【歴史】「隠し」キリシタンの里が大分に?藩ぐるみで見ぬふりしていた説
「隠れ」ならぬ「隠しキリシタン」の里があったとしたら。江戸時代に弾圧から「隠れた」のではなく藩ぐるみで「隠した」――。
謎めいたキリシタン遺物が多い大分県竹田市は、観光客を呼び込もうとそんな見立てをアピールしている。
江戸時代のキリシタンは、1612年の禁教令後も、隠れて信仰をつらぬいた長崎・平戸や熊本・天草が有名だ。
大分も実はキリシタンと縁深い。
豊後(大分)の大名だった大友宗麟は、宣教師フランシスコ・ザビエルと親交もあったキリシタン大名だった。
大分でキリシタン文化をしのばせる遺物が目立つのが、竹田市だ。
その一つが、市中心部近くの「キリシタン洞窟礼拝堂」(県指定史跡)。五角形の入り口の奥に祭壇のような彫り込みがある。
この場所は、地元岡藩の重臣、古田重治の屋敷のすぐ裏手となる。
日本のキリスト教史を欧州の学者がまとめた「日本切支丹(キリシタン)宗門史」は、禁教令後の1617年についての記述で、
神父フランシスコ・ブルドリノが豊後の洞窟に隠れていたと示唆。「殿の1人は、神父の居所を知りながら目を閉じていた」と記す。
「藩の重臣が洞窟に宣教師をかくまっていたということ」。
そう読み解くのは、市報で「ミステリアス! 竹田キリシタン」という、役所らしからぬ題名のコラムを4年間連載した市商工観光課の後藤篤美さん(56)だ。
「隠れ」ではなく「隠し」たというのだ。
謎はもう一つ。明治初期に市内に残っていた城を取り壊す際、高さ80・5センチの鐘が見つかったという。
表面に「HOSPITAL SANTIAGO 1612」(サンチャゴ病院)とあった。
「サンチャゴの鐘」と呼ばれ、国指定重要文化財になった。
江戸時代、長崎にあった病院の鐘と言われるが、なぜ大分にあるのかは不明だ。病院は1620年に取り壊されたとされる。
後藤さんは、その後に何らかの理由で鐘が大分にたどり着いたとみる。
そして「城内にあったのは、藩主がキリスト教を黙認していたから」と推測する。
また、1961年には、キリスト教の十二使徒の一人ヤコブとみられる像が城跡近くの草むらで見つかった。
竹田市では、とにかくキリシタン遺物と権力者の近さが目立つのだ。
そんな背景をひっくるめて、後藤さんは「藩をあげてキリシタンをかくまったと十分考えられる」と力を込める。
岡藩の初代藩主の中川秀成についても、「キリシタンに寛容だった」と付け加える。
専門家はどう見ているのだろう。服部英雄・九州大学名誉教授(歴史学)は「史料がなく積極的に『隠し』と言えない」。
ただ、「サンチャゴの鐘が見つかったことを考えると、江戸初期に藩がキリシタンを黙認していた可能性はある」と話す。
「隠し」説について、市は「謎に満ちた竹田のキリシタンを楽しむ考え方の一つ。夢とロマンを感じてほしい」との立場だ。
2012年からは、キリシタンを文化的観光資源にすることを検討。
市観光ツーリズム協会主催のツアーなどで後藤さんがガイドを務め、「隠し」説や地元のキリシタン遺物を紹介している。
今年10月には、地元のNPO法人とともに「竹田キリシタン研究所・資料館」を開設。
サンチャゴの鐘(レプリカ)など40点が並ぶ。
関東や海外からも来訪者があり、所長を務める後藤さんも「予想以上」と驚く人気ぶりだ。
「隠し」説はまだ推論の域を出ず、はっきりしない部分も多い。それでも、人を引きつける魅力があるのは確かなようだ。
朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASKCF4K1SKCFTPJB00G.html
>>1
>キリシタン遺物と権力者の近さが目立つ
たぶんそれは日本での布教はイエズス会が積極的に行っていたからだろう
イエズス会の布教傾向は在地の領主を改宗を促し、領主に流される領民を領主からの統治によってまるごと信徒に変える手っ取り早さと戦略性を重んじていたからです
それと、武器を領主に提示する事での南蛮貿易の魅力をもって在地へ受け容れさせるコンテンツとしていました。
武器商人としての見本市を即席で行っていたという事です。
事実、島津氏と竜造寺氏の内戦に密かに加担して、有馬氏に武器弾薬を送っています
そしてマラバール海岸で改宗させた砲兵を有馬氏の城に送り込んでいます。
つまり日本の内戦に介入していたという事です。
日本の戦国時代の開始と
トルデシリャス条約がほぼ同時で
宣教師が日本に来たのがサラゴサ条約とほぼ同時ってのは
偶然じゃないからね
>>1
その新名称は不勉強の極みである。 「隠れ」と「隠し」で、語彙を分別することは出来ない。
