世界で伝説上の英雄教えろください

2023年10月12日

1: 2013/11/06(水) 00:22:23.70
アーサーとかジークフリートとかそんな感じのお願いします
3: 2013/11/07(木) 01:33:31.91

概要

治世期間はたったの4年と短く、頼朝時代の老臣に掣肘されて大した業績を挙げられなかったものの、鎌倉幕府二代目将軍という立場と後述するあまりに凄惨な最期で一応歴史にそこそこの認知度を残すことが出来た。

御家人達を纏め上げ、幕府を盛り立ててゆこうという気概こそあったが、北条氏の政敵であった比企能員の娘(若狭局)に惚れ込み、
ついには彼女を妾にしてしまい、比企氏と緊密な関係になってしまったため実家の北条家との関係が悪化、その後ヤンデレママ政子に若狭局を○されたことで激昂、
北条氏を皆○しにしてやると息巻いたためご乱心として将軍の座から引き摺り下ろされて幽閉され、1年後変タヒした。
タヒ因については暗○説が濃厚で、しかも風呂場で刺客に襲われ、金玉を握りつぶされ、ペ○スを切断されて悶タヒという大変ショッキングなタヒに様であったらしい。

愚昧で思慮分別が欠落した、典型的な親父の遺産を食い潰す駄目な二代目(例えるとしたら劉禅)としての印象が定着しているが、
親父の頼朝からは跡継ぎの器量無しの烙印を押されなかったので、辛うじて廃嫡された人物にカテゴライズされることを免れている。

ふぐり切断伝説の真贋

金玉を握りつぶされ挙句ペ○スを斬りおとされてタヒんだというのは慈円の悪ふざけによる捏造ではないかという疑惑もあるが、
頼家のタヒから30年後、頼家の金玉を握りつぶしてペ○スを斬りおとした刺客張本人を名乗る人物が、
鶴岡八幡宮に切断した頼家のペ○ス(らしきもの)を慰霊、供養のために奉納したという話が複数の史料に記述されており、
また面白がった口さがない野次馬達が脚色を加えて全国に喧伝したこともあって、
今では金玉を握りつぶされてタヒんだというのが半ば史実として定着している。

ちなみに、自称頼家のペ○スを切断した刺客が奉納したと言われる頼家のペ○ス(本当に頼家のペ○スかどうかは不明だが)は
今尚安置されており、閲覧料7165(ナウい息子)円を支払う事で誰でも閲覧する事が出来る。
閲覧した人の証言によれば「大根と見間違うほどの」サイズだったらしい。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/niberunku/hagene/1.htm

10: 2013/12/19(木) 16:10:16.41
>>3
「二代目暗愚説」ってあまり信じていない。
特に鎌倉幕府なんて綱渡りにつぐ綱渡りで出来た複雑な事情を持つ産物で、あれを血筋で維持するなんて不可能に近いと思う。
おそらく頼朝本人が二代目に生まれて来ても維持するのは無理。
11: 2013/12/22(日) 12:41:23.98
>>3
劉禅って、元々蜀漢国力的にオワタに近いじゃん
それに40年国を持たせてるし。まぁ孔明とかのおかげもあるけど
親父の遺産を食い潰すって感じとは違うだろ
5: 2013/11/11(月) 06:54:23.25
サラディン 《Saladin》  出身地:イラク
アラビア語での名はサラーフ・アッディーンで、イラクのクルド族の出身。サラディンはラテン語名。
エジプトの遠征に参加した後にファティマ朝の宰相となり、1171年には新王朝アイユーブを開いた。
アッバス朝の承認を得て「スルタン(イスラム世界で支配者の意)」の称号を戴く。
その後、シリア、イラク北部、イエメン、北アフリカにまで領土を広げ、
87年には十字軍が築いたエルサレム王国を滅ぼしてエルサレムを奪回。
92年に第三次十字軍と休戦条約を結んで、キリスト教徒のエルサレム巡回を許した。
十字軍との交渉で見せた寛大な精神と開明さは、後のイスラム教徒の間で英雄視されるようになった。
6: 2013/11/28(木) 22:55:04.02

ガイウス・カシウスと言う名の、ローマ軍の盲目の兵士。
十字架にかけられたキリストを槍で貫いた事で知られる。
伝説では、キリストを刺した時に血がしたたり落ちて彼の目に入り、目が見えるようになったという。
その後、改心した彼は洗礼を受け、聖人になったとされる。
ロンギヌスは後に呼ばれるようになった名である。
また、このロンギヌスの槍を手に入れたものは世界の王として君臨するが、失ったときに破滅するとも言われる。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%A6%E3%AB%E3%88%E3%A9%E3%9E%E3%B3

7: 2013/12/08(日) 23:15:07.93

ヘクトル  紀元前7~8世紀

トロイア戦争の英雄。

ギリシア伝説で,トロイア戦争におけるトロイア軍の総大将。その名は〈支え手〉の意。
トロイア王プリアモスとヘカベの長子。アンドロマケの夫。アステュアナクスの父。
彼はたんに勇敢なばかりか,情理をもわきまえた名将としてよく祖国防衛の任にあたったが,戦争の10年目に,ギリシア軍最大の英雄アキレウスの身代りに出陣したパトロクロスPatroklos を討ち取ったため,
親友のタヒに奮起したアキレウスとの一騎打ちに敗れて戦タヒした。そのタヒ体は戦車に引きずられてアキレウスの陣屋に運ばれ,10日余も野ざらしにされたあと,莫大な身代金でプリアモスに贖(あがな)われた。
その後まもなくトロイアが陥落したとき,幼いアステュアナクスはアキレウスの遺子ネオプトレモスに○され,アンドロマケの身柄は褒賞として同じネオプトレモスに引き渡されたという。
ヘクトルの活躍はホメロスの叙事詩《イーリアス》によってよく知られる

