源義経や頼朝の祖父である源為義についてトンデモナイ事実を知ってしまった…
それ以外は八男を除けば全て長男義朝に○されたンゴ…
ついでに自分も○されたンゴ…
長男…家来に裏切られ○される
次男…長男の命を受けた長男の長男に○される
三男…長男の三男に○される
四男…長男に○される
五男…長男に○される
六男…長男に○される
七男…長男に○される
八男…唯一生き延びるも島で追討を受け自害
九男…長男に○される
十男…長男の三男に○される
十一男…長男に○される
十二男…長男に○される
十三男…長男に○される
十四男…長男に○される
鎮西に追放された八男為朝も同様
本来なら次男義賢が後継者候補で、そのまま行けば嫡流は義仲の兄である仲家になる筈だった
頼朝が嫡流だというのは後からこじつけられただけ
実際長男が後継者という概念はこの時代まだ存在しない
同じ平氏は仲良しなのに
保元物語でしか見たことない
今から源姓にするのは不可能だから名前改名して源次にするか
日本人は濁点がある三文字をカッコいいと感じるらしい
逆に平氏のように「へ」から始まる言葉を嫌うとか
※江戸時代の火消し組もいろは別にチームが分かれてたけど「へ組」はかっこ悪いと言うので取り除かれた
よくよく勉強してみると平家の団結ぶりは凄いんだけどねー
平家同士が戦ったわけだから平氏が団結力あったというのはちょっとちがう。
ちょっと違う
確かに頼朝の元に集まった関東武士はほとんどが「平氏」の出だけど、平氏自体はその後も脈々といきのこってるし、壇ノ浦で沈んだのはみな「平家」
ここでいう平家とは伊勢平氏の清盛の家系の事ね
平家は清盛の元で団結してる
親父の代から仲悪かった叔父とその息子が保元の乱で敵対したくらい
平家嫌いの平家なんかいくらでもいるよ。
所謂「平家」と呼ばれる清盛直系の家系
義朝に言われた家来が赴いて「久々にパパに会えるらしいからみんなで来いってさ!」と連れて行かれ船岡山で斬られた
まだ幼いから「義朝にいちゃんに取り合ってくれよ!」って泣いて喚いたらしいが当の義朝の命令だし聞き入れられずそのまま文字通りパパの所に送られたと
身内同士で何ごともなかった松平家徳川家はそれ自体が源氏詐称を証明してる。
徳川がもし正統派源氏ならば、江戸時代を通じて内紛が起こしていなければならない。
敵の子供を助けた清盛とは人間の器が違う
まぁそれが命取りになった訳だが
しかし義朝に○されるのを怖れた母親が子供を実家に匿い別の父親の子として育てるため義朝はそれを知らない。
>>20
義朝が自分の子供を○そうとしたってこと?
悪源太義平が生きてたとしても義経同様に頼朝に使い捨てにされて○されそうだなー
子の貞盛は藤原秀郷とともに将門を討った。
義朝って調べれば調べるほどDQNだよなぁ
裏切った長田忠致の最後もどこまで本当なのかな
身の終わりと美濃尾張で話が出来すぎてる気がする
その四人は実在かどうか。
保元物語にしか出てこないし、作品の特性上、源氏の悲劇を強調するための創作の可能性がある。
ありがとう
保元物語にしか出てこないんだ
4人にそれぞれいた乳父がその場で悲しみのあまり皆後を追ったとか、いかにも創作臭いなとは思ってた
その乳父の1人の家族筋に義朝の妾もいて夜叉姫が産まれたとされるけどこの人も実在が怪しいし義朝タヒ後にやっぱり後を追ってるんだよね
義賢が頼長とアッー!だったのは有名だが
頼朝も後白河院とアッー!だったらしいな
義朝が出世の為に子供を捧げたとかw
頼朝の子作りが遅れたのは幼年期に掘られまくった反動で長い間性的不能だったからだという説を見たことがある
平家は清盛直系やその近親者、平氏は平家以外の平氏
現実にはどっちなんだろう。
鎮西に追い出された為朝
後継者とされた義賢
これをしてフィクションと決めつけるのは早計だけど俺はフィクションだと思ってる。
『保元物語』の成立は乱の六十数年後だからいろんな話が紛れ込んでも不思議ではないし。
頼朝と対立した叔父さん二人を保護して、代わりに自分の長男を人質に預けてるからね
旗揚げも頼朝が行ったのを見届けてからだし、何気に頼朝にはかなり気を使ってる
義仲は最後平家と手を結んで頼朝と戦おうとした説があるよね
誰やw
いや誰かはわかってるんだが正直どうでもいいお方なんで
それが平安時代
自分の身は自分で守らないと○される時代だぞ
あと寺社でも当たり前のようにあった
日記に残ってるから困るw
あの時代って、基本身分高いほうがタチだよね?
