【歴史】松尾芭蕉「奥の細道」、旅のお金はどうしていたの?
[となりのテレ金ちゃん-テレビ金沢]2020年3月30日放送の「なぞの細道」のコーナーでは、松尾芭蕉が「奥の細道」を執筆した際の旅費について取り上げていました。
「人生も旅のようだ」と旅をしながら句を詠み続けた芭蕉。しかし、現実問題として、そのお金はどうやって工面したのでしょうか?
■熱心なファンがカンパ?
松尾芭蕉の代表作といえば、東北や北陸をめぐった旅行記「奥の細道」。
芭蕉は石川県加賀市の山中温泉にも滞在しています。8泊9日と予定よりも長く滞在し、よほど山中温泉が気に入ったのではないでしょうか。黒谷橋などを絶賛し「行脚の楽しみ ここにあり」と詠んでいます。
美味しいものを食べて、絶景を満喫した模様ですが、そのお金は門人(弟子)の曾良などが工面していました。
旅費のほかにも、句会の出座料、加点料、短冊や色紙に書いた際の報酬を手配していました。
中には金沢からはるばる追いかけて路銀(旅費)を渡したという熱心なファンもいたそうです。
それほど当時の芭蕉の句は前衛的で皆に認められていました。
そして、山中温泉に長く滞在した別の理由。実は芭蕉は痔の持病があり、山中温泉につかって痔を癒したのではないかと言われています。
有名な芭蕉も、病には勝てなかったのですね。(ライター:りえ160)
2020年4月12日 6時0分 Jタウンネット
https://news.livedoor.com/article/detail/18107857/
画像
https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/8/9/89f2a_1460_71ac85892e7a4768c2aa397abe224a41.jpg
>>14
芭蕉のタヒ因を考察したお医者さんの論文が興味深い。
松尾宗房(後の芭蕉)が仕えた主君もどうやら結核。
芭蕉は推定直腸結核。かわいがっていた甥は若タヒにするが
推定結核。
なぜ?当時の社会習慣から考え・・・・
まああとは論文を探してくれ。
>>14
元カレが蝉禅参加なんか言う名前だった
奥の細道を一緒に旅したのは借金まみれの男(逃げた)
蝉の声~って句は元カレがタヒんで詠んだって説がある
この時代だと「奥の細道」の行路ってまさに「大冒険」だよなあ
今みたいに精巧な地図も便利な交通手段もなく、治安だって決して万全だった訳ではないだろう
もしかしたら疫病の危険だってあったかもしれない
それを高齢になってから「大冒険」に旅立ったのはほんと凄いと思う
道を歩いたのを冒険とは言わない
>>41
山賊に襲われることもあった
当時の紀行文、山賊に襲われ(そうになった)は定型句。
そう書くことになっていた。
東京から歩いて東北行って戻ってくるとか、考えられない
ろくに道路もないのに。野道みたいなところずっと歩くとか
薩摩藩なんて、江戸時代前期は大阪まで船を使っていたのに、
江戸中期以降は九州路・山陽道・東海道と、全行程を歩いている。
鎖国で都会能力が減じたので船舶利用は危険と判断する世
うになったからかな。
馬とか駕籠とかも使ったんじゃないの
>痔の治療
あのー 稼ぎかたわかっちゃったんですけど。
芭蕉は公儀隠密なんだよ
言わせんな恥ずかしい(´・ω・`)
宗教みたいだ
あとスレでは山下清画伯についての言及があるが
画伯はね、ドラマとかだと現地で写生とかしているけど
実際はね、ほとんどは家に帰ってから記憶で描いているんだってねw
やっぱり天才ってのは違うなあと思うけどね。
かたや芭蕉翁はまあ吟行だからその場でしょ。
そもそも俳句ってのがそういうもんだから。
俳句はそもそも連歌の発句でしょ。
連歌なんつったら曲水の宴じゃないけど即興性が命なわけで。
それはまあうんうん考えてひねるのって野暮だよねwww
そう思う。日本中あちこちに出向き、情報招集していたとか。
同行してる河合曾良はその後公式に幕府調査官をやってるわけだから、
そもそもこの俳人の師匠と弟子の正体はは隠密の師匠と弟子でしたの可能性が高いよね。
今は我慢やで
タヒ出の旅なら出来るやん
旅のお金なんて、あんまり必要なかったろ
>>11
問題はその送金方法
何ヶ月分もの旅の資金を現金で携えて江戸を出たのか?
