漢人に近い気がする。
まず、董卓に見込まれたのは丁原を暗○できる武勇に目を付けられてのことだし、
張燕攻撃でも、数十騎を引き連れて一日3,4度も陣営に突撃し、皆首を斬って戻ってきた
とあるし。
三國志の時代は馬に乗って弓を射るのは最大級の自慢になると聞いたな
それだけってか騎射ってそこまで多かったのだろうか?
三國志時代は現代にある馬の背中に乗せる道具がなかったと言われてるしな
本当に騎射ってすんなりできるの?
すんなりできないから最大級の自慢になると思うんだ
後漢の時代の騎射は今で言うと
F15Jにハコ乗りしながらバズーカを撃つくらいの価値があったんだよ
>>227
普通に「戦闘機乗りの資格」くらいでよかろうに、
なぜわざわざ物理的に不可能な戦闘機のハコ乗りなる形容を選んだのかがさっぱりだ。
戦闘機乗りの資格自体、騎射の出来る人物の割合より少なそうだが。
てか軍事ネタならレンジャー資格と空挺資格あわせ持ってる人くらいでいいんじゃなかろうか。
馬上用の短弓も必要だしなぁ。
董卓は馬に乗って左右両方に弓を撃てたってことが特筆されているし、
馬上で思うように弓を撃つってのは難しかっただろうね
鞍も普及はしていたが、鐙の確かな普及は四世紀になってからというし
そのおかげで全体的に騎兵の構成比率がさほど高くなく、騎兵は訓練を施された
兵士や異民族が主にならざるえをえないというし
いろいろ本読んだけど、
やはり、呂布の強さや性格を考える上で、朝青龍、白鵬の強さや性格は参考になるとのこと。
傲慢で野心家で物欲にとみ、我慢というものをしらない。縦横無尽に草原を駆け抜ける
それはまるでジンギスカーンのよう。
人類史上最大の帝国を築き上げた血が当然呂布、朝青龍、白鵬にも入っていよう。
そりゃ強いわ。
そもそも何で呂布がチンギスや朝青龍と同族みたいなことになってんだよ。
と普通にレスしてみる。
武芸最強かも知れないけど張飛よりちょっと強い程度で
各国の名将を圧倒出来る程強く無いんじゃないの?
今のメディアの呂布=最強・無敵ってのは面白さ追求で誇大表現だけど、
張飛よりちょっと強いとか、その程度ではないと思います…よ?
伊達に前漢・李広の飛将の異名取ってませんしね。
まぁその李広さんが…あんま知名度高くないんですが(–;)
しかし「飛将軍」の異名は当時、武勇に優れた武将にだけ付けられる異名でしたし。
他に三国時代で飛将の名を持った人いませんし。
そーゆー点で、やっぱ現代で「最強」って言われるだけの武将だったと思いますよ。
>>230
正史張飛が正史呂布に劣るとは思えないが・・・。
ってか、当時の大陸では知名度も武勇認知度も関羽、張飛>呂布なんじゃないか?
