【三国志】諸葛亮の人選って難ありだらけじゃね?
馬謖「なにをいまさら」
姜維「それはない」
孔明「それも策のうちです」
武官は殆どヤバい。
やはり法家、文の人だった所為だろか。
ぎえんだけにエンギか
コイツ魏延じゃね?
政治家として一流なんだし。
でも、自分では人を見る目もあると思い込んでいる。
法正クラスがいれば長安陥落してる。
ただ蜀で優れた能力があるのに馬謖とか李厳とか楊儀とか魏延さんとか性格に難があるのが多すぎなだけで。
魏延も馬稷(←携帯って言べんのでないのな、)も
劉備が使ってたほうが有効だった気がする
二人とも人生終了は孔明のせいじゃね
馬謖は劉備は本質を見抜いていたけど、諸葛亮が起用して失敗
だから劉備には見る目があって諸葛亮にはない、って短絡的な人多いよね
そんな劉備だって後年には蜀の執政者にまで昇る蒋エンを免職にしようとして
諸葛亮に諫止されてる例があるのに、こういう話は全く採り上げられない
劉備はそれこそ第一線をはれる大粒な連中をよく用いたし見ていたけど、
組織が大きく膨らめば、その組織を担う歯車のひとつひとつを丹念に拾い上げて
いく諸葛亮の一見すれば地味な人事も必要なはずだろうにね
劉備は馬謖を「大事を任せるな」と言った。で、諸葛亮は大事を任せて失敗したのだから
>組織を担う歯車のひとつひとつ
これはあてはまらないだろ。
もっと言えば、馬謖は歯車として使えといったのが劉備で、それにそむいて抜擢して
失敗したのが諸葛亮。
>>18
誰もあてはまるなんて言ってないって。
諸葛亮の人事・登用の基本は>>15の下段二行だってこと。
馬謖の件は抜擢で例外なんてことを今更明記するまでもないと思うのだが。
単に諸葛亮の人事を馬謖の一事のみの知識で批評する人が多いって事に
一言いいたかっただけなんだけどな・・・
勘違いさせてしまったならこちらにも責任はあるだろうが。
軍事では一回のミスが致命傷になる
でも内政のミスはすぐには現れない。
でも10年後に取り返しつかなくなるのは内政だよね
三顧の礼で蜀に行くまで、山奥で晴耕雨読の仙人みたいな生活をしていたということは、
自分より頭の回らない人間とチクタクチクタク生活していくのが面倒だったんではないか?
もともと酔狂先生のところで、かなり有能だったのなら、普通はすぐに就職・・・というか
諸侯の誰かに仕官するだろう。
それをせずに、辺鄙なところで暮らしてるってのは、そうとうの変人。
どこかで自惚れがあったのかも知れんな、それで他人を信用しなかったところに、
こういう起用ミスが起きた可能性もあるのでは?と、思ったりしている。
>>24
亀だが、諸葛亮の叔父は諸葛玄。諸葛家は地方官僚の名族。
名のあるところでは魏呉蜀に仕えたのは諸葛家だけじゃまいかな。
まるで海野・真田家みたいだな。
謹も国の重鎮になってるし、案外腹黒一家だったりして。
均は魏の人材の層に圧倒されて活躍出来なかったか。
重箱ですまんが、均は亮の弟で、職に仕えたんでなかった?
魏でびみょーだったのは誕じゃまいか。
>名のあるところでは魏呉蜀に仕えたのは諸葛家だけじゃまいかな。
ひねくれた突っ込みをいれると劉氏とかw
孔明が名士組を重用したがったんで
その軋轢というかひずみで色々出てきたんじゃまいか。
豊臣政権の、武功派と吏僚派の対立に、
似たような雰囲気がちょっとあったりしたのかな。
こういう劉備の好むタイプの人間の持つ判断力は戦に強いと。
法治主義的な行政官の諸葛亮は、役割は似てるが調整官的で敵味方の人物評価に長けた荀彧と
真逆の人材だと思う。性格が生硬なせいか、組織の枠をはみ出る人間を使うのは好まなかったんだろうな。
そのため中央集権の強兵の国を作ることが出来たが、「応変の才略」に富んだ人間は出てこなかった。
それでいて諸葛亮自身は妙に戦場のどつき合いに強いから始末が悪いw
魏延が不満に思ってたってだけで、使いこなせてないとは違うんじゃね?