ヨーロッパでは既にメディチ家の銀行がヨーロッパ各地に銀行を作って送金システムが確立されていた
ちなみに現在はクレジットカードの会社のアメリカン・エクスプレスは一般旅行者向けに旅先で使える小切手、トラベラーズチェックを発行したのがきっかけ
日本では江戸時代にすでに為替が浸透してます。
諸国俳諧漫遊を口実に、各藩の動静情報を集めていた
部下も何人か連れていたというしな
パンピーでは到底無理ゲーな速度で移動していた。
この時代は短冊だな。
小倉色紙みたいな「色紙」もあるけどあまり一般的ではない。
明治になると今みたいな色紙が出来るが、当初は薄くて縁取りもなかった。
芭蕉直筆の短冊とか今残ってないのか?
かなりの数、残っている。悪筆と言いたい水茎だ。
まれびとなんかの話とも繋がってくるが
江戸時代は地方でも富豪や知識階級が多く、都会の最先端の学問、文化、芸術を吸収する意欲がものすごく高かった
年貢率は高いとはいえ、それでも文化を受け入れる余地は生まれてた
その結果なにがしかの才能があれば富豪や知識階級は旅人に宿を貸し、地方の横つながりで次に申し送りして、いくばくかの小遣いを持たせて旅立たせてた
いや普通に行商人や旅芸人、遊行人も対価なく泊めたらしい
明治時代とかにも続いていて、宮本常一とかは四国から大阪に遊びに行った乙女の話を書いてたり
そのうち勝手に居座って嫁になる、押しかけ女房みたいな話もあったりなw
旅先でも饅頭屋の看板のデカい饅頭(陶器製)に食らいつく程の
メシもロクに食えない貧乏旅行だったのよ。
各地の藩の内定する重宝だったんだし
幕府にそんなお金ないなw
天下の回り物で幕府も朝廷もすっからかんで庶民のがよほどお金の使い方は余裕があった
でなきゃ方々から句会に招かれて、なんてないし
芭蕉はその道の第一人者だから
適当に滞在して連歌大会連歌教室開いて
旅費と滞在費を得てたって聞いたが
清が住み込みでバイトしてましたって場所もある。
>>37
恵んでもらったり、手伝いの駄賃をもらったりして結構な額の小銭は持っていた。
が、親切な人に泊めてもらったり、飯をごちそうになったり、野宿したりで金は
ほとんど使わなかったそうな。
田舎の俳句好きの金持ちの家を廻る
営業活動だって分かるだろうに
そいつからたんまり貰ってるハズ
なんだかんだ天才だけに破綻してる部分も多いんだよ
裏の顔は「幕府のスパイ」
だったんだろ
表では俳句を
裏では諸藩に関する幕府への報告書を書いてたんだと思う
行ってみようって徒歩で出かける高血圧痔持ちだからな
奥の細道の旅は、春の終わりに出発、梅雨の雨に苦労しながら旅をした。
秋の半ばで終了。
1日50km以上移動した日もあるみたいだしな
行こうと思えば行けなくもない距離ではあるけど、馬とか使いたくならなかったのかね
40代位までは健康ならまだそれ程体力の落ち込みはないだろうな
50過ぎると日常でも影響出てくる
>>50
45なら大丈夫だろ
筋力特に持久力は若い者には負けない
心肺能力や回復力が落ち始めるころ
目の衰えも始まるけど
全国漫遊なんてしてねーし
国から出たのは一度だけ
水戸光圀は現役時代は江戸在府、甥に家督を譲ってからは水戸を中心に活動して、実際一番遠くに行ったのは江の島だとされている。
実際あんな楽しそうじゃないと思うけど
明治生まれの爺ちゃんは、今で言う熊野古道を毎日2キロ往復して小学校に通ってたし、それが田舎では普通だった。
その当時で「健脚」と言われる人は相当な身体能力があったんじゃないかと思う。
>>68
ふつうの旅(商人など)が30キロ+/日だよ。
熊谷~大宮が1日(約34キロ)。
奥の細道の旅は夏なので、がんばれば50キロ弱歩ける。
どう考えたって、幕府関係者だろ
俳諧師は僧形。ようするに、形だけは出家して所属する寺の
身分証明書を持ち、修行名目で旅をする。
>>82
それで仏僧スタイルだったのか!