一般に、「隠れキリシタン」ではないかと疑われた秘宗の信者には、「隠し念仏」と「隠れ題目」も
あった。しかもこれを、「隠れ念仏」と「隠し題目」とも言ったのである。
東北の「隠し念仏」と、九州の「隠れ念仏」も、浄土真宗の異端派の秘宗という意味では同じで
ある。日奥上人が派祖の「日蓮宗不受不施派」も、「隠れ題目」とも、「隠し題目」とも言う。
近年枯れて折れた鎌倉の「公暁の隠れイチョウ」は、実朝を暗○しようとした別当公暁が、身を
「隠し」ていた樹木であるが、鉄道唱歌の「八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹(おお
いちょう)別当公暁の隠れしと 歴史にあるは此陰よ」という有名な歌詞にもあるように、「隠れ」
てもいたのである。
豊後の切支丹と言えば、大友宗麟の十字軍ですね
日向の国の異教徒を殲滅して寺社を焼き払い焦土の上に教会を建立しました
寛容を求め、他者を被害者から詰りますが、そういうことも併記しないと不公平です
>>3
その後、日向高城で圧倒的兵力をもってなお島津軍に惨敗w
大友滅亡の遠因となるww
と
ミステリー
最早隠れることも信仰の意味になってるんだとか
キリスト教の信仰が自由化されてもカトリックに戻らなかった人達をカタカナで“カクレキリシタン“と書く。
今の信徒にとっては、キリスト教だろうと他教だろうと全く責任など無い事ですので、もっと公平に教えるべきです
ちなみに、同時代の石山本願寺などの宗門も武装するわ、領主と同じように徴税はするは、徴兵はするわ、戦争はするわ、けして在地の宗門がキリスト教に比べて倫理的でも立派でもありませんでした
唯一違うという点は、大航海時代という世界植民地化と連動していたという事です
教皇子午線とは、ローマ教皇がイスパニアとポルトガルに対しいて世界を半分こにして支配して良いという認可です
事実、伊達にはイスパニア、九州にはポルトガル、きちんと子午線的世界山分け線を守っています
イスパニアとポルトガルにはそういう布教の護持者という立場も教会から付与されて立場を強化されても居ました。
奴隷貿易も行っていましたが、使いつぶして的な傾向があり、活かしながら売りさばくやり口はむしろ大英帝国の私拿捕船戦略で国家公認の海賊あがりの海軍があみだしたやり口でした
寛容で他者を暗に非難しますが全地球規模で莫大な量的展開を行っていたことにも触れられても良いと思いますね。
このおかげで宗教とはお上に押し付けられたものという意識が根付いて信仰心が希薄化した
ということで、日本はめでたく無宗教国家になったということだね
それをいうなら、中東ではイスラム教が強制されてるけど信仰が希薄になんてなってないから、
秀吉のせいにするのは無理がある。
>>9
日本人にはもともと、神道精神が沁みついてるから
特定の宗教というものに頼る傾向が少ないだけでは?
日本の信者は当時の欧州のキリスト教組織もまた封建領主である実態も、カイゼルのものはカイゼルへということもおそらく知らなかったでしょうし、
以前猖獗を極めていた魔女狩り火刑で1~2年のうちでも何百人も火刑にしていたりしていた市がごろごろしていたこともおそらく知らなかったでしょう
この辺の研究も欧州の学者の研究から明らかです
本来なら大手を切って普通に暮らせるべきですが、当時としては幕府にみとがめられてそれすら出来ないように成ってしまったら命が繋がってかなかったと思いますしね
「関東や海外からも来訪者」といっても竹田は滝廉太郎で有名な岡城跡と但馬屋くらいしか行くとこないから
ヒマな観光客は覗くでしょ
世界史と分断して日本じゃ圧政に抗う善人みたいになってるよね
秀吉のやったことは 村にある寺の檀家として全村民を宗派関係無く登録したんだよ
50人と火薬1樽の比率で交換され、奴隷としてマカオ、ゴア、ローマ、
遠くはアルゼンチンまで連れ去られた。
植民地獲得や奴隷売買にお墨付きを与えていたのがローマ教皇。
白人キリスト教徒にとって、有色人種は人間ではなかったのだ。
バテレン追放令を出した豊臣秀吉は、日本を守った英雄だったのだ。
戦国時代の日本の総人口が1000万人の時代に50万人が売られたんだよね
日本の総人口の約5%が売られた事になる 日本人が20人いたら1人が売られた
それも少女
日本から少女が激減したというね
遣欧少年使節団の誰か、あちらで路上で商品として丸裸で繋がれてタヒんだような顔してる日本人奴隷を見てキリスト教に絶望して棄教したってのいたよな…
その数字は初耳だな
ソースはどこ?
どれだけ輸送力が当時のガレオン船にあると思ってるんだ
もしかしてジェット機が就航していたとでもいうのか?
