蝦夷の研究について
律令国家の支配に属さず蝦夷と呼ばれた人々について、最新の発掘調査や文献史料を基に、律令国家との争い以上に交易が盛んだったことを紹介する。
年代は、多賀城が設けられる直前の7世紀後半から平泉藤原氏が滅亡する12世紀後半までが対象。国重要文化財「金装獅噛三累環頭大刀柄頭(きんそうしがみさんるいかんとうたちつかがしら)」のほか、蕨(わらび)手刀、柳之御所遺跡の「カエル板絵」など北東北を中心に出土した約300点を展示する。
9月に「律令国家と蝦夷」、11月に「古代蝦夷研究の現在」をテーマにした記念講演会を開催。連続講座は9~10月が「前九年・後三年合戦と平泉」、11月が「考古学からみた“伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱”」などを題材に開く。
24日にあったプレイベントでは、アニメ映画「アテルイ」が上映されたほか、元館長の進藤秋輝さんが「古代東北統治の拠点 多賀城」と題して講演し、多くの歴史ファンが訪れた。
特別展は一般1200円、65歳以上1100円、小中高生600円。毎週月曜は休館(休日の9月23日、10月14日、11月4日は開館し、いずれも翌日休館)。連絡先は同博物館headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190829-00000013-khks-soci
これ行ってきたけどつまらなかったな
おもしろそう
蝦夷(エミシ)大和王朝から蔑まれますが、
全く違う国。
祖を尋ねれば、それは大和の先行王朝(海王朝~磯城)の大彦(皇太子)。
かれを古事記、日本書紀はナガスネ彦と蔑んだ。
大和の王家、有力豪族ら同士で覇権争い/権力闘争に明け暮れる中、九州の物部勢が侵攻してきます
(「第一次物部侵攻」、、、(ニギハヤヒの降臨。とか、神武東征(の前哨戦)など))
四国南岸沖から紀伊水道を通り紀ノ川を遡り、
南岸に陣取って侵攻してきた物部勢力を迎撃して一時は追い払う事に成功しますが、
(先行大和王朝側から見て)賊軍(物部勢)は紀伊半島を南に迂回して熊野(新宮)方面から再上陸 。
しかし、大和王朝側の紀伊国造(高倉下命の子孫)らの軍に迎撃、ゲリラ戦を仕掛けられて熊野川上陸の中洲(元熊野本宮の大斎原の地)に孤立化、、、w
大和王朝側が豪族同士で権力争いに明け暮れて一枚岩ではないとの情報を得た侵攻軍側は
大和王朝の副王家、トビ家の分家、大田種彦(大田田根子)に内応、手引きを要請します。
大田種彦は本家のトビ家(大和王朝の副王家/大神(カモ)王家)への対抗心や大和を平定して大王となる野心から外来の物部勢力を引き入れ利用することを考えて、
要請を受諾。
物部軍はトビ家分家大田種彦らの道案内を得て前人未到に近い熊野川沿いから紀伊山地を北進して無傷で吉野に、吉野川/紀ノ川を渡り磐余に無傷で着陣して威勢を張りました。
突然現れた大軍団に算を乱した大和の豪族らは大和を逐われます。
大彦らも抗戦しますが多勢に無勢、北への退却を余儀なくされて
大和を放棄。
大彦は伊勢(伊賀)に新たに王国を建て、、、追撃されて
仕切り直し、琵琶湖東岸に新たに出雲族の信仰に因み三上山を大和の三輪山に見立ててクナト国をごうします。
クナト国がシナに伝わって狗奴国と書かれました。
大彦は出雲王国の東の王家、富(トビ)家に出向き救援を要請しますが、
出雲王国は各地の領地を奪われ、更に九州物部勢力が侵攻準備中との情報を得ていたこと等から
勢力を分散する余裕はないとして申し出を断りました。
出雲の王家は大彦らに北陸方面へ行く事を勧めました。
併せて、富、トビを名乗ることを禁止します。
出雲の往来の途中、藁蛇を神木に巻き付けて荒神、荒ハハキと呼んで祭祀をしていたのを目にした大彦は自らの勢力で新たに取り入れてシンボルとすることを決めました。
更に追撃を繰り返し受けた大彦やその子孫たちは一時的に落ち着いた地域に国を建てました。
アラハバキ国、日立国(常陸)、、、最終的に津軽に至り「日之本国」を建て、安東氏を名乗る。