ところで芭蕉自身はリアル仏僧でもないのに、妻帯してないね。
身の回りの世話も弟子(男)がやってるし・・・
紫式部「マンズリ夢小説すまんw」
藤原業平「京都人に道聞いたら嘘吐かれたタヒね」
松尾芭蕉「なんもないなここ…奥の細道!w」
夏目漱石「東京出身の俺様に陰湿なイジメしやがった愛媛土人小説で晒したろw」
日本の文学ってこんなのばっかだぞ
イギリス人に酷い差別されまくった恨みでヘルシングでイギリス壊滅させたヒラコーみたいなもんか
・松尾芭蕉忍者説
・上杉謙信女性説
・明智光秀=天海説
奥の細道も自転車ロードレースとかで便乗すりゃあ良かったのにな
現代なら三日くらいで走れそうだし
で逆に竹槍で追われることも何日もいつくといい加減にしろとほとんどそうなっちゃう
ワロタ
夢は枯野をかけ廻る
の「夢」とは何だったのか?
離職した忍者
諸国漫遊記
江戸時代に馬に乗って移動できる庶民はいません
旅費という大金を普通の人間が持って旅してたら
盗賊に○られるしな
分かった!芭蕉は電通案件!
3月に行こうとおもったらコロナ騒動であきらめた
またいずれ行ければいいなぁ
かたくなに検索を拒否して
自分のくだらない妄想にひきこもる老害
5CHは脳細胞が崩壊したバ○ばかり
せいぜい神奈川までなのを大袈裟にしてるだけだぞ
寺を出る時坊主たちにねだられて一句残してるけどあれが宿泊料みたいなもんか
>>156
間違いなく、とらさんを撮っていた山田洋次
最近だと位置偽装せずにドラクエウォークを遊んでいるyoutuber
薬売りみたいな職業なら色んなところに行けたようだが。
中韓に限らず江戸時代の日本でも間者なんて幕府や諸藩も使ってただろ
昔の人を舐め過ぎだお前は
うん
二松学舎の先生が飲み会で作ったデマカセね
旅程が恐ろしく早いのは歩きで計算してるから。
籠や馬子、河川の水運で行くと無茶でもなんでもない
まあその矛盾から「忍者だったんじゃね?ゲラゲラ」って飲み会で笑ってたのを、
公儀隠密で東北諸藩の視察してたってヨタ書いたら、
西田敏行主演でドラマにまでしやがった
水戸黄門が諸國漫遊世直し旅してたってやつのパクリのネタ話だよ
8尺様が元ネタAAの八等身って知らない奴が出てきたみたいでワロタ
また、伊賀上野城代である藤堂采女は服部半蔵に成り代わり伊賀忍者を統括しており
芭蕉が仕えていた藤堂主計良忠は采女家の一族筋
松尾芭蕉が忍者だったとしても別に不思議ではない
また松尾芭蕉=服部半蔵という都市伝説があるが三代目半蔵正就失脚後は
桑名藩家老となった弟正重が四代目半蔵を名乗りそれ以降服部半蔵は桑名藩の服部一族が継承する事となる
ちなみに藤堂采女は服部半蔵と親戚同士だから松尾芭蕉が服部半蔵を名乗ることは
トヨタの子会社の平社員がトヨタ紡織の社長を名乗るようなもんやで
こういう話が実際に残ってるから松尾芭蕉が忍者や間者であっても驚かないなあ
昔のガソリンスタンドでもあったな。
離れた地方で給油すると、ナンバーを見られて地元の相場を質問される。
江戸時代の通信網は米相場の旗振りくらいしか無いから、
他地域の一般的な情報を持っているのは旅行者に限られる。
しかし時間旅行して情報屋で儲けるなどもってのほか。
幅広くいろんな情報を持っていると隠密と認識されて斬られる恐れが高い。
北前船や廻船(回船)も重要
ついでに俳句会開いたりして路銀も貰ってたんだろ
>>208
実際、地方の田舎庄屋の家でも3日ぐらい滞在していた。
那須では高久家に滞在、それも温泉に行く為の通過点でなんもない家。
「落ちくるやたかくの宿の時鳥」
わざわざ、高久(たかく)の苗字を入れるなんて、今でいうスポンサー名と一緒。
タダ飯、タダ風呂はもちろん、苗字入りの俳句なんて、かなり高価だったんじゃ?