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%B7%E3%A3%E3%83%E3%95%E3%AB%E5%8C%E7%9B%9F

8: 2013/12/14(土) 08:54:23.58

アキレウス(アキレス) 紀元前7~8世紀

トロイア戦争におけるギリシャ軍最大の英雄。

テッサリア地方のフティア王ペレウスと海の女神テティス との子。
赤子のころ,わが子を不タヒ身にしようと願ったテティスによって冥界の川に浸されたが,
母親の手がつかんでいたかかと(踵)だけは生身のままに残った(←アキレス腱の名の由来である)。
成人後,出征すれば早世する運命にあるとの母親の警告をふりきってトロイアに渡り,
めざましい働きを示したものの,戦争の10年目に,捕虜の女奴隷をめぐる総大将アガメムノンとの争いがもとで戦闘を放棄,
味方を敗北寸前にまで追い込んだ。しかし親友パトロクロスの戦タヒを機に再び武器をとり,敵の総大将ヘクトルを討って友の仇を報じた。
彼はさらにアマゾン族の女王ペンテシレイア,曙の女神エオスの子メムノン等を討ったが,トロイア王子パリスに矢をかかとに射かけられて落命したという。
アガメムノンとの争いの一部始終はホメロスの《イーリアス》で有名。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm

9: 2013/12/19(木) 14:51:37.27

ソロン 前640ころ‐前560ころ

アテナイの政治家,詩人。「ソロンの改革」をおこなった。

王家から出た名門に属したが,富裕とはいえない家に生まれ,若くして海上貿易に従事した。前600年ころサラミス島の領有をめぐるメガラとの争いに市民を激励して名声を得,前594年アルコンに選ばれた。
当時のアテナイでは,平民である多数の農民が土地と身体を抵当として貴族から借財し,それを返済できない場合には土地を債権者である貴族に引き渡し,
収穫の1/6の納付と引きかえにその土地を耕作する,ヘクテモロイと呼ばれる隷属農民の地位に転落し,さらに1/6を納付できない場合には家族もろとも債務奴隷となった。
そこで平民は負債の帳消しと土地の再分配を要求し,貴族との間に激しい党争を続けた。ソロンはアルコンの地位につくと,調停者としての全権を委任され,
危機克服のための大改革を断行したが,市民は貴族,平民ともそれに満足しなかった。ソロンはアルコンと調停者の任期を終えてから旅に出,エジプト,キプロス島などを歴訪した。
党争を続ける祖国に戻ったのち,血縁関係にあるペイシストラトスが僭主政の樹立を狙っていることを見抜いて市民に警告したが,むなしかった。
一説にキプロス島でタヒんだという。
彼はまたアテナイ最古の詩人であり,その抒情詩には快楽や富を肯定するものもあるが,多くは富者の貪欲と民衆の過大な要求を戒め,独裁政に反対し,
正義と中庸にかなった秩序と繁栄という彼のポリス理念を表現している。また彼はギリシア七賢人の一人に数えられ,〈やりすぎるな〉をモットーにしたと言われる。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm

14: 2013/12/23(月) 17:44:53.98

ペイシストラトス  Peisistratos  (前600年ころ~前528年か前527年)

前6世紀アテナイの僭主。
ピュロスのネレイダイの子孫として、名門貴族の家系を誇った。40歳のころに僭主制を樹立。
その後5年間で敵対者を打ち破って、以後30年ぐらいペイシストラトスによるアテナイ支配が続いた。
彼の時代にアッティカ産の黒絵の壷がギリシャ全土で流通し始め、またアッティカ赤絵の製法も開発され、アテナイの商工業は盛んになった。
また中小農民に対する優遇政策を推し進め、彼らからの税収入がペイシストラトスの権勢を支えた。
『村の裁判官』を任命して巡回裁判をさせるとともに、自らも田園を視察して農民間の争いを和解させ、彼の政治は後世『クロノスの時代』と呼ばれるほどに善政として知られた。
彼はまた、ホメロスの叙事詩をはじめて編纂した人物ともいわれている。

http://www.meigennavi.net/tb/word/038/038627.htm

15: 2013/12/24(火) 22:27:24.82

クレイステネス Kleisthenes (前570年?~前507年)

前6世紀後半のアテネの政治家。アテナイに民主政を導入したことで知られる。
クレイステネスは民主派の支持をえてアテネの政治体制を根本的に変えた。
血縁にもとづくアテネ古来の4部族を廃し、都市部・内陸部・海岸部の3つの地区の住民から構成される10部族に再編成した。
さらに従来の四百人評議会は、各部族50人の代表からなる五百人評議会にかわった。この新しい制度のもとで民衆の国政参加の度合いは飛躍的に増大し、民主政の基礎がきずかれた。
オストラキスモス(陶片追放)の制度も、彼が創始したとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%B7%E3%A3%E3%BC%E3%9E%E3%B3%E3%AD%E3%B3%E3%B0%E3%AE%E7%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%A9#.E3.83.81.E3.83.BC.E3.83.A0THE.E8.93.AE

16: 2013/12/25(水) 19:33:38.26

テミストクレス Themistokles (前527年?~前460年?、前462年?)

