江戸時代って鎖国しているのにもかかわらず経済成長ができた理由
かつては江戸時代の経済事情について、「低成長で、農民が領主に搾取された時代」といった歴史観が私たちの間で共有されていました。
その遠因は、第二次世界大戦での敗戦にありました。日本が戦争に負けたのは、民主主義国ではなく、欧米と比較して封建的だったからであり、その原因を遡れば江戸時代に鎖国をして開明的になれなかったからだ、という考えが戦後、一般に広がったのです。
しかし現在では、江戸時代にもそれなりの経済成長があったことがわかっています。そもそも産業革命を迎えたヨーロッパがそれ以降、急激に成長したということであって、ヨーロッパと比べれば日本の経済成長率は相対的に低かったかもしれませんが、足下を見れば十分な成長を実現していたと考えるべきなのです。
では、江戸時代の経済成長とは、いったいどういうものだったのでしょうか。
■ 戦乱がなくなり官僚化した武士たち
戦国時代は全国で多数の戦いが繰り広げられてきました。しかし江戸幕府が開かれると一転、日本は戦乱のない時代に入ります。さらには、国を閉じる「鎖国」を選びました。
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戦国時代の日本は、世界有数の軍事国家でした。1575年の長篠の合戦においては、かつては「3000丁もの鉄砲が使われた」とされていましたが、最近ではその数字は1000丁へと下方修正されています。だとしても、長篠の合戦は世界的にみて最大規模の銃器が使用された戦争でした。
ところが江戸時代になり戦争がなくなり、やがて鎖国政策がとられるようになると、軍事産業が大きく縮小することになります。朝鮮への侵略に失敗していることもあり、国外に新たな領土を求めて戦争を仕掛けることもなくなります。
戦争がなくなると、軍人としての武士は不要になります。江戸時代の武士は理念としては軍人でしたが、現実には官僚でした。彼らは、給料にあたる石高が固定されていたので所得は増えません。しかも、官僚としての武士は多すぎでした。そこで一つの仕事が複数の武士によって分割されることになります。一種のワークシェアリンクです。たとえば江戸町奉行は北町と南町に分けられ、毎月担当が変わりました。これは権力集中を排除する目的もありましたが、実は失業対策でもあったと考えられています。
武士とは対照的に、農民や商人の所得は増えました。公的には、江戸時代を通じて石高は一定でした。しかし現実には江戸時代最初の一世紀は、新田開発が奨励され、農地は増大します。さらに各地で特産物も栽培されるようになります。
そのうえ、江戸時代当初は「二公一民」(収穫の3分の2が領主、3分の1が農民)だった年貢が、1700年頃には、実質的に「一公二民」になります。年貢の負担がへったわけです。こうして農民は豊かになり、彼らの可処分所得も増加しました。農民だけではなく、職人や商人の所得水準も上昇し、消費財を購入できるようになりました。
新田開発により食糧増産が実現すると、人口も爆発的に増えていきます。江戸時代の初めに1700万人ほどだった人口も3000万人に達しました。
しかし1700年頃には新田開発は抑制されるようになると、人口も増えなくなりました。江戸時代の人口成長は最初の1世紀でピークに達し、それ以降、あまり成長しなくなったのです。
では、このような状況は江戸の日本経済にどういう変化をもたらしたのでしょうか。
■ 江戸時代、幕府は海外事情に疎かったのか?
それを論じる前に、ここで江戸幕府の情報収集能力について述べてみます。
15世紀、独立国であった琉球は、ジャンク船を駆使して、東南アジア諸国との貿易を積極的におこなっていました。そのルートを利用し、16世紀後半には日本人が東南アジアに進出し、各地に南洋日本町をつくります。つまり戦国時代の日本人はアジアに積極的に出ていっており、日本人は海外の情勢についてかなりの知識を持っていました。
それは江戸時代になっても同じでした。「鎖国」状態になりはしましたが、幕府は海外との公式ルートをわずかに残していました。そのルートとは、長崎の出島、対馬藩、琉球、蝦夷の松前藩の四つに限定し、ここを通じて海外諸国とやり取りをしました。現代ではこれらの地を総称し「四つの口」と呼ばれています。
16: 2020/01/11(土) 10:10:00.65 ID:yNXG1Aq60
1700年ころからの停滞は、この時に大地震と津波があって、西日本中心に沿岸開拓地が壊滅したのもあるんだっけか
気候変動による飢饉もあったな
まあ天変地異に翻弄されるのは
今も昔も変わらんねぇ
>>1
徳川家の独裁 15代 約260年
金一族の独裁 3代め 約70年め(金日成1948・金正日・金正恩)
俺たちの御先祖様は地獄の時代をよく耐えたなあ
とはいえその前が戦国だからな
独裁っても戦がないだけマシだったんじゃないの?