漢より後に勇者を称するには、必ず関羽・張飛を引き合いに出す。
晋の劉遐は賊を討つたびに堅陣を陥し、鋭鋒をくじいたので、関羽・張飛にたとえられた。
苻堅が閻負・梁殊を張玄靚のもとに使者として派遣したとき、本国の誇る将帥として王飛・鄧羌を挙げて、「関・張の流、万人の敵」と称した。
禿髪ジョク檀が人材の推薦を宋敞に求めたとき、宋敞は「梁崧・趙昌は、武が飛・羽に匹敵する」といった。
李庠は膂力にすぐれていたので、趙廞がかれを評して「李玄序はいっときの関・張である」といった。
南朝宋の薛彤・高進之はともに勇気と力をそなえていたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
魯爽がそむいたとき、沈慶之は薛安都にこれを攻めさせ、薛安都は魯爽を見つけるやいなや馬を躍らせて呼ばわり、あっという間に刺し○したので、ときの人は「関羽が顔良を斬ったのもこれほどではあるまい」といった。
南朝斉の垣歴生は拳勇突出していたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
北魏の楊大眼について、世間の人々は関・張もかれを超えることはないと評していた。
崔延伯が莫折念生を討って勝利すると、蕭宝寅は「崔公はいにしえの関・張である」といった。
南朝陳の呉明徹が北斉を討ったとき、尉破胡ら十万の兵にはばまれた。呉明徹は「もしあの胡人を倒せば、敵軍の士気を奪えるだろう。君は関・張の勇名をもっている。顔良を斬ってこい!」そこで蕭摩訶が出陣すると、尉破胡を打ち○した。
と後の世まで武勇を語り継がれているが、呂布は全く聞かないなぁ・・・。
それは「当時」じゃないよ。
しやすい存在で、それが昂じているのが今の状況。
どんなものでも、実像とその後の虚像との乖離があるもの。
実像は実像として把握し、虚像を楽しむのがいいと思う。
例えば、三国無双の呂布などは、ああでないと面白くない、とか。
劉備+関羽+張飛の3人まとめて相手したとか
描写があるからじゃないの
その名残で主人公ボーナスが残ってるんだな。
強さを例えるのに「おまえ呂布な」とか言われたら
「こいつはいつか裏切るんじゃねーの?」
とか思われてると誤解されそうな気が
もし、そうなら
敵兵を生き埋めにし、義帝を○した項羽がたびたび引き合いに出されているのはおかしい。
例、隋末の楊玄感の叛乱時の奮戦ぶりについて「論者方之項羽(人は項羽に匹敵すると言った)」(隋書楊玄感伝)
吐谷渾の2代目、吐延は羌族から「号曰項羽」と、その偉丈夫ぶりを称された。(晋書吐谷渾伝)
旧唐書の李密(隋末の群雄)の評、「或以項羽擬之、文武器度即有余、壮勇断果則不及
(項羽になぞらえる者もいるが、文武の才は項羽以上だけど、威厳やカリスマや決断力などは劣るだろう)」などなど。
呂布と項羽じゃ最期がえらく違うから、後世の人の評価が違うんじゃないかなぁ…。
個人的な意見だけど、別に項羽から悪いイメージ浮かばないし。
呂布の場合は主と仰いだ連中を保身のためにポンポン裏切ってるし、結局一群雄のままタヒんじゃったからね
そもそも項羽が裏切ったのは自分のとこの傀儡で、勢力を築いたのは自身の功績。
呂布が裏切ったのは勢力母体で、それを築いた功績は彼にはない。
ここら辺倫理的にも、また体制側からの認識もまるで違う気が。
呂布はヘイ州系の勢力を束ねて董卓勢力に寄与してただろ
何言ってるんだ?
疑問なんですけど呂布はどうやって主君を○してその下にいる軍勢を掌握したんでしょう?
普通は言う事なんて聞かないのでは
掌握してた?