古代アテネの軍人・政治家。
前480~479年の第2次ペルシア戦争の中で活躍、とりわけサラミスの海戦でアテネ艦隊の指揮し、ペルシャ軍を破る。
しかし勝利の8年後、陶片追放にあってアテナイから追い出され、遠いペルシアで客タヒ。

http://blogs.dion.ne.jp/dear_you/archives/10206218.html

17: 2013/12/26(木) 22:39:39.44

ペリクレス (前495ごろ~前429)

アテネの黄金時代を築いた古代ギリシャの軍人・政治家。演説の達人。
失脚の多いアテネの社会で、指導者としての地位を守り続ける。
彼の治世は決して成功ばかりではないが、彼はその失敗さえも良い方向に変えてしまう能力を持ち合わせていた。
33歳の頃にクーデター的に民主的改革を断行してアテナイの政権を握った。
支配権を握ってからは、徹底した民主政への施策を行い、スパルタとペルシアの両方に対抗する姿勢を強めた。
さらに前451?年にアテナイ市民権を両親ともアテナイ人である者に限ると定めた市民権法を成立させ、アテナイ国家の結束力を高めることに尽力した。市民団としての封鎖性を具体化させた。パルテノン神殿の建築はその直後の前440年代初めから始まる。
前446年のエウボイア反乱に対しては厳しい処置で臨み,その直後,現状維持を図ってスパルタと三十年和約を締結した。政敵のトゥキディデスを陶片追放で国外退去させた後は連年将軍職に選ばれて〈一人支配〉を実現した。
パルテノンをはじめアテナイに美観を添える大土木工事が推進され,彼とその愛妾アスパシアの文化サークルには国の内外から多くの学者,芸術家などが集まって〈ペリクレスの黄金時代〉を現出させた。
しかし,前433年コルキュラの内紛に介入してコリントスとの対立を強め,翌年には〈メガラ決議〉によって隣国の通商活動に打撃を与えて反目を買い,前431年勃発のペロポネソス戦争への道を突き進んだ。
アッティカ住民を長城内に疎開させ海軍を主力に戦うペリクレスの作戦は,開戦翌年に疫病の蔓延を招き,同年将軍職を失ったばかりではなく,みずからも病魔に倒れた。

http://www40.atwiki.jp/genesis-ticket/pages/208.html

18: 2013/12/27(金) 23:27:50.79

アルキビアデス (前450ごろ~前404)

古代ギリシャ・アテネの将軍・政治家。栄光と流転の人生。

アテナイの名家の出で、父はクレイニアス、母はデイノマケ。
父が前447年にコロネイアの戦いで戦タヒしたので、幼い彼はペリクレスの家で育てられるようになった。
巨額な父の遺産を相続し、アテナイ随一の人物(ペリクレス)を後見人に持ち、しかも類い稀な美貌を持つとあって、彼はわがまま気まぐれに育ち、傍若無人な性格となったという。
学問について、彼はソクラテスの弟子となり、師の親しい友ともなった。ポティダイアの戦い(前432年)では師のソクラテスに命を救われたが、前424年のデリオンの戦いでのアテナイの敗走のときには、逆にアルキビデアスが徒歩のソクラテスを馬上から守ったという。
しかしソクラテス以外にも、プロタゴラスやプロディコスなど、他のアテネ在住のソフィスト(哲学者)たちから受けた影響も大きい。
戦場でのアルキビアデスは非常に勇敢だったので、それをみこんだ有力者ヒッポニコスは莫大な持参金を付け娘のヒッポレテを彼に与えた。

http://auto2ch.doorblog.jp/archives/27303250.html

19: 2014/01/20(月) 22:32:39.11

ペロピダス  前410ころ~前364

テーバイの政治家,将軍。民主派に属し,前382年,スパルタ軍がカドメイアを占領したときアテナイに亡命したが,
前379年,帰国してスパルタ軍を駆逐した。前371年のレウクトラの戦,続くペロポネソス半島への侵入でエパメイノンダスとともに活躍し,
前369年以後はテッサリアのフェライの僭主アレクサンドロスと戦い,キュノスケファライで勝利したが,自身は戦タヒした。

http://dic.pixiv.net/a/LBX#h3_2

20: 2014/01/23(木) 05:45:56.81

エパミノンダス(エパメイノンダス) Epameinondas  ?~前362

テーバイ(テーベ)の軍人,政治家。友人のペロピダスと協力してテーバイの勃興に貢献した。
前371年にスパルタとテーバイの友好が決裂すると、レウクトラの戦いで強豪スパルタを撃退した。
この戦いで彼は、従来の重装歩兵密集隊に改良を加えて,左翼を厚くした斜線陣形を導入し、これはギリシャ戦争史の革命といわれた。
前370~前369年にペロポネソス半島に侵入し、スパルタを破ってメッセニア人を解放、スパルタに対抗する独立国家を樹立させた。
アテナイの海上支配にも対抗し、船隊を率いてエーゲ海を航行した。
前362年,4度めのペロポネソス半島侵入を行うが,マンティネイアの戦でスパルタ・アテナイ連合軍と交戦,戦タヒ。
彼のタヒ後テーバイの勢力は急速に衰えた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%E8%85%E7%8E%8B%E3%AC%E3%AA%E3%AC%E3%A4%E3%AC%E3%BC%E3%B7%E3%AA%E3%BC%E3%BA%E3%AE%E7%BB%E5%A0%B4%E3%A1%E3%AB#.E3.82.AB.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.81.AE.E9.81.BA.E7.94.A3

