後醍醐天皇って部下の手柄を横取りするような卑劣な男だったの???
そんなイメージしかないんだけど
少なくとも自分で武器を取って最前線に出たことはないよね
教科書では天皇の力が弱まってたから、昔のように強い天皇制にしたかった
みたいな書かれ方だった
個人的には小悪党の印象なんだが、それをひっくり返すようなエピソードない?
漫画やゲームにも登場しないからなじみが薄いし
>>1
そもそも、組織内のメンバーがたてた手柄はトップが持っていって、その対価に論功行賞を行うわけだろ、手柄横取りしなかったらおかしくね?
現代の会社でも、社員が開発した新発明の権利は会社に帰属して、開発者は昇進かボーナスを対価として得るわけじゃん
>>1
そもそも、組織内のメンバーがたてた手柄はトップが持っていって、その対価に論功行賞を行うわけだろ、手柄横取りしなかったらおかしくね?
現代の会社でも、社員が開発した新発明の権利は会社に帰属して、開発者は昇進かボーナスを対価として得るわけじゃん。
>>1
ガンダムのサングラスと同じような設定でしょ
実際は戦などに出てこないし、
参加したこともない
そこに行けばどんな夢もかなうというよ~
誰もみな行きたがるが遥かな世界♪
その国の名はガンダーラ何処かにあるユートピア
どうしたら行けるのだろう教えて欲しい♪
自前の軍力持たないと、策謀だけではどうにもならんよ
護良親王は?
残ってるけど小悪党でしかないからできないのか
たぶん後者だろうな
楠木は弱者の戦法だからまだ分かるけど、毛利は強者になってからも騙し討ちばっかだからな
黒田はアメリカ的な物量で圧倒する感じだから、それはそれでアリかと
誰それ?教科書に載ってない人たちだろ
善政とはいってもそれぐらいどうでもいい扱い
試しに調べたら日野資朝教科書に載ってた
王莽にそっくり
政権とるまでは良かったのに
どっちかっていうとコキ使われたのは皇族、公家のほう
後醍醐に加担したためにロクな目にあってない
日野資朝:処刑
日野俊基:処刑
万里小路季房:流罪⇒○害
花山院師賢:流罪⇒タヒ亡
文観:流罪
円観:流罪
洞院実世:謹慎
一方、武士は前代未聞の昇進ラッシュ
足利尊氏:従五位上⇒従二位、左兵衛督、武蔵守、鎮守府将軍
楠正成:兵衛尉⇒従五位上、河内・和泉守護
新田義貞:無位無官⇒従四位上、越後・播磨守
名和長年:無位無官⇒従四位下、伯耆守
映画やドラマは作れないだろ
小説でも無理だと思う
清盛の白河法皇や後白河法皇の扱いは相当酷かったぞ
後白河については、即位する前から暗愚呼ばわりされたという史実があったような?
当時、持明院統、大覚寺統邦良親王派、大覚寺統後醍醐派に分かれていた公家を一つに統べる、というのが本当の意味であって、
武士を蔑にしたとかいう史実はない。
後醍醐は、倒幕に成功した後も、従来の身分制度を打破し、
能力基準で広く人材を登用していきました。この過程で、後醍醐のために「玉砕する」南朝の忠臣たちが登場するのです。
彼らのプロフィールを見ましょう。
①楠木、名和氏・・・豪族だが、実態は武装商人だった。
②新田、菊池氏・・・名門の末裔だが、実態は没落した田舎豪族だった。
③日野、北畠氏・・・貴族だが、カーストの最下層にいた。
彼らは、従来の制度の下では、生涯、日の目を見ることができない闇の世界の住人だったのです。
後醍醐政権の内部でしか、栄光を謳歌出来ない人々だったのです。だからこそ、
玉砕するまで南朝のために戦ったのです。いわば、後醍醐天皇という政治カリスマがもたらした、
歴史の中の例外的な現象だったのです。
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/pacific22.htm
そのせいで貴族らの間では不満も根強かったみたいだな
後醍醐の発想はカリスマ的かも知らんが土台は大覚寺統の人脈と資産
そこに足利、新田や楠木、名和、赤松なんて入ってきたら反発がおこるのは必至
神器の偽物を何組も作って収拾がつかなくした人物だな
最低でも二組の偽物が出回ったが、ひょっとすると三組以上の偽物を作ってたかもしれん
はよ返せ