田舎庄屋も「我が家には芭蕉先生が泊まり、その証拠に名入りの句もあるぞ」と後世にも自慢出来るしね。>>208
総武線各停かな、乗っていたら線路の北側に
なんと屋根に「商人宿」とでかく書いてある建物を見た。
たぶん、千葉県内。津田沼より都内より。
そんな建物あるんだ。千葉市民だから今度都内に出る時に注意して見てみる
江戸時代は、それほど金銭を持たなくても旅はできたと思う。
まず、移動の手段が徒歩だし
>>248
「曽良旅日記」の分析から、芭蕉と曽良は移動手段として貸馬を多用したことが判明している。
人間では到底歩ききれない距離を歩いた(?)日が多すぎる、など。
風流な俳諧修行の旅も、多くの弟子たちとその豊かな財力に支えられての旅だった。
庄屋の家や寺に泊まる
寝泊まり飲み食いただ
時々近隣の金持ちが来て揮毫を頼まれる
その度に臨時収入が入る
出発するとき餞別もらう
テレビのない時代だから、どこへ行くにもただでいけただろ
昔の日本人ってどういう生活してどういうコミュニケーションとってたのかな?
どんな喋り方してたんだろ?
今のおれがタイムスリップして芭蕉と話して会話通じるかな?
東海道中膝栗毛を読むと今で言う江戸っ子言葉で話している感じ
落語口調が日常な感じかな
幕末に近いけどな
と言うか昔は方言の方が分からないかも(;^ω^)
芭蕉みたいにいろんなところ訪れて、よく言葉通じたよね?
参勤交代があるから武士は江戸の言葉が理解できたはず
武士および上級町人たちに共通のかつ必須の教養が
「謡曲・謡い」だった。謡曲は能(演劇の一種)のせりふでもあるので
さまざまなシーンがある。とりわけ自己紹介は必ず入っている。
このときの発音、そして謡をテンプレートにして固有名詞をはめ込む。
すると、言葉が通じる。
天王寺辺りにあった日本初の料亭『浮かむ瀬』で句会を開いてたから
そこで資金集めてたんやろ
アナログの時代にファンに支えられて旅できるなんて
日本地図を作った人も幕府から支援が得られずに
最初は私財をなげうってたけれど
地図が出来てくると日本中の人にも知れ渡って当地に赴くと
先生ご一行様ご到着みたいになったらしいね
>そのお金は門人(弟子)の曾良などが工面していました。
>旅費のほかにも、句会の出座料、加点料、短冊や色紙に書いた際の報酬を手配していました。
曾良さん、めちゃくちゃ有能な秘書だなw
芭蕉さんも旅をしながら、色んな所へ顔出して、
作品作って売って小銭稼いで旅費にしていたのか。
商船を購入とかあっさり出てくるが脱藩浪人がそんな金どこから?
「奥の細道」=諸国隠密偵察説(芭蕉忍者説)はナンセンス。
一番の理由は、芭蕉は大垣市で「奥の細道」の旅を終えたが、
そのままずっと近畿地方に滞在し、江戸へ戻ったのは2年後である。
1689年3月「奥の細道」出発/8月大垣到着して完結/9月伊勢神宮から上野/
11月奈良/12月京都から大津/1690年1月上野/3月大津/
1691年1月大津から京都/9月28日出発/10月29日江戸到着
江戸へ戻らない=幕府の使命であれば、当然、報告復命すべきところ、
それをしていない。
これが「奥の細道」=芭蕉の私的な行動、の根拠になる。
(3)費用は第二次「芭蕉庵」を売却して調達した。
売却代金=50両
宝井其角(芭蕉の一番弟子)が自伝に「芭蕉庵を50両で売却した」旨を残している。
しかし50両全額が芭蕉の収入になった訳ではない。諸費用が掛かった。
著者・戸垣氏の計算では、
①売買の口利き手数料 3%
②町役人へ所有者移転登記手数料 2%
③売買を披露するための「宴会費用」(当時は宴会開催は義務だった!!)