21: 2014/01/24(金) 08:24:05.17

マーメルクス・アエミリウス   (前5世紀)

ローマの独裁官。

紀元前426年に彼は三度目の独裁官となると、以前撃破してその王を戦タヒせしめていたフィディーナにとどめを刺すために軍を起こした。
フィディーナ側はローマ軍の肝をつぶすためにフィディーナ市の城門から無数の投げ槍に火をつけたものを打ち出したが、
アエミリウスは少しも驚かず、騎馬隊をいったん丘の上に退かせ、炎の中で敵軍と乱戦状態にあった自分の歩兵隊の一隊に鋭く下知して敵軍のかがり火を奪わせた。
一方で、丘の上に集結した騎馬隊に、すべての乗馬の装備をはずさせ、その裸馬の群れを敵勢の真ん中になだれ込ませた。
ローマ軍の火攻めと馬をつかった反撃に、フィーディナ軍は大混乱をきたし、とうとうローマ側は大勝利を得た。

『敵勢にむかって攻めかかろうとて、火災に驚いて蜜蜂のごとくに逃げ奔るは末代までの恥辱、なんとしても取って返して敵にかかるは武士のつとめぞ。
フィーディーナを其の火で焼きはらへ、情け容赦は戰には禁物ぢゃ』
~Suis flammis delete Fidenas, quas vestris beneficiis placare non potuistis~
ティツス・リーウィウス『ローマ史』

http://ja.wikipedia.org/wiki/BASTARD!!_-%E6%9A%E9%BB%E3%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E7%A5%9E-

22: 2014/01/30(木) 16:43:14.18

フィリッポス2世  (前382~前336)

ギリシャ北方のマケドニアの王。 デルフォイ神殿をめぐるギリシア都市国家間の争いに介入し、勢力を伸ばした。
前338年、デモステネスの主導するアテネ・テーベ連合軍をカイロネイアの戦いで撃破。
同年、スパルタを除く全ギリシア都市にコリント同盟を結ばせ、フィリッポスをその盟主としてペルシア遠征を計画したのだが、私怨により暗○された。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%A9%E3%A4%E3%80%E3%BC%E3%AF%E3%A6%E3%AC

23: 2014/01/31(金) 05:18:19.06

アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世) (前356~前323)

ギリシャを征服した父フィリッポスの後を継ぎ、ギリシャ諸国を平定。
その後東方遠征の事業を開始、ペルシャに進撃してダレイオス3世の大軍を撃破。 さらに東方に遠征して中央アジア、北西インドにまたがる世界帝国を実現した。
征服地ではその制度・慣行を尊重し、東方民族主体の新帝国軍を編成、ギリシア傭兵の植民地定住策などにより東西の融合を目指した。
前323年にバビロンで急タヒしたため、さらなる遠征の計画は実現されなかったが、東西交流は活発化し、ヘレニズムと呼ばれる豊かな世界文化が開花した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%A2%E3%AC%E3%AF%E3%B5%E3%B3%E3%80%E3%BC%E6%A6%E8%A8%98

26: 2014/02/07(金) 23:36:08.27

ダレイオス3世   (在位;前336~前330)

アケメネス朝ペルシア帝国最後の王。  アレクサンドロス率いるギリシャ軍に前333年のイッソスの戦い、前331年のガウガメラの戦いで敗退したあと、逃亡している途中に部下に○害された。

スキッピオ、アフリカヌス  (前236~前183)
プブリウス・コルネリウス・スキッピオ 大スキピオ
カルタゴを破ったローマの将軍。

ローマの将軍だった同名の人物の息子。
17歳のとき、父に従って初めてハンニバルの軍隊と戦うが、敗走。 カンネーの戦いでも敗北。
前208年、スペインのバエクラで、カルタゴのハンニバルの弟ハスドルバル将軍を打ち破り、ローマによるスペイン支配を確立した。
前202年、ザマの戦いでハンニバルを破る。

ミトリダテス大王、ミトリダテス6世、エウパトール・ディオニソス(前132~前64,位;前111~)

小アジアのポントス王国の8代目の王。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%A8%E3%8F%E3%B3%E3%BB%E3%B2%E3%AA%E3%AB%E3%AF%E3%BB%E3%A2%E3%A6%E3%B0%E3%B9%E3%88%E3%BB%E3%AC%E3%AC%E3%83%E3%86%E3%A3

27: 2014/02/14(金) 05:08:05.84

スッラ、ルキウス・コルネリウス・スラ・フェリクス (前138~78年)

共和制ローマ時代の高名な政治家。
「執政官」。 マリウスと争い、 小アジア方面で功績を挙げる。
『味方にとってはスッラ以上に良きことをした者はなく、敵にとってはスッラ以上に悪しきことをした者は無し』
しかし彼が前79年に隠退し翌年没してから10年を経ずして,彼の体制はくつがえされた。

カティリーナ、ルキウス・セルギウス  (前100or102~前62)

ローマの秩序に大きな影響力を与えた人物として、ルネッサンス時代の著述家によく引き合いに出される人物。
没落パトリキ出身のローマの政治家。同盟市戦争に従軍し,スラの恐怖政治に荷担して蓄財。
プラエトル,アフリカ総督就任後,コンスル職を目指したが,一度は不当搾取罪に問われて立候補できず,クラッスス,カエサルら政界多数の協力を得た前64,前63両年にも落選した。
その直後,政権担当者暗○,内乱状態再現を狙って全イタリア規模の陰謀を組織したが,コンスルのキケロの追及を受け,エトルリアへ逃亡(前63年11月)。一味は逮捕,処刑され,彼自身も翌年討伐軍との戦闘で敗タヒした。
陰謀参加者は旧スラ派の不満分子を核に没落退役兵,都市貧民に及び,前2世紀後半以来の社会崩壊へのスラ的処方箋の破産を象徴する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%E5%8D%B4%E3%AE%E6%8B%E5%BE%8B#.E4.B8.BB.E9.A1.8C.E6.AD.8C