おそらくは取り上げられた方が本物であって、それを偽物ということにして政治宣伝しただけと思うけどな。
偽物の準備に要する時間を考えたら、偽物を渡して誤魔化すとか困難だったとしか思えん。
つまり、真贋以前に南朝の正当性って
揺らぎっぱなしか
>>35
というか後醍醐からすれば自分自身こそが権威の源泉
よって自分が持ってる物だから本物だというくらい意識だったかも
後の連中も後醍醐の子孫か否かに正統性を求めたがってる感じだし
『摂津名所図会』に元弘3年(1333年)5月晦日に後醍醐天皇が隠岐から京へ戻る途中に入り、6月朔日、
大般若経を転読させたとある。
天正年中(1573年~1591年)兵火にあい焼失、のち再建。
史跡後醍醐天皇駐蹕之處
赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎が出迎えた寺として知られる。
『福厳寺塔頭』 境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵があったが、 明治後合併廃寺されて、
名目上に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になった。
また和田岬にあった尼僧寺院、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されている。
ところが世間知らずの缶詰貴族なんで、誰のおかげで勝てたか理解していなかった
セルを倒した後にZ戦士放置でミスターサタンを表彰して気がついたら悟空が敵だった感じ
後醍醐は誰のおかげで勝てたかなんて知っていたよ
しかし、後醍醐は大化の改新を模して悪い臣下を成敗し
天皇家による政治を目指していたのに対して
足利尊氏は天皇はこれまで通りのお飾りで
自分に天下をすべて渡せと要求した
そこで足利尊氏を成敗するしかないとなった
尊氏にすれば武士の統率と既得権の保護を任せてくれれば後はどうでもいいというところだったのかも
後醍醐天皇はワンポイントリリーフで即位出来ただけなのに
父後宇多天皇の遺詔を無視して我が系統に皇位を伝えようとした
不届者である。また、その父後宇多天皇も父後亀山天皇の遺詔を無視して
我が系統に皇位を伝えており、まったく不届な親子である。
この系統が今に至っていないことが日本国の不幸中の幸いであり
この系統を守ろうとした楠などの忠臣は誠に不憫である。
いや、白河院も親の遺命にそむいて自分の子孫を天皇にしてるんで、
実は院政時代は親不孝が頻々と起きていた…
そもそも持明院統の成立自体が後嵯峨院の意志に反するものだったらしい。
天皇(皇統の家長)になってさえしまえば好きにできるなら、ゴダ子もさほど珍奇ではない。
後二条院系の憤懣は察するに余りあるけど、皇国史観はご都合主義で無視するようだね。
森友学園で、先祖不孝な白河・後醍醐・明治をどう評価するのか質問してみたいもんだ。
多分に名誉称号なんだろうけど、足利義満を鹿苑院太上天皇と呼んだことはあって。
一応、息子で足利家当主の義持が辞退したけど、義満を上皇と呼んだ人はいたと思われ。
院政期は、時の天皇在位者より皇族(と書くと意味範囲が不正確かも)の家長のほうが偉かったから、
実は長い歴史でめんどくさい変遷を遂げてきた天皇制そのものが統一的に考えられるかって問題がある。
まあ俺は「後高倉院と後崇光院は天皇だと考えていいだろう」と思ってるけどね。
統一的は完全ムリでしょ。
現行の制度でさえ皇位継承に関しても、旧来の践祚は「即位」、即位を「即位式」としているし、
今回の生前退位後の称号問題でも、「上皇」を推してる人も、由来は太上天皇から来ているが今回のは太上天皇ではない、
みたいな小難しいこと言うしね。
言葉遊びのようでもあるが、まあしかし言葉の問題は重要なんでしょう。
上のほうでも院号だ天皇号だでやり合ってるし。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1403151347/
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