2世紀から3世紀の日本列島に、倭国の女王・卑弥呼(ひみこ)が住む邪馬台国(やまたいこく)があった。その最盛期は、ちょうど三国時代と重なる。卑弥呼は、曹操や劉備たち三国志の英雄とほぼ同時代を生きた人物だった。
238~239年に卑弥呼は魏へ朝貢した。それ以後、魏と倭の間に使者が往来し、卑弥呼には「親魏倭王」の印綬や、「黄幢」(こうどう)という旗印が贈られ、魏の後ろ盾を得るなど、浅からぬつながりを持った。
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229年、孫権は帝位につき、呉の皇帝となった。魏と蜀に遅れること8年から9年後である。翌230年、孫権は将軍の衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)に武装兵1万を与え、東の海に船出させた。史書によると、皇帝になった孫権が真っ先に実行したことがこれだ。
その目的は、夷州(いしゅう)、亶州(たんしゅう)の探索である。陸遜伝によれば、孫権はこれらを占領したいと考えていたという。結局、諸葛直たちは1年あまり海上をさまよったが、ついに亶州は発見できず、夷州から数千の住民をさらって帰ってきただけ。それと引き換えに疫病で八千人以上もの兵を失っていた。※陸遜伝・全琮伝には亶州ではなく珠崖(海南島)との表記がある。
亶州を発見できなかったという罪で、孫権は両名を獄に入れて処刑した。が、ひどく後悔したという。出発前、陸遜(りくそん)と全琮(ぜんそう)が派兵に反対していたからだ。「いま遠絶の地を得る必要があるとは思えません。慣れない風土で兵は疫病にかかるし、そこの住民を連れ帰ってきたって役に立ちませんよ」と・・・。はたして、その通りの結果になった。
そもそも、夷州・亶州とはどこだったのか。これには諸説あるが、夷州は台湾、亶州は倭(日本列島)の何処かとみられる。沖縄や種子島という説もあるが、ここでは亶州=日本の九州などにあったとする前提で進めたい。
孫権の目的は何だったのか。呉主伝で述べられるように「亶州は東の海中に在る」ことは、古くから知られていた。三国時代より400年ほど前、秦の始皇帝が方士の徐福(じょふく)を東へ遣わし、蓬莱(ほうらい)の神山と仙薬(不老長生の薬)を求めさせた。
しかし、徐福は蓬莱の地にとどまったまま帰らず。そのことは『史記』に記され、広く知られていた。また後漢のはじめ、西暦57年には朝貢してきた倭王に対し、光武帝が「漢委奴國王」(かんのわのなこくおう)の金印を贈っていたことも史実としてあった。蓬莱(亶州)の民とおぼしき人が会稽(呉)の海岸に流れ着いたり、逆に呉の人民が亶州へ流れついたりすることが、幾度かあったという。
呉帝となった孫権が「よし、おれが見つけてやろう」と思っても不思議はない。このとき孫権も齢49。ちょうど始皇帝の没年(50歳)を迎えるころで、寿命が気がかりだったろう。武装兵を派遣したのも、民が抵抗すれば武力行使も辞さぬ覚悟と将軍たちに言い含めたかもしれない。
しかし計画は失敗。それでも孫権はへこたれない。「東がダメなら」と、北方の遼東を支配する公孫淵(こうそんえん)に使者を送り、服属を迫った。さらに、呂岱(りょたい)に命じて交州を平定させる。すると南のカンボジア・ベトナム地方の勢力(扶南・林邑 ・堂明)が、貢ぎ物を献上してきた。
公孫淵の取り込みは失敗に終わるも、孫権は遼東・朝鮮半島へと勢力を拡大する姿勢を見せていた。並々ならぬ領土的野心は、やはり三国の一角を統べた主にふさわしい。亶州(倭国)の所在がハッキリしていたなら、さらに兵を遣って支配も望んだのではなかろうか。征服はせずとも朝貢を受ければ魏への対抗手段にもなったと思える。
なお、呉の記録に「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在が出てこないのは、その呼び方があくまで魏側の記録によるものだからだろう。呉の史官や孫権が、それらの存在をどこまで知りえたかは闇の中である。