結局、芭蕉の手取りは40両ほどだったと思われる。
半分=20両を「奥の細道」の旅費に充てて、(上記の通り14両720文)
半分を >>274 の「近畿地方滞在費」と「江戸へ帰ってからの当座の生活費」にした、
と思われる。
芭蕉=忍者説の理由に「芭蕉の歩行速度が尋常ではなく速い」がある。
さて、どうだろうか。
実際の行程を「曽良随行日記」が記録している。
訪れた地名と共に、移動手段=「歩行」「馬」「船」の区別も記録している。
「芭蕉 奥の細道事典」(1994年 講談社)という本がある。
その本では、行程記録と現代の地図を対照して「芭蕉は1日に何キロ歩いたか」を分析している。
例えば、
旅行初日=千住~春日部(1日)26キロ
2日目=春日部~間々田(1日)38キロ
こういう様に「芭蕉の1日の歩行距離」を分析している。
この本から、以下に、間々田~山中までの(1日)の歩行距離を全部抜き出す。
(歩行距離が短い区間=馬や船を利用した)
41/29/28/30/9/12/41/25/11/49/19/23
50/15/18.5/9/30/31/25/21/50/33/30
24/27.5/10/24/9/34/20/18/38/21/25
20/34/30/38/30/41/25/7.5/36/36/44
40/47/30/23
これで見ると、芭蕉は1日に50キロを歩くこともあった。(2回)
一口に「並足1時間1里」=普通に歩くと時速1里=4キロ、と言われている。
50キロを歩いた行程は「曽良随行日記」によると「朝7時半出発~夕方18時半着」となっている。
つまり11時間で50キロの移動であり「時速4キロ」ではややキツいものの、不可能ではない。
結局「芭蕉の歩行速度が尋常ではなく速い」のではなく「やや速い」程度であった。
一句できた
行きずりの
人に誘われ
奥飛騨へ
おなじような頭巾かぶってたら…
落語で聞いたわ
このへんは道が枝分かれしていてわかりにくいから
馬に乗って行けと言って馬を貸してくれた
馬は慣れた道をとことこ歩いて行って立ち止まった
そこで鞍に礼金を結び付けてやると
来た道を帰っていった
金は大丈夫だったのか?
作り話ながら心配になるww
全財産整理してそれを軍資金にしてる
そんなに全国的に知られてたんだ?
俳書の出版は奥の細道より以前、延宝というころには
きわめてさかんだった。田舎でも経済的に余裕のある百姓たち
(名主など)は盛んに俳諧を学んでいた。
手紙も、時間はかかるがまあ届いた。
人の噂に戸は立てられない
噂話は人から人へ千里を行く
義経逃亡ルートの逆打ちでもあるけど
消費者がいない芸術なんてもんはない
>>314
>当然パトロンがいたんだろ
芭蕉を献身的に支えたパトロンが居た。
杉山杉風(すぎやま・さんぷう)
(詳しくはウィキを見てネ)
杉風は、生涯に渡り、宿舎(芭蕉庵)の提供・金銭の面倒等を行った(芭蕉より長生きした)
芭蕉が「長旅から帰京」「火災で焼き出され」てもホームレスにならずに、そのまま江戸で
普通の生活を送れたのは、杉風がずっと援助をしたから。
「いくらかかった奥の細道 -曾良旅日記を読む-」(戸垣東人著 2019年 雙峰書房)という本がある。
内容は、書名から判る通り、ズバリ「奥の細道」の「旅行費用」を計算したもの。
著者の経歴=東大・法学部卒/大蔵省入省/造幣局長を歴任/現・帝京大学経済学部教授
「造幣局長」=専門は「銭勘定」の人?かな。
本の細かい内容説明は省略して、結論を書く。
(1)旅行総費用 170万円(14両720文/1両=12万円)
計算根拠は「曽良随行日記」の日々の支出記録を積み上げた(全行程150日)
例えば、
4月21日 旗宿・出発~矢吹・到着
①通常旅費(昼食等) 200文
②関所案内代 50文
③関山登山茶菓子代 50文
④川の渡し賃(阿武隈川) 20文
⑤宿泊代 200文
なお、この日は「二分金」を「銭」に両替した。
(2)携帯した金銭=せいぜい「小判1枚」或いは「一分金4枚」
「現金をどの様にして携帯したのか」の答えは「殆ど持たなかった」である。
当時の旅では「現金携帯」は危険であり、庶民はもとより(刀を差した)武士も用心が
必要であった。それで江戸~京・大坂等の長距離移動をする際には、予め為替を組んで
おいて、行った先々の両替商で「小判」「分金」を受け取った。
