【三国志】各国の猛将代表といえば蜀←関羽、魏←張遼、呉←…あれ???
猛将というより知勇兼備タイプだろ
それ以外に一切名前が出てこない人だっけ?
そうそう
武力74くらいってイメージ
>>24
【周処】三国時代末期から西晋の武将。呉の武将・周魴の子。
日増しに国力差が開く一方の魏と呉、孫権と陸遜は魏の戦力を削ぐ為に赤壁の戦いを再現しようと企む。
この時かつての偽の寝返りで曹操を油断させた黄蓋の役に抜擢されたのが父・周魴だった。
魏軍総大将の曹休は周魴の裏切りに懐疑的だったが、日増しに軍内で増大する司馬懿の存在に対抗する為に、ついに周魴の誘いに乗り大規模な呉討伐軍を起こす。
結果は陸遜率いる呉の大勝利、これが第二次赤壁の戦いとも呼ばれる石亭の戦いで、父・周魴はその立役者として名を馳せた。
しかし周魴のタヒ後、息子の周処は呉には仕えずヤクザ者となり、地元で悪行の限りを尽くした。
ある時周処の地元で記録的な大豊作が起き、周処は近所の田畑を見て回った。
しかし大豊作なのにも関わらず刈り入れをしている農民が見当たらない。
やっと見つけた老人に事情を聞くと「三害(三悪とも)がいて刈り入れが出来ない」と言う。周処が「三害とは?」と尋ねると
「まず山に出る人喰い虎、これが豊作を利用して稲穂に隠れ、刈り入れをしている農民を襲う。皆恐れて刈り入れ出来ない。
次いで人喰いワニ。刈り入れた稲を街に運ぼうにも船着き場に巨大な人喰いワニが現れて襲うので、船を使えない。
最後に人喰い周処、コイツが街にいて人々から金品を巻き上げ、逆らうと○されるので皆恐れて街に行かない」
周処はコレを聞いて怒り、村人を罵倒して「俺がその周処様だ!ネコちゃんやトカゲごときと一緒にしやがって。見てろ、俺が一番強ぇんだ」
と言って虎の潜む山に行って虎を倒し、川に潜ってワニと闘った。
しかし水の中のワニは陸の虎より遥かに強く、なんとかワニを倒したものの、周処も傷つき溺れて下流に流された。
村人達は三害が滅んだお祝いにお祭りをした。
周処のタヒ体は見つからなかったので虎の皮とワニのタヒ骸と一緒に等身大の周処人形を吊るし、
「虎がタヒんだ!ワニがタヒんだ!周処がタヒんだ!三害が相ころし合って滅んだ!神様ありがとう」と歌い、
子供達は周処人形の顔めがけて泥ダンゴを投げつけた。
周処人形の顔は泥だらけになり、祭りのクライマックスには周処人形に火が点けられ燃えあがり、泥の付いた頭だけが転がり落ちた。
子供達がそれを蹴り遊ぶと、広場のはずれに佇んでいた男の足元で転がり、ソコで燻っていた火が燃えあがって男の顔を照らし出した。
周処だった。
街から離れ、人気の無い場所で周処は泣いた。
自分は人々から恐れられているのは知っていたが、その強さに敬意を払われいると思っていた。
まさか人喰い虎や人喰いワニと同レベルで嫌われ、そのタヒを喜ばれるとは思ってもいなかったワケだ。
人は逆境になった時こそ真価が問われる。
周処が本当に犯罪者気質の人物だったならココで無差別大量虐○が行われただろう。
並みの神経の持ち主なら引きこもり、あるいは自○していたカモ知れない。
しかし周処の本質は英雄気質だった。
本当に人々から尊敬される人物になろうと思い立ったのだ。
呉には良い先例がある。呂蒙は若い頃救いがたい不良だったが、魯粛や孫権の薦めで学問を修め、魯粛の後継者と成り、ついには宿敵関羽を倒す功績を上げたのは有名だ。
自分も呂蒙を真似て学問を学ぼう。そう思ったが、知っての通り中国の古い書物は抽象的な内容で読んでも意味がチンプンカンプンだ。
周処は「これは誰か師匠についてもらわないと理解できない」と思ったが、誇り高い性格なので並みの人物では気が済まない。