それなのに義賢はタチに回ったの?
受けに回るのは初めてだったが意外と良かったって悪左府さんが言ってた
義賢の母の六条大夫重俊女は姓が不明
ただし義朝が若年期に都での出世を諦め無位無官で関東に下ったのに対して
義賢とその同母弟義広とともに都で官職を受けているのは
母親の身分が良かったためと言われている
義賢は藤原頼長の男色の相手として愛された
父親も幼い弟も容赦なく○すとは
なんとか逃がせなかったのかね
生かしておいたら源頼朝が鎌倉幕府を開けていないんじゃね
頼朝も父親に倣って弟やら従弟やら○してるし
父親や五人の弟たちに関しては義朝の当時の立場を考えれば助命は無理だろう
日本の歴史上、親、弟、子を○した奴って中々いないんじゃない
朝長は落武者狩りで負傷しタヒ亡、が普通の見方だろ。
もし自分の手にかけたことにこだわるなら義朝は父も弟たちも○していない。
平治の乱で敗れた義朝はとにかく自分一人は助かるべく東国まで猛スピードで逃げた
14歳と若年であった源頼朝は父から遅れてしまったが義朝はそんな息子を見捨て
頼朝は平家に生け捕りにされている(池禅尼によって助命)
朝長は逃亡途上で負傷し、父義朝の足手まといになった
義朝は頼朝同様見捨てて逃亡しようとするが朝長は年長な分
平家に生け捕りにされれば○される可能性が高い
平家に処刑されるくらいならと父義朝に見捨てていくなら○せと言い
義朝は○して逃げたというあたり
やったのは部下たちだ。
義経を○したのは藤原泰衡。
清盛の叔父○害も同様
>>132
保元物語と平治物語にのみ出てくるんだっけ?
頼賢以下乱に参加して処刑された五人の弟は鳥羽法皇の喪が明けていないという理由からタヒ体も船岡山で放ったらかしにされたんだよね
それなら初めからタヒ刑判決にすんなよと
悪源太が信頼(のぶより)に意見して「官位はいらん、俺は悪源太で十分だ」なんていった話を含め、
相当の武勇伝じみたエピソードがないことに気づく。
その角川の平治物語ですら史実にかなりの脚色が施されているというのも事実。
学術書で保元平治の乱を読んでみるとそっけなくてガッカリするで。
講談だから似たような話になったんだろう。
元々DQN素質があったのかな
>>143
生まれた時から源氏の御曹司としてチヤホヤされ、
暇な時間は武芸の稽古
傲慢で乱暴な性格になる奴も多いだろう
美化されてるだけで、義平、義仲、義経なんかも多分にその傾向があったと思う
まがりなりにも貴族(藤原摂関家)の番犬なんだし、帝王学みたいなのは身につけないのかな。
それでも周りの家臣どもは生まれた時からぺこぺこチヤホヤするやん
平氏=千住一族
戦で大暴れした為朝が流罪で済んだ矛盾
でもこれ普通に疑問
そしたらなんで行家や惟義らは生き残れたの?ってなるし
たまたま京にいたからというのもなんかなぁ…
別に矛盾ではないでしょ
為朝が捕まったのは合戦から日数が経った頃
合戦を引き起こした主犯でも何でもない
平時だから明法家が先例を調べて流罪を決定
島流しにした方が安全
保元物語の史実と相違点を述べた点にもこの子供四人の実在を疑うことは書いてなかった
十男の行家は幼かったから○されなかった、という説があるくらいだから、
実際に四人の幼子はいなかったか、実は行家は十四男だったという説。
でもこの分野の第一人者たる日下力さんは四人について「未詳」と書いているくらいだから、
史料では確認できないんだろう。つまり実在ではなかったとするのが自然だ。
何それくわしく
全然出てこないんだ?