現実には常に第一線で起用されているし、昇進もされてる
重用してるんだけど魏延が自分の使われ方に不満もってたって感じやね
今でもよくいるよな、自分はもっといい仕事ができる!って不満を持ってる人。
実際その通りな人もいるし、自己過信に過ぎない人もいる。
魏延はどっちのタイプだったのかね。
ありきたりな妄想としては、劉備がもっと長生きしてれば更に活躍してたんだろうけど。
正史・創作どちらから読んでも、諸葛亮より劉備の方が魏延と相性よさそうだし。
しかも長安奇襲は退けて馬食起用し大敗するし。
魏延に近いくらいある。
従軍経験はあっても、司令官として戦った経験は少ないんでないか?>諸葛亮
まぁ、魏延も基本的には一部将なんだけどな。
漢中太守の時に、魏の小規模侵攻でもあれば、
魏延が単独で防衛戦を仕切ったんだろうけど。
功績は特に記されていないが、劉璋と正面決戦の段で
益州の面の制圧が必要なための増援だったのだから、
実戦参加していないという想像の方が不自然だ。
益州進出は増援連れてって、後詰として補給路確保しただけ。
前線指揮の作戦参加はしていない。
実戦と言うか、戦闘参加していない。
張飛趙雲と同列に語られている箇所しか見付けられないんだけど。
反骨の相というのは絶壁頭のことらしいぞ。
人を見る目はあるんだけど使い方がヘタな時あるよね。
張飛に留守番させるとか。
劉備の人を見る目は鋭いし、非常にシビア
癖の強い魏延を十全に使いこなすのは蜀漢ではやっぱり癖の強い劉備だけなんかなぁと。
諸葛さんは過不足なく使えるけど癖の強い人材は劉備ほど使えない印象。
そこは英雄になり得るだけの存在だった劉備と,
どこまで行っても名臣の域を越えられない諸葛亮の差なのかなと。
>>57
関羽、張飛、趙雲、黄忠、魏延、馬超、馬岱、簡擁、糜竺、孫乾
関平、周倉、王甫、伊籍、馬良、張苞、関興、関索、厳顔、李厳
呉懿、呉班、呉蘭、雷銅、向朗、向寵、霍峻、霍弋 、黄権、黄崇
李恢、王平、張翼、馬忠、張嶷、呂凱、蒋エン、費イ、董允、郭攸之、姜維、夏侯覇
ついでに徐庶、ホウ統、陳圭、陳登、田豫
何か?
つうか単家の出かつ後からの加入で右中郎将や御史中丞のような中央官を歴任できる時点で,
相当優秀だっとしか思えないのだが。
場末の地方勢力とも呼べないような集団の特に重鎮でもない人物が敵に投降して中郎将にまでなってるんだからむしろ相当実績を積んだんじゃないかと思うんだが
いくら中央官とはいえこの程度じゃ徐庶には役不足だと感じるのも無理は無い
登用の面も、馬謖の一件はあるけれども、前コメの通り、蒋琬などの後事を託せる人間を見出している部分は大変評価出来る。
ただ、そもそも、一人の力だけで国を維持するのは大変難しい。
身は一つであるからだ。
その点、曹操、曹丕なんかはほかの人材を上手く使って広範な地域を治めていたのだから、魏の方が上手になるのも仕方ない。
諸葛亮は蒋琬や費禕なんかに色々と託してしまって、もっと長生きして、人材育成に徹した方が良かった。
彼の誤算は色々とあるけど、
関羽が荊州を取られてしまったことと、劉巴が早世してしまったことだろう。
荊州は軍事面でも重要拠点だったけど、太学という学問機関があり、優秀な人材も集まっていた。また、肥沃な土壌でも知られている。
劉巴は激務の尚書令を非常に優秀な能力でこなしていた。彼が早世してしまったことで、相当負担が増えたのは間違いない。
あとは、彼の失敗は派閥を放置していたことだと思う。競争が人を育てると思っていたのか分からないけれども、蜀人が徐州、荊州、益州、それに他国からの投降者の差異を忘れ難くて、チームとして一枚岩でなかったのが、北伐失敗の遠因かもしれない。
そういう人間的な部分に配慮出来なかったのは、諸葛亮の失敗だった。
例えば、楊儀魏延の不仲を諫めたり、和解させようとしたり、そんなことをやっていれば。
あとは、もっと、魏延に配慮して、自分の心中をせめて明かしていればと思う。
忙しかったからなのか、それとも、その優秀さゆえに友人関係……分かり合うことの大きさを得られなかったからなのか。
とはいえ、諸葛亮存命中や、黄コウが実権を握るまでの間、大した問題もなく、蜀漢が安定していたのは、彼の功績が大きい。
蜀漢は、劉備・孔明の人徳の上に成り立ち、漢室復興の上には真に成り立っていなかった。
まてまて、劉備も張飛を留守番に任命して、手痛い失敗してるだろ。
それ以降二度と独立した場所には置かなくなったし、よっぽど堪えてた思うわ。
失敗は馬謖、李厳
後年は派閥によらず人事を成功させてる
癖のある魏延楊儀の登用
有名どころでは鄧芝の抜擢や、董允、蒋?、費?の育成と
成功例は多い
蜀の記録はやっぱり少ないからな
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1178993118/
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