父、有馬晴信とともにキリシタンの直純
有馬家は農民にも慕われる素晴らしい家であった
しかし
晴信は岡本大八事件を起こし直純は父を処断するよう進言、父タヒ罪。
キリシタン禁止政策強くなる→領内のキリシタンを弾圧
さらに可愛がった8歳6歳キリシタン異母兄弟を○害
良心の呵責に苛まれ何もかも嫌になる
幕府に転封を申し出、日向延岡(宮崎)へ。
代わりに来たのが松倉氏、これがひどかった
島原の乱は御存知の通り。
温泉だけじゃアピール不足な大分県が
今後は「隠れキリシタン」で町おこし
をもくろもうという気持ちだけは
よーく伝わってきた。
ほぼ全ての泉質網羅して、 湧出量日本一、世界二位なら温泉だけで十分だろw
あとはオマケ
カルトテ◯リスト集団だった
大人しく信仰する集団ではなく、積極的に行動する武闘派だった
キリスト教が浸透しなくて幸いだった。
キリスト教なんて世界各地で布教活動とは名ばかり
結局、貿易結んで優位に搾取したいだけなんだから
>>27
おいおいどんだけ仏教が普及したと
思ってるんだ?
仏教の方が遥かにモダン。
でもジジババがうるさいんで
神道しゃんにも気を配るってのが
神仏習合w
領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課して、年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から
妻や娘を人質に取るようになった
人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼タヒする姿を「蓑踊り」と呼んでいた事が記録を残っている
その悪政で結果的に領民は全滅覚悟の島原の乱となった
当時のアジア・アフリカの植民地侵略状況は原住民にキリスト教信者を増やした時点で
スペイン軍と国内信者が内外呼応して蜂起し国を乗っ取る方式。
「神の国」を作るためと言われれば、信者は罪の意識なく同胞の○戮を行うし
喜んでタヒんでいった。悪いのはキリスト教という優れたコンテンツを侵略に利用した西洋人。イエスもこんなことに悪用されるとは思ってもいなかっただろう。
可哀想なのは信仰に目覚めた信者だが、レコンキスタのときのイスラム教徒に対するキリスト教徒による迫害の方がはるかに苛烈だった。
この禁教政策があったから、徳川三百年の太平の世が実現できた。
中川久清公、豊臣秀頼遺児の説. 豊後国、現在の大分県に、設立以来幕末まで改易すること無く続いた岡藩あり。
その岡藩の中興の祖とされる、入山公こと「中川久清公」。
その久清公が、豊臣秀頼が側室に産ませた子供だという説。
その側室はキリシタン勢力があてがった異人であったという説。
指図で突如、北摂山間の隠れ家から引き出されて中川久盛の継嗣と成った経緯が在る。
巨大な目、高い鼻、髭で隠した細い顎に日本人離れした母親の特徴を引き継いでいる。
・
岡藩は禁教鎖国下に於いても頑なに「クリスチャン」紋章を掲げ続けたが、「中川クルス」は
1555年イタリアで宿敵フィレンツェに滅ぼされた「シエナ共和国」の紋章である。
そして藩主を推戴する南蛮家臣団も数多くの切支丹紋章を今に伝えた。
・
城下町を城壁のように取り巻く岩壁には数多の五角形洞窟が掘られたのだが、
其れだけではない。マテーラ洞窟住居そっくり洞窟も存在する。
そして洞奥に刻まれていた“有翼神像”はプリミティブなアフリカ風にも観えるのだ。
・
13世紀の彫刻様式で地中海砂岩に彫られた「ヤコブ石頭」がどうして岡城二の丸下に
埋もれていたのか?
・・・明治5年「Santiago Hospital 1612」と鋳込まれた鐘は言い伝え通り“観音堂”の床下
から発見された。
・
6年後「津久丸」は豊後岡藩・中川久盛の継嗣に迎えられ、二人の護役も召し抱えられて引き続き守役に化けた。
・
さて”五兵衛”は後に自らも含めて「村井右京太夫家」を空にすると件の若武者に家を譲った。日本一の武門に家贈るは誉以外の何物でも無かったのだ。若武者は「六兵衛」と名乗り、家紋を「三っ瓢箪」に替えた・・・”三っ瓢箪に六文銭を封じた”と伝わっている。
・
”六兵衛”は叔父・真田信之と同様の長寿を全うし”十川”に葬られた。正覚寺の過去帳に名が遺っている~六文銭の兵衛と!
・
何時の頃か判らねど、中尾八幡周辺に”真田姓の邑”が現れ、今日に至るまで邑人は殊の外「幸」の字に執心である。そして社境内の石柱・石碑には数多の「真田〇幸」が刻まれているのだ
ほんものであれば、インドから日本までの港の宗教施設で必ず仏教&キリスト教の接点がある
嘘つき半島人にとって本当に西側のことを知っている宣教師やキリスト教徒の事が邪魔だっただけ
やはり宗教弾圧というのは日本人の気風に合わないようだな。
おらといっしょに
ぱらいそさいくだ
海外に売る場合にそっち系の人間が絡んだってだけで
奴隷売買が悪というのは、公平とか人権とかいう概念発生以降の話だろ。
引用元: https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1512330026/
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