各地の豪族の首長らによる合議制を採用して統治。
渡り島(北海道の古名)や樺太、千島の人々も日之本国に参画していたと言います。
津軽は首都の意味を込めて「日本中央」と呼ばれました。
後世、伊達政宗が日本(日ノ本)将軍といわれますが、そのベースは東北地方が日ノ本国だった記憶が有ったため。
クモ。は
敵対、反体制(自分たちからみて)側のヤカラを蔑んだ古代の用語。
ソコに「土」、、、土着、従前から根付いている。
の意味を重ね合わせたもの。
本州には津軽から上陸して、三内丸山(遺跡/後期)にしばらく居留した後に
本隊は日本海側を南下して出雲地方に至りますが、
途中、小さな集団が各地に分離拡散した歴史があり、いわば遠い身内が沢山居たと考えられます。
十三湊は日ノ本国の首都港湾として整備されて大変栄えて居たと言います。
十三湊は出雲王国から禁止されたトビ家(王家(天皇家も旧出雲王国トビ家の血筋(分家)))の音を採ってひねったもの。
富山/トヤマは外山(トビ)から?
鳥海山はトミ山の当て字。
伝承の日本史、これからどんどん拡散して行くんだろうね
元慶の乱の時に、秋田県北部は多分蝦夷が支配する地になった。
なぜなら、十和田湖火山の噴火の大被害が大和政権側に一切記録に残っていないからだ。
これはあまり研究されていないのだが、江戸時代から江戸時代から次第に洪水時に発掘されてきた。
出土品には日用具やら、鍛冶の道具やら(だから蝦夷は鉄を使うコトができたことが分かる)
漢字を書いた木簡(だから文字も使えた)やら、暦やら凡やら下駄やら不動尊像やらが出土している。
まだ埋まっている遺跡も多数あるだろう。この研究は江戸時代から続いていて、考古学、文献学、地学
など文系、理系の垣根を越えた多数の学問を合わせないといけない発展途上の学問だと思う。
東北地方の「ナイ」「ベツ」地名の分布(=アイヌ語話者)
https://livedoor.blogimg.jp/taptior/imgs/d/1/d128dbca.jpg
畿内型の古墳分布(=日本語話者)
https://www.nhk.or.jp/das/image/D0005310/D0005310011_00000_S_001.jpg
あっ!
椎結という髪型が分からないけど、文はタトゥーなんだよね?
こういう感じの見た目だったのかな?
https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/img/juho_kouko_image3_77.jpg
http://www.city-yuzawa.jp/up/files/yuzawashi/k-shogai/bunkazai/2085/0000007865001.jpg
https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/image/12114.jpg
真ん中のはシュモクザメを意識したデザインとの説ある
最後のは中国神話の蚩尤みたいだね
古代の人はみんな刺青してて土偶の紋様はその名残
いや君たち、先住アイヌをブチ○して、その地を奪い取った侵略者でしょ?
https://image.prntscr.com/image/MTkd9msPTC_Qa0ybcjlrWA.png
戦闘の痕跡が無いから
平和的に混血したと考えられてるぞ
そもそも現代日本人のほぼ全員に縄文人の遺伝子が流れてる時点で
現代人は弥生人の子孫でもあり縄文人の子孫でもあるからね
学問の本質から大外れ 恥ずかしくないのかよ 考古学・人類学者は
そういう愚痴は不毛
どうぞ研究して
どの蝦夷?少なくとも三種類いたけど
北海道もだっけ
山形秋田はまた別なんだよな
これが蝦夷の中心と考えていい
蝦夷にも色々いるけど、広義のアイヌを指してるならサツモン文化(なぜか変換されない)だからね
引用元: ・蝦夷の研究
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