その説面白いね
まぁ実際十郎呼びされてるし、万が一、十四男なら頼朝のほうが歳上になってしまう
老獪で無能な疫病神の中年というイメージが崩れるなw
実際のところは行家と頼朝って同年代なんだろうな。
もし実在しない四人の幼子より年下なら義経と同年代になってしまうw
ありがとう
そもそもが「天王」なんて恐れ多い名前幼名につけるもんかね
夜叉丸だの鬼武者だのつける一族にこれ言っても始まらんが
為義の出自をみれば、頼朝の家は全然、河内源氏の嫡流ではなかった。
頼朝の家が河内源氏の中で特別になったのは、義朝のおかげ。
義親の子供だったという説の場合、
兄が3人もいて、
しかも、その兄たちが正室の子どもな上に、官位もその兄たちのほうが上だった。
為義の母の出自は不詳である。
義家の子供だったという説の場合、
兄が4人もいて、
しかも、東国武士団の中でライバルだった義国(新田・足利の祖先)のほうが同母兄だった。
義國は京で不祥事起こして北関東に蟄居
義国と為義が同母兄弟のソースは?
『尊卑分脈』
為義の母の項目には「同義国、中宮亮有綱女」とある
>>189
義国は京で不祥事を起こしたから上野に追放になったんでしょ。
為義は義家の子だと思うけどなあ。
朝敵の義親の子をわざわざ跡継ぎにしないでしょ。
消去法で妥当なのが為義しか残っていなかった。
実際は物凄く険悪だったみたいだし疑問
何気なく日本史板の何かを読もうと思って
なんとなく興味を引いたのでこのスレを読んでみたら
源氏が悪鬼羅刹の巣窟だと知って衝撃を受けた
そして頼朝が義経を追いつめた理由がなんとなくわかった
親族コロし上等の世にあっては
人気のある身内は明確な敵だったわけか
保元物語の兄弟の話は漢籍に元ネタでもあって付け加えたのではないかとふと思った
といっても元ネタがあるならここの諸兄が知らん訳ないか
家臣連中もわりと気軽に担ぎ手=自分ちの家長ごと神輿を変えるから対抗馬になりそうな神輿は潰しとかないと命が危ないからね
例えば戦国時代だと、信長秀吉家康信玄元就、、、みんな近親者で争ってるよな
義賢は東国へ行く時何故自分の長子の仲家を連れて行かなかったのか?
何故頼政などに預けたのだ?
もしかして東国への下向を命ぜられた時点で「自分は実質廃嫡されたもの」と悟っていた?
その頃には頼賢が後継者候補になってたみたい
罪を犯した部下の為に出世が頓挫する不幸っぷりは父親譲りだな
ところで義賢は普段部下と交わる時はタチばかりだったせいか頼長に求められてもウケには回れなかったのかね
このころの武士はみんな男色やってたのかな
この頃ならどっちかといえば貴族の文化だよ
むしろ保元物語での創作部分は為朝関係のエピソードかと
波多野自身がそう言っている文献があるなら可としよう。
しかし「波多野が離れた→きっと四人のガキを○害させたからだ」だったら宮下がおかしい。
宮下のことググッてみたら歴史研究家じゃないんだね。
たぶん保元物語を史実だと思い込んでいるタイプ。
よって四人はやっぱりフィクションだと決定。
文句があるなら『兵範記』から四人の記述を探して来い。
実際は合戦というほどのものでもなく、テロ集団が集まっているところに一斉検挙に及んだようなもの
頼長含め有名どころは5人ほどしかタヒんでないのもその証拠
本当なら志田義広はそもそも保元の乱に参加してたのかどうかも怪しいがなんで免れたのかも不明だしね
為義は子供と部下のために不遇だったと思う
それ以上に東国武士をそれなりにまとめあげて結果的に頼朝挙兵時の即戦力にしたのが大きい
清盛の誤算は頼朝を生かした事よりも伊豆に流したことなんだよな
佐渡や淡路のような海に隔てられた島に追いやってしまえばさすがに何も出来なかったろう。
それが無理だったとしても、少なくとも平家のホームグラウンドである西国なら良かった。
配流先が伊豆になったのは、頼政の差し金もあったらしいな。