28: 2014/02/21(金) 16:48:24.49

カティリーナ、ルキウス・セルギウス  (前100or102~前62)

ローマの秩序に大きな影響力を与えた人物として、ルネッサンス時代の著述家によく引き合いに出される人物。
没落パトリキ出身のローマの政治家。同盟市戦争に従軍し,スラの恐怖政治に荷担して蓄財。プラエトル,アフリカ総督就任後,コンスル職を目指したが,一度は不当搾取罪に問われて立候補できず,クラッスス,カエサルら政界多数の協力を得た前64,前63両年にも落選した。
その直後,政権担当者暗○,内乱状態再現を狙って全イタリア規模の陰謀を組織したが,コンスルのキケロの追及を受け,エトルリアへ逃亡(前63年11月)。一味は逮捕,処刑され,彼自身も翌年討伐軍との戦闘で敗タヒした。
陰謀参加者は旧スラ派の不満分子を核に没落退役兵,都市貧民に及び,前2世紀後半以来の社会崩壊へのスラ的処方箋の破産を象徴する。

ローマの名家の出身。 若いころから素行は良くない。
スッラの流浪生活中に、彼の名代となって働く。 そのころ、妹の夫、自分の妻子、ウェスタの神殿の童貞ガビアを○害したという罪で、クラウディウス・プルケルに糾弾された。
統領職への就任を2度も、当時の統領衆であったマンリウス・トルクアーツスとアウレリアス・コッタに妨害されたため、彼らを○害しようと図ったものの失敗、しかしその後、判官と検事を買収したので、罪に問われずに済んだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%AD%E3%B3%E3%B0%E3%80%E3%A0_%E6%BC%AB%E7%BB%29

29: 2014/02/21(金) 16:52:17.43

ポンペイウス 前106‐前48   Gnaeus Pompeius Magnus

共和政末期ローマの政治家,将軍。いわゆる三頭政治家の一人。
ローマを長年にわたって悩ませた外敵との戦いに終止符を打ち,東方を平定した将軍としての業績は,高く評価される。
またクリエンテス関係のもつ役割を十分に見抜き,積極的に利用したばかりか,ある種の世界帝国理念をも保有した政治家であり,とりわけ組織の才に恵まれていたといえる。
若い頃には無冠にして大権を授けられるなど,法を超える形で権力を伸張したにもかかわらず,晩年には元老院の保守派いわゆる秩序護持派にかつがれて,カエサルに相対さざるをえなかった。
将軍・政治家として同時代人を抜きんでるみごとな才能を有していたとはいえ,カエサルとの対立・抗争を通して明らかになるのは,両者の政治家としてのスケールの差であり,また人間性の差でもある。

http://anchor.doorblog.jp/archives/27834739.html

30: 2014/02/26(水) 18:39:12.86

カエサル、ガイウス・ユリウス  (前100or102~前44 /56歳)

古代史の中でアレクサンドロス大王と並び称される古代ローマ最大の英雄、最大の武人。
政治家であると共に西洋史上、もっとも大きな影響を残した人物。 英語読みではシーザー。
ガリアを平定してローマ文化がヨーロッパ内陸部にまでひろめる基礎を築き,内乱の勝利者として単独支配者となり,世界帝国的視野に基づく変革を行ったが,共和政ローマの伝統を破るものとみなされて暗○された。
ギリシア・ローマの歴史の流れを決定的に変えた大政治家。
常に運命の女神と共にあることを確信したばかりか,世人に〈運命の寵児〉とみなされた一方,政敵を心から受けいれてゆく仁慈の人としても知られる。
実戦の雄であったばかりか,軍略をめぐらす将軍としても卓抜しており,一方,人心の向かうところを正しくつかんだ民衆派政治家として,社会改革を遂行したが,業なかばにして倒れたといえよう。
彼の窮極の狙いが,王政であったか否か,という問いは同時代人にまでさかのぼるが,共和政の破壊者とみなす説,逆に帝政の礎石をすえた人物とする説というように,政治家としての評価も定まらない。
しかし世界帝国ローマを統御するには1人の力によるしかないという認識は,養子のオクタウィアヌス(アウグストゥス)によるいわゆる帝政の成立により現実のものとなった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E6%B3%E6%B0%B4%E6%BB%B8%E4%BC%9D
政治家としてのスケールの大きさ,つまり世界帝国的視野を一応認める説が有力であるが,異論もないではない。豊かな人間性,また最期の悲劇性など,その人間像についても,文学者,芸術家の手でさまざまの角度から幾度もとりあげられてきた。

31: 2014/03/23(日) 08:22:27.53

ウェルキンゲトリクス  (前82頃~前46)