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ところで、現在の日本に呉とのつながりを思わせるものがあることをご存じだろうか。それは安倉高塚古墳(兵庫県宝塚市)の石室から出土した銅鏡。その鏡に「赤烏七年(244)」という呉の年号を示す銘がある。
卑弥呼が魏に遣使したのは魏の「景初3年」(239)で、ほぼ同時代。孫権の存命中でもあり、やはり呉も倭に存在した国々のどこか(邪馬台国ではない)と接触していたのかもしれない。(以下ソース)
2/25(火) 16:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a51189ebd421b2b10b1501d5053e07e39c34290
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20250225-00042024-rekishin-000-1-view.jpg
★1:2025/03/01(土) 07:41:54.22
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1740866854/
邪馬台国とは何だったか、当時の中華との関係を考えればスッキリする
魏は朝貢にきた国々にたいして上から目線だったけど
2つの国だけは優遇して「親魏」の金印を与えたし、朝貢のきっかけを作った者は出世している
ひとつは大月氏国
この国と同盟関係になると蜀を牽制するのに有利だった
もうひとつこそが邪馬台国
呉の背後にある大国だと認識されていた可能性大
そして邪馬台国が朝貢するきっかけを作ったのが司馬懿だった
出世した司馬懿はのちにクーデターを起こして魏は晋へと変わる
司馬懿は晋の皇室の祖であるから、魏志倭人伝をまとめた陳寿は大月氏国より邪馬台国のほうが素晴らしいと忖度しまくった
しかし、晋は中華を統一したため大月氏国や邪馬台国を優遇する理由がなくなる
邪馬台国の女王壹与は魏の後ろ盾のおかげで即位できたが、その後は…
この流れで
>>1を読みなおしてみよう
邪馬台国なんてないよんなもん
卑弥呼没 248年
台与魏遣使 266年
第一次神武呉寇 台与没 269年
中国呉崩壊 280年
第二次神武呉寇 281~283年
神武九州王朝 呉機織り女工移民開始 283年~
神武東征 葛城土蜘蛛殲滅 301年~302年
古代ヤマト王朝滅亡 神武即位 大和平野に大和朝廷誕生 305年
継体天皇 450年 < 入れ替わり完了
雄略天皇南朝宋遣使 478年 < 入れ替わり外交措置完了
日本爆誕!
壹与の代で滅ぼされたか
分裂しちゃったか
台与が戦タヒか知らんが、九州の土蜘蛛女王塚あるな(;^_^A
邪馬台国の残党は後の熊襲じゃないかなぁ
応神の頃に呉から機織りの四姉妹を連れてきたっていう
伝承があるようだ。つまり新しい技術で織った布を使った
服を呉服と呼んだと思われる。
ちなみに「呉」を「くれ」と読むのは、この時にやってきた
四姉妹の長女が「呉服(くれは)」という名前だったとも、
呉までの案内を頼んだ人が「クレハ」だったからとも言われて
いるらしい。
そうして広島県呉市は「くれ」という言葉が由来で、その
「くれ」に「呉」という漢字を当てたということのようです。
中学ぐらいで三国志に触れて劉備だの孔明だの覚えて楽しんでて
ふと、曹操の魏と邪馬台国の魏志倭人伝の魏は同じなのって気が付いた時の日本側の文明の遅れのもやもや感は何と言えばいいんだろうね
そして高校でポンペイ遺跡を知ってトドメを刺されるw
紀元前後と三世紀だもんな
逆は大変だが
戦乱期にはボートピープルになった呉越あたりの亡命者が相当数日本列島に流れ着いたと思われる
ボケっと流されるってどれくらいの日数がかかるの?
