【歴史】邪馬台国、畿内説の現在…日本初の都市? 纒向遺跡の遺構
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中国の歴史書『三国志』に登場する倭の女王、卑弥呼。そして、卑弥呼が暮らした邪馬台国は日本の古代史最大の関心事と言える。邪馬台国の所在地は、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡を有力候補とする「畿内説」と、北部九州を想定した「九州説」の立場で、考古学や文献史学の研究者や、民間の歴史愛好家による論争が続いている。今回は主に畿内説の現在の状況と、展望や課題を考えたい。
8日、明治大(東京都千代田区)で日本考古学協会が主催する公開シンポジウム「考古学が解明する邪馬台国の時代」が開催され、会場には265人が集まり、オンラインでは387人が参加した。登壇したのは、いずれも日本を代表する考古学者6人で、所在地をテーマにした内容ではなかったものの、九州説を前提とした意見が示されることはなく、畿内説をベースに議論が交わされた。
シンポジウムでは纒向遺跡の調査に長年にわたって携わる桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長が「纒向王権と邪馬台国論」と題して、桜井市に所在する巨大前方後円墳「桜井茶臼山古墳」(全長204メートル)の再発掘調査や出土品の詳細な分析を行った奈良県立橿原考古学研究所の岡林孝作学術アドバイザーが「『邪馬台国の時代』と古墳~権力基盤継承の観点から~」をテーマに、それぞれ講演した。
纒向遺跡は3世紀初めに突如として出現し、4世紀初めまで営まれた大規模集落遺跡だ。寺沢さんによると水田などが発見されておらず農業的な色彩は薄く、計画的に造営された日本初の「都市遺跡」だという。そうした状況を象徴するような遺構が2009年に見つかった。
JR巻向駅西側の微高地で、卑弥呼の時代と一致する3世紀前半の大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)が発見された。大型建物跡は塀か柵で囲われており、他に見つかった建物跡と東西一直線に配置されている。周辺で同時代の遺構は確認されておらず、寺沢さんは神聖な空間だった可能性が高いと見ている。また、纒向遺跡の特徴としてよく紹介されるのが外部から搬入された土器の割合が高いことだ。その範囲は九州から関東に及び、人と物の往来が盛んな都市的な様相が浮かぶ。
ただし、纒向遺跡の範囲は南北約1・5キロ、東西約2キロに及び、1970年代に始まった発掘調査は遺跡範囲の約2%しか終えておらず、実態は判明しきっていない。
畿内説を裏付けるものとして、纒向遺跡の区域内にある巨大前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」(全長280メートル)の存在が大きい。国立歴史民俗博物館は09年、箸墓古墳や周辺から採集された土器に付着した炭化物から年代を測定する「放射性炭素年代測定」で、箸墓古墳の築造年代を従来の定説より古い240~260年代と発表した。卑弥呼が亡くなったとされる248年に近く、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。
(省略)
ただし残る4基の箸墓古墳、西殿塚古墳、行燈山(あんどんやま)古墳、渋谷向山古墳は宮内庁が陵墓として管理しており、立ち入りが厳しく制限され、学術目的であっても発掘調査が行えず、邪馬台国の時代と古代国家成立の解明を阻んでいる状況にある。(以下ソース)
2024/9/15
https://mainichi.jp/articles/20240915/ddm/014/040/006000c?inb=ra
田原本町の唐子・鍵遺跡では銅鐸の鋳型まで見つかってる
そして廃絶の後初瀬川上流5キロの地点に、近畿坊の大好きな纏向が突如出現する これは無関係ではあるまい?関西人を馬逐じゃなく、古墳労働者としてこきつかって箸墓遺跡を作ったのでは?
まだ畿内説言ってんのか?
周りが敵国の中、九州で船を降りて貢ぎ物を持って近畿地方まで歩いていく合理的説明をしろ
古代人は知識は無かったがバ○じゃない
邪馬台国が近畿にあったら九州まで来た船でそのまま日本海を北上し舞鶴あたりで上陸する
少しでもリスク回避するのは今も昔も変わらない
広域連合国家だから敵国ばかりじゃないだほ
広域連合国家が存在していたとして敵国の中を歩いてこなければならないのは確かだろ
それとも九州から近畿に歩く道は都合よく全て広域連合国家か?
問題はそんなことよりも
大和から北九州まで配下に治めた強大な邪馬台国が苦戦する狗奴国とは一体どこにあるかということ
四道将軍より範囲広いのに一体どこにそんな強敵がいるのかと
しかも負けてるし卑弥呼タヒんでるし
俺の予想では邪馬台国は今の熊本県のトンカラリン遺跡がある場所
ここはシャーマンが呪術を行っていた跡がある
支配階級だった女性の骨も出ている
近くには江田船山古墳があり、ここは日本最古の漢字が書かれた出土し国宝になっている
狗奴国は筑後平野一帯を支配していた巨大国家
だから邪馬台国への使者は九州に上陸してた後、普通に考えて陸路で邪馬台国に向かうはずだが、敵対している狗奴国を避けるために有明海を水行している
南北逆は珍しい
九州が畿内を戦争で滅ぼしたのは邪馬台国が出来て大分後だと思う
吉野ヶ里は非常にすぐれた弥生時代中期の遺跡
弥生時代後期は各地域、各集落は分業体制でネットワークで結びついていた
木製品の松江の西川津遺跡、唐古・鍵遺跡、鉄製品の淡路島のゴッサカイト遺跡、彦根の稲部遺跡、石器石包丁製造の池上曽根遺跡、稲作の登呂遺跡などなど。卑弥呼の時代より前の話だが
東・狗奴国連合→前方後方墳
それはもう無理なんです
巻向の古墳の建設に東海が参加してる事が考古学的にわかったから
纒向遺跡作った人が東海と交易していただけの話
むしろ世間であふれかえってる珍説さん達の妄想がまともな話を妨害してるw
九州のどっかやなって認識だろ
弥生時代中期~末期の九州に魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の人口が住める土地とその人口を養える水田を確保できる土地はないしそれだけの規模の遺跡は見つかっていない
関西は弥生時代中期~末期には大規模集落や水田がそこらじゅうにあり人や物の行き来も頻繁でやたら反映していた
その人口は正しいのか?使者が実際に移動した距離は誤魔化しようがない
でも戸数は現地人の言葉を鵜呑みにしたのではなく数えたのか?
おそらく実際に見たであろう対馬~伊都はわりと生々しい数字だし
そのハッタリかもしれないっつー数字も大阪や奈良なら達成できるくらいの遺跡が見つかってるからな
当時はどっちも水没してるのにどうやって見つかったんだよw
発掘が進むほど卑弥呼の時代との乖離が進むという矛盾を抱えている
いい加減卑弥呼と邪馬台国から離れて冷静に判断するべき
せんとくん前面に推し進めても観光客は逃げ出すしなw
卑弥呼に代わるカリスマキャラが必要!
せんとくんはあれでも大人気だったんだぜ
今は鹿まろとかいうキモキャラにその座を奪われたが
でかい国作れる土地あったの?
湖というより何本も流れる川の周りが湿地になっている感じかな。
当然少しだけ土地が高ければ人は住めるし、湿地を使って稲作もできる。
まあ同じことが九州の筑紫平野や福岡平野にも言えるんだけど。
残っていなくて、本当に古代に奈良が湖水になるほど堰き止められたこと
があるかどうかも定かではないんだよね。
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1726671191/
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