グノーシス思想とは要は自分には知る限界があって、それ以上は知らない(未知)ということを示す
ユダヤ、キリスト、イスラムの一神教で言われる神というものは、他人だったり神道で言うところの自然を指してる
何か聞きたいことあったら答えられる範囲で答えるぞ
そして他人が神ってどういうことなんだ?
哲学みたいな感じだから厳密は思想だろうけど、個人的には宗教としてのくくりで見た方がわかりいいんじゃないかとは思う、特にわたしはキリスト教のグノーシス(ユダの福音書とかマリアの福音書とか)が割と利にかなってるなとは思う
本来あなたにとって他人は考え方も行動もわからない未知なものだから、他人の存在や行動はあなたにとって神だということだよ
「グノーシス」って言葉は日本語にするとどういう意味なんだ?
確か”知”だったか”知の思想”だったかと呼ばれてたような気がするわ
あと、他人あるいは神、あるいは未知に対してどう接しろと説く宗教なんだ?
神道なら神に供物を捧げて安寧を願うとか、ある宗教なら神からのお告げを信じるとか、宗教ごとに色んなスタンスがあるけど
「自分以外の知も限界があるから、知への欲求を外に広げて知の範囲を広げよう」ということがそれらの書物の書きたいことだとわたしは思う
具体的に例えばキリスト教で言う神って多く自分の外に求めてることが多いのだけども、グノーシス派のキリスト教は逆で自分の中に神を持ちましょう、それぞれの方がそれぞれの中に神がありますよ、ってことが書かれてる
だからわたし個人的にはキリスト教グノーシスってどちらかというと多神教とか神道に近いと思ってるよ
ただ同じ多神教でもヒンドゥー教は未知をそれぞれの人に見立ててるからまたちょっと見方が違うようには感じるかな
確かに言うたらそういうことだわな、だけどそれぞれの宗教を信仰してる人にとっては自分の思い込みたいように見たいから、思い込みを捨てたグノーシスの見方を極端に嫌うのよ、だから昔から迫害されてきた歴史があるわけ
タイツ派閥ってのはわからないけど、「知らないことは知らない」と答えることは物事を真摯に見る意味で誠実だとは思うけどな
“知らないこと”ってのを自然の神と見た(神道)り、偶像化して神と見た(ヒンドゥー教における神や一教神の神)りするってことだわな
「物理的な存在としてはないけれど、概念的なものとしてはそれぞれの人々の思想や考え方の中にはある」という感じだと思う
例えばコンプレックスをいじられて怒ることなんか、一神教信仰者が己が信じている神を否定されたとき怒る様とよく似てるじゃんか
それってギリシャ哲学がベースのグノーシス思想(哲学)なんじゃないかな、学術書とか出てるのは知ってるけどずいぶん難しく書いてるような気がする
わたしが納得できたのはキリスト教グノーシスね、たぶんちょっと違うんじゃないかなぁしらんけど
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もすべて神は名前をいうことさえ畏れ多きものという解釈だよ
恐らく彼らは人も自然もいっしょくたに神としてるから”神とは何かが定義できない”という意味なのだと思うけど
そうなんだけどわからないことを未知とするか神とするかってのは物事が小さいようでいてかなり大きな違いだと私は思うぞ
クノーシスは物理的な存在としてないけど概念的存在としては認めるというスタンスを持つと思う、だから他が多神教も一神教を信仰してても認める(どちらかと言うと認めるというより自分以外の知のことだから知らないというのが解釈としては正しいかな)
一方無神論は神の物理的にも概念的な存在も否定する、と言う意味なはず、例えば共産主義はもちろん科学もそういうタンスだよね
ただ日本の一般的な多神教の価値観を持ってる場合、特に海外行ったと気軽に無神論じゃだと言わない方がいいぞ、なぜなら無神論者ってのは宗教があるのが当たり前の国の人にとって法律もルールも守れない無法者ってイメージだから、新渡戸稲造の武士道読むと最初にそんなことが書かれてるけど
哲学だと思うね、ただそれがキリスト教におけるユダやマリアの福音書に文章形式で書かれてるって話、ありゃ聖典と呼ばれる聖書と違ってるものだな
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