その間、水も飲まないの?
赤壁の戦いが208年で呉寇らしきものより80年近く前の造船技術でアレだし
黄海経て半島で物資援助あったら九州にいっぱいコレそだしw
高句麗の首都はおそらく今の北朝鮮との国境(集安市)あたり
みたいだから、孫権の使者は大陸沿岸を北上して山東半島から
大連にわたったんだろうかね?
大連経由する必要ないじゃん
山東半島から半島は目で見える範囲だから
海を越えて倭を攻めるとか考えにくい
結構好戦的やが魏がおるから迂闊に動けんってだけ
合肥落とそうとして何度も撃退されてるぞ
公孫淵と結んだりしてる公孫淵に騙されたけど結局w
つまり神話は神話
元になった出来事があったとしても支配者が権威づけに作り出したものには変わりない
よく言われるのが神武天皇の畿内の上陸地点である白方の津
今の東大阪とか枚方とか言われてるんだが日本書紀が書かれた8世紀ではすでに内陸だから河内が海だった頃からの伝説があると言われてる
呉魏が九州の島を南北に分けて代理戦争
筑紫国、肥の国にそれぞれ勢力を張っていた伊都国、好古都国を支配下におさめた邪馬台国は
呉と修好し、あるいは呉人のアドバイザーもいたかもしれません。
238年、公孫淵が滅ぼされたタイミングでさっと魏使を送っているところから見ても
卑弥呼、あるいは伊支馬とその側近たちは東アジア情勢に明るく、外交も俊敏に行っています。
あるいはこのときに邪馬台国に居た呉人(スパイも含めて)たちは卑弥呼、あるいは伊支馬の命で処刑されたのかもしれません。
ここを通して太平洋側の海洋交易が行われてた
大和に貝環とか伝えたルートがこれ
インドネシア系海人族の公益相手が呉だった
そもそも実在したかどうかも分からないだろ
中国に関しては実在してるんだわ
中国の歴史が神話に近くなるのはもっとずっと前の話
夏王朝とかそのへんで最近は夏王朝があったって証拠も出て来たとか来ないとか
司馬遷の「史記」が書かれたのが紀元前90年頃と言われていて、
つまりその頃から記録が残っているっていうことだからな。
もうこの辺の時代は伝説時代もクソもない特に古い時代でもなくて、数百年続いた漢の大帝国の後の時代で
ヨーロッパに目を向けりゃじゃもう(西)ローマ帝国も終わりかけの時代で
カテゴリ言ったら古代終わって中世入りかけ位の時代だぞ。
遺跡しか無い日本じゃないんだから流石にしっかり色々残っとるよ。
日本は文字として残してないから文献がなく不明なことが多くて感覚的には原始時代っぽく思えるけど
大陸の方は>>421の通りだよ
四百年続いた漢帝国でさえ滅びかけ
呂不韋が潰した周でさえ800年続いてる
大陸が日本の存在に気づいてないわけないじゃん
肥沃で殖産可能な地が目の前にあるのに
未知といっていい外部に大規模な軍事国力を振り分けるメリットがあるんすかね…
今の中国も
内政がボロボロなのに外国にちょっかいかけてばっかりやん
今から3千年前というと倭人が遼東あたりにいた頃だろうか
南からは越裳が白雉を献じ、北からは倭人が香草を献じてきたという趣旨の記述かもしれない
同時代の魏の数学者は当時で一番正確な円周率を導き出している
魏がいたから対馬海峡を渡ることが可能だった
呉にそんな操舵能力があったのだろうか
おそらくない
呉はハノイまで南進してるんだけど
途中の海南島はスルーしてるんだよね
やや遅れて制覇するんだけど
川下流部と低湿地帯と入江の戦闘は強かったんだろうけど
後に大陸と決別したらぶちぎれるくらいには
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1741044452/

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