小判は(金額が大きいので)そのままでは「宿」「茶店」「川の渡し」等で使うことが出来ない。
そのため、曾良は必要に応じて「小判」から→「銭」へ両替をした。
「曽良随行日記」には「小判を10回」「二分金を7回」両替した記録がある。
併せて「両替レート」も記録している。
(ドル/円の為替相場が時々刻々変動する様に、当時は地方毎に両替レートが異なっていた)
>>323
貴重な情報ありがとう。国会図書館目録をひいた。
著者名は戸恒東人 さん。ふりがな無し。
本の元になったのは
>いくらかかった『奥の細道』
>掲載誌 学士会会報 2010(6) (通号 885) 2010.11
のようです。
完全に幕臣
幕府御用で諸藩も慇懃に接待した
仕事みたいなもんだったんだね
だからいつも先々で同じ料理(忠敬の好物と知られたもの)が出て辟易したらしいw
奥の細道の大半は日本海沿岸(日本海部分は秋田~福井)
それをおもんない言ってたら旅にならないよ
田舎に泊まろうみたいなもんだよ
芭蕉は「謎の人物」と言うが、俺としては同伴者「曾良」の方が何倍も怪しい。
「謎の旅人 曾良」(村松友次 2002年 大修館書店)による。
(1)曾良は「幕府側の人物」であった
曾良は、旗本・土屋一馬家の御用人「岩波庄右衛門」として、宝永7年(1710年 「奥の細道」の21年後 曾良61歳)に九州を巡検し、巡検使接待役・対馬藩士・三浦貞右衛門と対面をしている。
①「曽良随行日記」に巡検使として出立した記録がある。そして曾良は巡検使一行
(40人超)の路銀として、幕府から200両(!!)の現金を預かっている。
「曽良随行日記」は曾良の個人控えであり、「奥の細道」の終了後も何年にも渡っていろいろなことを記録している。(随行日記=芭蕉に随行は、現代の我々が勝手に名付けたもの)
②対馬藩士・三浦貞右衛門が「岩波庄右衛門」との対面の様子を詳細に残している
(2)曾良=「岩波庄右衛門」は「幕府の権威」を利用できる立場の人間
上記で「対面」と書いたが、実際は「詰問」である。
曾良は「今回の巡検のルート・訪問施設について聞きたいことがある」として、
三浦貞右衛門を「今すぐ参れ」と宿舎に「呼びつけ」て、三浦貞右衛門は「早速に参上」した。
詰問内容は「今回の巡検ルート・施設は前回と異なるが、その理由は何か」であった。
つまり「前回の場所に秘密の軍事施設を作ったので、それを見せたくないのでは」と
疑ったのである。(曾良は、10項目程の質問をした)
三浦貞右衛門は「岩波庄右衛門」様へ詳しく「お答え申し上げました」と、記録している。
それ以降の「岩波庄右衛門」の様子は定かではない。
巡検の途中、九州でタヒんだのか生きて江戸に戻ったのか。
生きていたとすれば、いつ・どこで・どういう役職で生涯を終えたのか、一切判らない。
以上は「謎の旅人 曾良」(村松友次 2002年 大修館書店)から。
奥の細道に河合曽良とあるけど、フィクション奥の細道では他の人物も仮名変名になってる。
だから、名前からして河合曽良ではあるまい。
(3)芭蕉の門人達も、曾良については詳しく知らない。
弟子達はお互いのことを記録している。誉め言葉も悪口もある。お互いがライバルで
「競争心」「やっかみ」があったのだろう。しかし曾良については「事務能力は高いが
句作はいま一つ」程度の記事で、曾良の氏素性については記録が無い。
つまり弟子達の間でも、曾良は「謎の人物」だった。
(4)曾良は「奥の細道」の終わりが近くなった所で突然、芭蕉と別行動をとった。
この辺りの描写は「奥の細道」を読んで、皆よくご存じのことと思う。
ところがその「別れた理由」が全く判らない。
曾良にとって「奥の細道」の満願成就を目前にして、それを棄ててまで果たさねば
ならない用件があった、のではない。「曽良随行日記」では滋賀県等のあちこち見物を
しながら、三重県・長島・大智院に到着している(住職が曾良の伯父)
かと言って、芭蕉と曾良は喧嘩別れをしたのではない。
①別れに際しては、お互いに切々とした句を交わしている。
②曾良は「芭蕉が間もなく旅の終着大垣に到着する」の報を受け、滞在先の長島を
早速に立ち→大垣へとはせ参じて→芭蕉の到着を待った。
③芭蕉が到着するや「タヒんだ者が蘇った」ごとく喜び、感激の再会を果たした。
一体何故、曾良は芭蕉と別れたのか?