丁原の時はそのまま董卓が吸収した形だし、董卓の時はポロポロ寝返られていたようだが。
>>242
董卓の掌握してる軍は大きく三つ
・後漢の正規軍
・呂布に従う并州人
・董卓子飼いの涼州人
董卓暗○時点で長安にいた董卓軍の内訳は前二者が大半を占めている
子飼いの部下は中原の反乱討伐に向かっており并州人、朝臣を除くと実は長安、軍事的には完全な空白地帯
そこで王允ら朝臣が正規軍を抑え、呂布を抱き込んでのクーデターを企図して成功させた
ちゃんと派閥に分けて動きを見ると簡単に理解できるようになってるよ
項羽は曲がりなりにも一王じゃない
呂布は、主君を二人も裏切り、○した奴
日本で言えば、光秀、蝮の道三
奴に例えられたくないのは後世の人間にとっては至極当然
その不義理なところを例えられたのは、唐末の李罕之だな。
例えたのは李克用だが…
なんだかなぁw
宝塚で光秀が主役になるのね
裏切り者ではあるけど、俺は何故か呂布が憎めないんだよな。
欲望に忠実で思慮が足りないところも人間臭くて好きだよ。
俺は三国志で呂布、馬超、孫策、曹丕、甘寧という癖のある人物が好きだな。
しかし中国史を色々と読んだら項羽のほうが無双っぷりが凄まじく思い(もはやチート)項羽のほうが好きになった
漢楚無双でもでたら項羽の方が好きになる奴は多いと思う
HPゲージ赤くなってる時に背後から迫り来る触覚はトラウマだよな
自キャラとして使うときに簡単に俺TUEEEEEEEEEできるってのも、マニア
には嫌われがちだしゲームキャラになったら項羽も好き嫌い分かれそうだ。
正史演技の呂布や項羽は人間臭くて好きだが、個人的に付き合うとしたら
惚れ込むか蛇蝎のように嫌うことになるかのどちらかになりそうな気がする。
なんにしろクセの強い人物だよな。
呂布みたいな荒れくれの筋肉馬○を一緒にしないでよ
項羽を美化しすぎ。
項羽を絶賛するのは同意だが、呂布を体育会系筋肉馬○呼ばわりはやめれ。
そんな単純な男じゃないから。
>>261
呂布は真っ黒に日焼けしてガッチリして男らしいイメージしかない。
美少年タイプ、カワイイ系は子竜や呉の美周郎、孔明。
細身で背が高くて色白でがっしりしてる
今で言うとスポーツマン体型だよな
呂布が筋肉馬○って事には別に否定しないが、項羽も筋肉馬○と言う点では変わらんと思うが
政治的な行動を見てるとね
項羽もキレて兵や捕虜を感情的に虐○しようとしたり、窘められるとすぐ機嫌を直したり、単純な所がある
婦人の仁という所も似ているような気がするな。彼ら二人とも直情的だが悪人では無いような気がする
ただ呂布が終始自分の身の振り方にあくせくしている等身大的な人物であるのに対して、項羽は「天が我を滅ぼす」と言ってみたり、如何にも大望と気宇がある
項羽がチートじみてたのは楚漢戦争だったからだろう
後漢末期は楚漢より遥かに面倒臭い状況で、政治力が必須。物資も無いし
呂布が主人公の作品があったような
>>269
『呂布が起つ!』ね
単行本になってないんだよな~
『雲漢遥かに』という趙雲が主役の漫画では
趙雲が呂布の軍に身を投じているので
それなりに活躍してるよ
呂布がひたすらいかつく描かれてる。
呂布が主人公のギャグ漫画載ってたw
ずっと前に三戦板で載ってたが、10点満点中「戦術」だけが5で
あとはほぼオール1と評価されてたなw
董卓のがずっとマシだった
中華レベルでも呂布は項羽とかに比べたら格下になってしまうし
英雄どころか群雄としても微妙な評価
これもしかしたらやばいんじゃね?もしあの時点で張燕がまだ百万の軍を持ってたら、
呂布が数十騎で百万を離散させたって事になるぞ
袁術(紀霊)と劉備の戦いの仲裁の時に、
超人的な弓術を見せてるから、
少なくても弓が凄いのは確定。
演義でも再現されている。
作り話をしんじてんの?
呂布の兜(?)の飾りの触覚みたいなのが女性を恐怖させる台所の覇者Gに似てるってネタだったが
おかげで横山先生の漫画三国史読んでも呂布の姿に笑うようになってもうた
モンゴル人の強さは今でも証明されてるやん
朝青龍や白鵬とか見たらかなり強いとわかる
呂布が低い評価なのは早々に姿を消したからだけど
190~200年は群雄割拠が最も激しかった時だし
徐州城から許昌のあたりは猛者が多く激戦区だったから
三国志の事実上の決勝戦だったと思う
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175339923/
コメント