前52年のガリア人の大反乱の指揮者。アルウェルニ族の有力者の子。父は王位を望んだという嫌疑で○された。
前52年にカルヌテス族が反乱をおこしたのに呼応して,自己の部族の者ばかりではなくガリア全体に反乱を呼びかけて同盟軍を組織,その指揮者となった。
数々の合戦で一時はカエサルを窮地に追い込んだが,アレシアの戦で攻囲されて大敗した。
降伏後ローマで投獄され,6年後の前46年にカエサルの凱旋式のあと処刑された。
ロマン主義時代にガリアの愛国主義者と賛美され,19世紀末にはフランス国民の英雄,20世紀初頭にはフランス史における最初の抵抗運動家という評価が与えられた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%E6%83!%E3%91%E3%83%E3%91%E3%A9%E9%9A%8A%E3%AE%E7%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%A9

32: 2014/03/26(水) 17:25:47.31

アウグストゥス、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス (前63~後14) 在位;前27~後14年

ローマ帝国の初代皇帝。

ウェリトラエの富裕な騎士身分のガイウス・オクタウィウス GaiusOctavius とカエサルの姪アティア Atia の間に生まれ,初め父と同じガイウス・オクタウィウスの名を称する。
父は法務官・マケドニアの支配者として力を振るったが、前58年にタヒ去。母によって学芸をたしなみ祖先の遺風を重んじるべく教育された。
12歳のとき、慣例に従って祖母ユリア(=カエサルの妹)の頌辞を述べたのが、公の場への初登場である。
男子に恵まれなかったカエサルに愛され、前46年のアフリカ凱旋や、スペイン遠征にも同伴。
18歳のとき、生涯の友アグリッパとルフスと共にイリュス地方のアポロニアに送られたが、その地で遊学中にカエサルの暗○されたことと、カエサルの遺言が、自分がカエサルの養子となり、カエサルの資産の相続人に指名されていることを伝え聞き、すぐにイタリアに上陸。
名門ユリウス氏族の後継者としてガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス Gaius Julius Caesar Octavianus と名のった。
カエサルタヒ後の資産相続の正当性を巡り、まずカエサル派の実力者マルクス・アントニウスとは不和となる。アントニウスもカエサルの遺言とその効果を自分のために使おうとし、最初はオクタウィアヌスを若輩者として軽視していた。
しかし、アントニウスとカエサルの暗○者デキムス・ブルートゥスの勢力(共和派)との戦いの中で、和解が成立し、オクタウィアヌスは元老院から元老院議員および前法務官の地位を与えられ、ムティナの戦いでも勝利をおさめた。
(しかしこの勝利に対して、元老院はオクタウィアヌスに正当な名誉を与えなかったので、軍隊は彼を統領にすることを要求する運動を起こした) 前43年、アントニウスを支持するレピドゥスを加えて「国家再建三人委員」を結成。
元老院の承認によって独裁官の全権を得ると,彼自身は北アフリカ,シチリア,サルディニアおよびコルシカを勢力基盤とする。前42年,フィリッピの戦で共和派の残党を一掃した際には,頭目ブルトゥスの首をカエサルの彫像の前にささげたといわれる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%89%E3%93%E3%BE1/2%E3%AE%E7%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%A9

33: 2014/04/09(水) 18:27:37.29

マルクス・アウレリウス・アントニヌス、  (121~180)
”ローマの五賢帝”の最後のひとり。  ”哲人皇帝”としても知られる。
しかしローマ帝国の最盛期であったその治世は、問題が山積みで、彼も異民族との戦いの中で、生涯を
閉じた。  彼のタヒと共にローマ帝国の衰退も始まった。

スペインの名家の家系だが、ローマで生まれた。幼い頃から勉学に励むと共に「ギリシャ的訓練」によって肉体の鍛錬に励み、時の皇帝ハドリアヌス(五賢帝の3人目)に認められ、まもなく皇帝の養子となるコンモドゥスの娘と婚約した。
これがマルクスが出世するきっかけとなった。  若い頃の彼は多くの学者に学び、とくにストア派の哲学に強く傾倒した。
皇帝ハドリアヌスがタヒんだとき、その遺言でハドリアヌスの後継者アントニヌス・ピウス(五賢帝の4人目)の養子となった。
このとき17歳。  アントニヌスには他にも養子がいたが、マルクスただひとりだけが後継者として指名され、カエサルの称号を与えられ、翌年に18歳の若さで執政官となり、 また皇帝の娘を嫁に与えられた。  (コンモドゥスの娘との婚約は破棄)
マルクスはこの養父をとても敬愛し、それは23年間の彼との生活(``)のなかで彼と離れたのはたった2晩で、そのときマルクスは病気になった、といわれるほどである。
マルクスはアントニヌスの養子たちの中でもっとも養父に愛されたが、アントニヌスがタヒに、元老院から次期皇帝への就任の打診があったとき、同じく前皇帝の養子であったルキウスと共に次の皇帝となることを要請した。
これが皇帝の共同統治の先例となった。   このルキウスという人物は怠惰で享楽的でマルクスとは正反対の性格の人物で、皇帝となってもその自覚も責任も持たない人物だったが、マルクスに対しては常に尊敬と親愛を持って接し、2人の仲はとても良かった。

http://senki.kusakage.com/index.htm

34: 2014/04/15(火) 13:16:35.55

オクタウィア (前70~前11)