どうにも「曾良とは怪しい奴」と思えるのだ。
一句も読んでない。
それでいて石巻港や瑞巌寺を執拗に観察――
諸国をこっそり見て回る役目の人間は確実にいただろうしな
そんでバレないような職をつけてるだろうしな
以前日経新聞の記者が歩いてたような気がしたが
>>356
>現代人が同じ行程歩いた旅行記とかない?
いくつかあります。
以下、私が所有している本です。
①奥の細道をたどる
井本農一 角川書店(角川選書)1973.04.25(昭和48)
②芭蕉「奥の細道」を歩く
山本 偦 柏書房 1982.06(昭和57)/1987.05改版(昭和62)
③続・芭蕉「奥の細道」を歩く
山本 偦 柏書房 1982.08(昭和57)/1988.06.01改版(昭和63)
④芭蕉 奥の細道事典 講談社+α文庫
山本 偦 講談社 1994.05.20(平成6)
②③④は著者が同じです。
②と③を合算(但し、写真を全部削除)+新規記事を追加して→④にまとめたもの。
記述が「しつこい」ことに加えて、著者自身の考え=「私はここは○○だと思う」
「ここは△△と解釈すべきだ」等の押し付けがあり、読むことが面倒になります。
あまりお勧め出来ません。
お勧めは①です。
記事内容は「古い」です。著者が、昭和25年~30年に掛けて少しずつ「虫食い的」に
訪問した記録を→昭和31年と32年に2冊に分けて刊行→それを1冊に合算した本です。
420頁にも及ぶ「大冊」ですが、文章が読みやすくて、どこからでも読むことが出来ます。
「奥の細道」の行程と同時に、半世紀以上も前の「古い日本の状況」の取材ルポにも
なっており、その点も興味深い記事になっています。
既に絶版ですが、ヤフオクかアマゾンで購入して下さい。それほど高くはありません。
(ちなみに私は古本屋で270円で購入しました)
上記以外にも何冊かある様ですが、所有していないのでご紹介が出来ません。
おお
ありがとうございます
俳句の達人に隠密を依頼したのか。
もし芭蕉が書いた俳句が残っていたらその数倍になったから
残ってた家はホクホクだよね
政治経済色々あったから単純に言えないが、百万円相当額を江戸初期から
運用していたとして金利1%の複利計算で考えると・・
先祖の屋敷は、当時も今も旧山陽道に面してる。泊ってくれてたかも!
あるんだよ
なんでか知らないが
何も見ないで書くから間違いかも知らんけど
木曽義仲尊敬しているんでその寺に、って趣旨じゃなかったっけ。
前職でそのテの仕事してたよね
芭蕉はそれにのっかってたか、臨時雇でやってたかじゃないのかな
既に有名人だったし各藩や各地域に歓迎してくれるような金持ちは
結構いたんじゃないの?
そこに要所要所で立ち寄ってれば十分なんじゃないの?
先人の西行さんもそんな感じだったんでしょw
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1586653810/
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