陸遜の孫にあたる陸機は、知謀も長け体格も逞しく、いずれは祖父・陸遜、父・陸抗に匹敵する名将となるだろうと言われていたので、彼の弟子になろうと思い立ち、陸機の家を訪ねた。
しかし陸機は留守で、まだ幼い弟の陸運が対応してくれた。
思えばこの陸運も陸遜の孫だ、彼に師事しようと周処は考え、頭を低くして親子ほども歳の違う陸運に教えを乞うたが、相手が幼かったせいかつい弱音を吐いてしまう。
「勉強とは若い頃からしていないと身に付かないモノ。やはり今更勉強しても遅いのでしょうか?」
すると陸運はこう答えた。
「朝に道を問えば夕にタヒすを如かず。朝に人生とは何かを学べばその日の夜に寿命が尽きても後悔はしないと言う意味です。勉強するのに遅すぎるという事はありません」
周処はコレに感激し、その後も勉強を続けて呉に仕官した。
しかし時既に遅く、呉は晋によって滅ぼされてしまう。
晋の将軍は呉の臣将を集めて慰撫する為に宴会を開いたが、酔ってつい
「君達は自分の国を滅ぼした相手の宴会にホイホイ出てきて恥ずかしくないのか」と侮辱した。
呉の臣将達は下を向いて誰も反論できなかったが、末席にいた周処が毅然として立ち上がり
「アナタがかつて仕えた『魏』も『晋』に滅ぼされました。亡国の屈辱を知る者は一人では無いハズです」
と反論した。晋の将軍は謝罪した。
かつて姜維の北伐は鄧艾によって全て阻まれ大敗し効果が無かったと言われているが、
実際には鄧艾は姜維の北伐に耐え兼ねて漢中周辺に異民族を強制移住させて傭兵兼軍費収入源にしていた。
蜀滅亡後、異民族達は暴徒や流民化し、この地は極めて統治の難しい場所になってしまい、たびたび大規模な反乱が起き、晋皇帝・司馬炎を「呉より手強い」と嘆かせた。
この地で再び再万年という異民族の長が反乱を起こした。今までの反乱は各部族ごと別々の反乱だったが、この再万年の乱は複数の部族合同のモノでかつてない大規模なモノとなった。
そこで剛勇で知られる周処が鎮圧軍の将として抜擢されると「虎やワニも倒す」周処の武勇は異民族にも知れ渡っており、異民族達はたちまち大混乱に陥った。
しかし複数の部族連合の長になる再万年もまた剛勇の士である。
「それほど恐ろしい周処が総大将ならば確かに恐ろしいが、たかが副将としてくるならば何あらん、このワシが生け捕りにしてみせよう」
そううそぶいてた。再万年の予言通り周処は総大将ではなくタダの一武将に過ぎなかったので、異民族達の混乱は収まった。
周処の出陣が決まると故郷の呉から孫秀という友人が訪ねていた。
孫秀曰く「今度の出兵、アナタの上司の司馬某と夏侯某(夏侯淵の子孫)はかつてアナタに脱税を摘発されてた事を恨んでいる。病気を理由に出陣を断った方がよい」
周処「私は亡国の臣にも関わらず皇帝に抜擢されました。忠義を尽くし任務を果たしてコレに答えぬワケにはいきません。
この度また将として抜擢され、再び忠義を尽くして任務を果たすのみです。司馬某や夏侯某が私をどう思ってるかなど気にしてはイカンのです。
しかし私に万が一の事があれば、私の子供達の事をおねがいします」
孫秀は周処の子供達を呉の地へ連れて帰った。
孫秀の予想通り、司馬某・夏侯某は卑怯に振る舞いワザと周処を敵中に孤立させて救援をしなかった。
再万年達は猛攻撃を加え、周処は戦タヒしその部隊5千の兵は全滅したが、異民族側のタヒ者は倍の一万を超えた。
孫秀が連れ帰った周処の息子達は、のちの陳敏の乱で活躍したという。
引用元: https://hebi.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1583826214/
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