オクタウィアヌスの姉、アントニウスの妻。

はじめマルケルスに嫁ぎ、そのタヒ後、前40年にアントニウスに婚し、夫と弟との和解に努め、前37年両者の間にタレントゥムの協約を結ばさせた。
前35年、彼女はアントニウスのために物資および精兵2千を携さえて東方に赴こうとしたが、アテナィで渡航を阻まれた。
アントニウスはクレオパトラの容色にしだいに耽溺したが、彼女はよくこれを忍び、オクタウィアヌスがアントニウスの家を去るようにとの勧告をも退けた。
前32年、ついに離婚された後も、彼女の継子たちの養育も怠らなかった。 彼女の高貴、仁慈、貞淑は世の人の尊敬と同情を集めた。
彼女はマルケルスとの間に一男二女、アントニウスとの間に二女をもうけた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%E9%98%E5%A3%AB%E6%9F%E7%9F%A2%CE%A9%E7%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%A9%E4%B8%E8%A6%A7#.E3.83.9E.E3.83.AB.E3.82.B9.E5.9B.9B.E5.A4.A9.E7.8E.8B

36: 2014/05/16(金) 00:30:13.91

コンモドゥス帝、ルキウス・アリウス・アウレリウス (161~193 位;180~193)

ローマ皇帝。五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝の長子。
父帝の晩年に共同統治者となり、父帝のタヒ後徐々に元老院と敵対していった。側近や親衛隊の意向に左右される性格で、自ら闘技場に出て剣闘士(グラディアトル)として格闘することを好んだといわれ、
自分をヘラクレスの化身と見なすほどの狂信者ぶりを示したため,周囲の反感を買い最後に暗○された。

マルクス・アウレリアス帝の10番目の子供。母の名は父帝の2番目の妃ファディラ。成年まで達した兄弟は、異母姉のルッキラとファウスティナ、同母姉のコルニフィキアしかいない。
父帝の片腕だった共治帝ルキウス・ウェルスの実父だったコンモドゥスにちなんで命名されたが、ルキウス・ウェルスはコンモドゥスが8歳の時に脳卒中でタヒ去したため、マルクス・アウレリアスの後継者として帝王教育を受けて育った。
19歳のとき改名して「マルクス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニウス」と名乗る。
その翌年と翌々年の(ドナウ方面の)ゲルマン遠征にも父に従い、ゲルマン人、サルマタイ人と戦ったが、180年に父が遠征先で病タヒすると、周囲の意見を無視して父帝がおこなっていたゲルマン人との戦争を打ち切ることを布告し、
すぐにローマに帰って単独支配者となったことを宣言した。 (※この“戦争中止”に関しては正しかったと判断する評者が多い) ローマに戻ったコンモドゥス帝は180年10月22日に凱旋式を行った。
コンモドゥスの代になって、帝政初期の頃の専制政治とドミニティアヌス帝流の武断政治が復活され、ふたたび陰謀と流血の悲惨な時代が始まる。
そののち彼は政務・軍務をおこたるようになり、剣闘などの遊興に耽り、身辺を近衛兵で固め、とくに近衛都督ペレンニス、クレアンデルらを重用し、
その行政を避難する者には厳罰をもって応じたので、国外からの諸民族の侵入や、国内では財政の窮迫、貨幣の悪質化、物価の騰貴などのたくさんの問題が巻き起こり、帝国に癒すことの難しい傷を与えた。

http://dic.pixiv.net/a/%E5%8D%E6%9C%AC%E5%80

37: 2014/05/23(金) 19:15:01.43
チンギス・ハン
蒙古の王で蒼き狼(ポルテ・チノ)の子孫とされる。
源義経と同一、野獣の神を脅したなど、伝説・逸話は多い
38: 2014/05/25(日) 22:05:35.33
そういやハーンネタで何かあったな、なんだっけ?
モンゴル人は狼以外にも猪とか他の動物神を信仰してたとか
そういう話だったかな?
39: 2014/05/30(金) 07:02:37.74

ガウェイン

「円卓の騎士」の1人であり、「忠義の騎士」として名高い。
アーサー王の甥に当たり、オークニー王ロトとアーサーの異父姉モルゴースの子。
弟にガヘリス、ガレス、アグラヴェイン、モルドレッド(異父弟)がおり、息子にはフローレンス卿、ロヴェル卿、ガングラン卿がいる。

初期の伝説によれば、アーサー王の甥として最も優秀な騎士として活躍した。朝から正午までは力が3倍になるという特性をもち、円卓の騎士中ランスロットに並び立つ存在。
強情で勇猛果敢ゆえの失敗も少なくないが、アーサー王の片腕として分別を働かせることもある。
「ガウェイン卿と緑の騎士」、「ガウェインの結婚」など、逸話が多い。
ガラティーン(Gallatin)という銘の剣を愛用していたとされる。この剣はアーサー王のエクスカリバーの姉妹剣とも言われているが、劇中での出番はほとんど無く、資料も乏しいため形状や性能、入手経路など不明な点が多い。

http://phoenix-wind.com/ranking/vote/vote_gintama.php

44: 2014/12/14(日) 23:06:24.82
コベントリーのゴダイバ(ゴディバ)
47: 2015/12/17(木) 19:59:38.80

シドレクス・サガ 第ニ部

7.ヴィテゲ   和訳/在

鍛冶屋を継ぐのはイヤだと言い出したヴィテゲ君、ディートリッヒに挑戦しに、
父にもらった名剣ミームングを手にベルンへ向かいます。
途中、ヒルデブラント、ハイメ、ホルンボゲと出会い一緒に盗賊団を倒したり。
ベルンではディートリッヒと激しい戦いになり、打ち負かすところまで行くのですが、
ヒルデブラント師匠のとりなしで仲間になってくれることになります。

8.勇士と竜  和訳/在

ヴィテゲに負けた汚名を挽回するために、ディートリッヒは単身、旅に出ます。

途中、エッケと名乗る騎士(巨人?)と戦い、激しい戦いの末、勝利。新たな剣、エッケザックスを入手。
さらに、エッケの弟・ファゾルドとも戦います。
ファゾルドを○すパターンのものと、生かしておいて仲間にするパターンのものがあるようですが…?