貴重な源氏の生き残りとして、いつか自分の手駒として使えるやもしれぬという布石みたいな。
実際は頼政の方が打倒平家の先兵として真っ先にタヒぬ結果になったがw
伊豆は頼政の知行領地だしな
源氏の長老として責任持って預かってたんだろう
淡路とか京に近いし抜け出しやすいし
平安末期の流刑地に淡路とかないだろ
史実ではあちこちから喧嘩売られまくりで対応も優しいというより甘いよね
為義父ちゃんは頼賢を可愛がってたんだよね
どちらも藤原氏で、例えば清華家や殿上家くらい離れてるとかでもないし。
義朝の正室も藤姓熱田大宮司家だし、そんなに悪くはないよね。
義朝は「長子である自分こそ源氏の棟梁になるべき」とばかりに、
義賢を○させてまで半ば強引に棟梁になったのに、
自分の子に関しては端から長子相続とは考えていない辺りが矛盾してる。
義平の事は武勇こそ買っていたけど自分の後継者とは見ていなかったからな。
けど自分が弟を○したように、将来義平が頼朝を○して棟梁の座を乗っ取る可能性もあった訳だし。
>>268
長子が跡を継ぐなんて概念はこの時代ないよ
基本は母親の実家の格で決まるし、それすら父親の一言で覆ったりする
義平が生き残ってたとしても義経同様に頼朝に戦でこき使われた挙げ句消されるか、
行家のように従わずに飛び出して追い詰められて消されるか、
義仲や志田義広のように独自路線を取りつつも最後は敵対した消されるか
どちらにせよ長生きは出来なそう
源義家没後、嫡男義忠が源氏棟梁となったが、叔父の義光に暗○された
しかし最初は叔父義綱が犯人だとされ源為朝(14)が義綱一家を追討し滅ぼしてしまった
真犯人義光は逃亡、うっかり為義wは源氏の代表となるが本人や手下が狼藉三昧だったので出世できず、子作りに精をだす
為義本人のミスとか狼藉って何かあった?
義賢しかり全部部下の問題だと思ってたけど
まぁ統率出来ないのはアレだが
その事件、義光が義家のタヒ後俄かに棟梁への野心を燃やしての事だと言われてるけど、
内紛を煽る事で源氏の力を削ごうとした白河院が元凶という説もあるようだ。
義光は院に唆されてまんまと踊らされただけらしい。
実際この内紛で義家のタヒ後から瞬く間に義忠が○され、次兄の義綱一族は壊滅、義光も義忠暗○の黒幕と割れたために
京には居場所が無くなり常陸へ逃亡、残されたのはまだ年端も行かない為義のみという有様だし。
ただ義平は武勇はあってもカリスマのようなものは無い。
平治の乱に敗れて敗走する途上、父と別れて再起の兵を募るべく飛騨方面に向かった時も、
一時は千人もの軍勢が集まったにも関わらず、義朝タヒすの報が伝わるやあえなく四散している。
義平は所詮侍大将レベルの武人であり、多数の武士達を心服させるようなものは持っていなかった。
頼朝の後ろ盾を失った義経に誰もついて来なかったのと同じで、義平も結局は「父ありき」の存在に過ぎなかったと言えよう。
なんだかんだ最後まで地元の軍隊は残ったりしてるし
それなりのカリスマはあった模様
子どもなんてのはそんなもんよ
みんな自分の子どもは可愛いのよ
為義が義賢と頼賢を可愛がってたのはわかるが
義朝と為朝に限ってはそうは思わん
可愛がっていたと言っても、「嫡子として見どころがある」と見做されていた間だけだろ。
義賢にしても、帯刀先生の位を剥奪された後は義朝同様東国に追いやられているし、その後は頼賢だもんな。
息子だけで10人以上もいるからなのか、為義にとって「嫡子」なんてものはいくらでも取り換えの利くものだったのだろう。
まぁ嫡子の選択を誤ればすなわち一族の命運にも関わる事ではあるから止む無い面もあるが。
結果論で言えばね
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1559137014/
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