生かしておいた場合の続き⇒ディートリッヒとファゾルドは山で、竜に食われそうになっていた男を助けることに。
この男は実はヒルデブラントの甥、ジントラムでした。竜を倒して助けて、新たな仲間ゲット。

※これは…ファゾルドを生かす選択肢を選んだ場合の特典っスか…。なんかシュミレーションRPGみたい(笑)

http://dic.pixiv.net/a/%E3%86%E3%A3%E3%BF%E3%BC%E3%B3%E3%BB%E3%A2%E3%87%E3%AB

50: 2017/10/23(月) 23:43:52.36
神武天皇
54: 2017/12/22(金) 13:00:14.18
プレスター・ジョン
63: 2018/09/07(金) 00:44:15.13
>>54
東方からのプレスタージョンだと思うたら、チンギス・ハンやフビライ・ハンの襲来だったという
ヨーロッパ人の悪夢
55: 2017/12/23(土) 18:54:42.70
宗江
60: 2018/09/01(土) 12:29:41.00
>>55
水滸伝の中で宋江は、役人で乱を起こした同名の人物がモデルとの説がある
79: 2018/09/20(木) 17:42:48.06
>>60
水滸伝の登場人物では、九紋龍史進のモデルが実在した史斌という人物とされている
彼は宋江と反乱を起こし、その宋江の乱の鎮圧後に再び反乱を起こしたが、宋国側にも同調者が出るほどの人物だったと
56: 2017/12/24(日) 13:09:45.66
ヤマトタケル(日本武尊)
65: 2018/09/08(土) 05:43:03.98
 イスラム世界の更に東方にキリスト教の国家が存在するとの噂は全くの出鱈目でもなかった
ネストリウス派が東方に布教活動したことで、唐の都長安にはネストリウス派(景教)の教会も建てられ結構な信者がいたらしい
その後中国では景教廃れるが…
66: 2018/09/08(土) 18:23:03.55

アンタル=イブン=シャッダードの知名度は低いようだな

イスラム圏ではビッグネームの模様

67: 2018/09/09(日) 05:37:30.11
実在の人物だが、伝説的な賢王サラディン
69: 2018/09/09(日) 17:36:20.79
坂田金時
70: 2018/09/09(日) 20:26:19.50

ただし頼光に釣られて酒呑童子一行ジェノサイドに加担

「鎌止め」は由縁の無い事ではないのだろう

71: 2018/09/10(月) 19:39:54.96
チャック・ノリス
(近年、欧米の青年の間でチャック・ノリスなら…云々のパターン等でjokeになっている)
72: 2018/09/12(水) 13:05:29.94
チャック・ノリス・ファクトな
wwww
73: 2018/09/14(金) 11:30:44.97
チャック・ノリスはジョークのジャンルとしても親しまれているが、伝説的カンフースターのブルース・リーはガチで神格化している人らがいるな。
本人は気さくで気の良い面があったらしいが。
74: 2018/09/14(金) 11:46:14.39
スティーブン・セガールも好きだが神格化まではいかんだろうな
77: 2018/09/19(水) 07:23:10.41

平将門

地方有力者から反逆者、ついには祟り神にして東京の守護神的存在に

80: 2018/09/21(金) 13:59:36.09
水滸伝のモデルとなった伝説的人物は上記以外にも複数存在するらしい。
81: 2018/09/22(土) 22:29:16.60
印度に実在した伝説的な女豪傑ラクシュミー・バーイー
82: 2018/09/22(土) 22:33:22.80
↑王妃だが、あのセポイの反乱のリーダーの一人
83: 2018/09/24(月) 16:28:12.52
女傑と言えば、ジャンヌ・ダルクもかなり伝説的要素あるだろ
84: 2018/09/25(火) 06:03:49.11
日本の伝説的女傑として巴御前がある。
生没年は不詳、平安時代末期の信濃国の女武者で武勲を立てたが、最終的に尼になったとか。
85: 2018/09/25(火) 13:55:48.01
古代中国、伝説上の女兵士の「花木蘭(ファ・ムーラン)異民族のフン族と戦いディズニー映画のネタにもされた
86: 2018/10/09(火) 19:35:09.14
女豪傑だと水滸伝の一丈青扈三娘などもいる。
伝説だが。
ただ、水滸伝の豪傑には結構モデルとなった実在の人物が存在するという。
87: 2018/10/10(水) 10:20:35.60
イギリスのダイアナ妃も伝説の妃となるだろうか。
もう様々な関連本や真相ネタとされるものも出され伝説化は始まっているか…
88: 2018/10/11(木) 12:29:10.71
ネガティブ評価も伴ってるからいいとこ支持層の記憶に残る位では
政治的偉人でもないし…
89: 2018/10/11(木) 17:48:43.54
今の王族は政治的主役は期待し辛いんだよなぁ
タイの故プミポン国王あたりか
94: 2019/05/05(日) 08:28:40.66
役小角(えんのおづぬ)
97: 2019/05/05(日) 22:17:28.86
怪傑ハリマオのモデル
100: 2019/05/21(火) 00:59:47.02
ホンカイサン
101: 2019/05/27(月) 05:51:24.31
ホンカイサンは源義経がモデルと高木彬光の小説に出てくる。
102: 2019/05/31(金) 23:08:15.41
それは判官が語源との説

引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/min/1383664943/