国民が若かったから
生産力はそれを上回る勢いで伸びた。
その結果の成長。
幕府が何もしないのが一番いいのよ
もし人口の大部分を占める農民が白米を食わなければ、日本は白米であふれてしまう。
農業技術の向上で、従来より狭い土地で年貢米分を栽培して、残りを換金作物の栽培に切り替えた。
おかげで農民が豊かになり、各地に素封家も生まれて民間経済が活性化した。
現代は公務員と年寄りに分配されるだけで、国民は吸われるのみだから国が衰退している。
長篠の戦いでは殆ど銃が使われなかったって言われてるよ
武田騎馬軍団も嘘だしな、当時の日本馬はポニーみたいに小さいから
数が多かった織田徳川が普通に勝っただけ
野戦陣地の勝利だろう
三段撃ちなんてよっぽど練度高めないと
マウリッツの頃でも大変なのに
そこで地引き網による大規模な干鰯(ほしか)作りを始めて、
肥料としての干鰯の取引量は当時の大阪で、米、野菜、木材に次ぐ
第4位に食い込むほどの需要があったのだとか
だから経済活動が盛んに行われて商人や職人はどんどん豊かになっていった。
「江戸時代」と言っても長いが、1800年前後はかなり農民の暮らしも
良くなったのだった(化政文化と言う)゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
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●東京大学2001年度入試問題
次の文章は、1770年代に生まれたある村の知識人が1840年代に
村の変化を書き留めた記録から抜粋し現代語訳したものである。
これを読んで下記の設問に答えなさい。
昔,この村には無筆(読み書きのできない)の者が多かった。今では,そのようなことを言っても,
誰も本当のことだとは思わないほどである。もっとも,老人にはまだ無筆の人もいるが。以前,たいへん
博学な寺の住職が隠居した後に,儒教の書物などを教授することはあったが,そのころは村の人々に
余裕がなかったためか,学ぶことは流行しなかった。しかし,そのうちに素読(儒教書などを声を出して
読むこと)が流行し,奉公人までが学ぶようになった。さらに現在では,学問,俳諧,和歌,狂歌,
生け花,茶の湯,書画などを心がける人が多い。この村では,まことに天地黒白ほどの変化が生まれたが,
この村だけではなく世間一般に同じ状況である。
300諸侯が大名屋敷構えて消費してたんだから
結果、宵越しの金を持たなくても悠々暮らせた
大火もあったが復興需要がまた経済を回してた
国内が平穏になりインフラが整備された
税負担が軽かった
経済成長しないわけがない
平成日本も、グローバル化などという戯言に惑わされて、海外に無駄に投資したり、外国企業を高値で
買収しては、蓄えた国富を流出させてしまった。
その分を日本国内で回して、江戸時代のように地道に技術革新に努めていれば、
今頃、他の先進国並みには成長していた。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も眠れず」
は、たった4隻の船で慌てている幕府を皮肉ったものと言われるが、実は、
幕府は世界情勢はずっと把握しており、ペリー来航も事前に察知していたようだ。
維新に勝利した薩長が、幕府を貶める宣伝に利用したのだろう
幕府の人間がイギリスの使節に、
イギリスが作ってる東南アジアの鉄道の話を軽く世間話でふったら、
使節が凄く驚いた、なんて話を聞いた事ある
だって田沼意次の頃からロシアとで色々あって対策に腐心してるもん
田沼意次の重商主義政策は当然当時の欧州の流れを把握しての話だよ
むしろここで田沼意次vs松平定信が後者が勝利したことで幕府の命運は定まった
松平定信も当然対露政策には色々手を打っていたけど重農主義では限界があった
実際に慌てるだけで何も出来なかったんだから
把握してたとしても現実とは別の何か程度の感覚だったんだろ
>>46
いや遅いんだよ
田沼意次の頃に重商主義から富国強兵やってりゃ間に合ったが、その後なんもしてないんだから幕府には打つ手がないんだよ
相手のことわかってもこちらには対抗手段がないんだから
ただ、江戸時代の庶民にしてみたら富国強兵なんてされない方が幸せだったろうなw
ご一新で市民平等、職業自由、義務教育、地租改正、国民皆兵の制度になって
一般の庶民、すなわち下級士族や一般農民や被差別民は安定を失ったと言う
だから大規模な河川の付け替えなどが行われてない時期は経済も停滞してた
参観交代は大名に散財させて謀反を起こす経済力をつけさせないのが狙いだと長いこと言われていたけど……実際は逆で、自分の権威を示すためにどんどん豪華になっていく大名行列に対して幕府は、
「行列に金を使いすぎると領国経営に支障が出るから、派手な行列は自重しろ」
という通報を出していたそうな。
参勤交代は将軍に対する軍役だからね
これをわかってない奴が多すぎ
幕府と諸藩との関係は軍役の関係なんよ
幕府が公共事業を藩にやらせるのも軍役
本田様のように、殿様よりお金持ちが生まれたりして、商業も発達
今は少しは良くなった
今でも東南アジアあたりの土を掘り返すと火縄銃が出てくるとか
殆どの人が半年や一年で交代して長くても二年かそこら
なのに長谷川平蔵は二回やって足掛け八年もその地位にあった
彼が如何に優秀だったかが解る
残酷な話だが、江戸時代を通じて(家康開幕と慶喜降伏の時点で)、日本の農村の人口はほぼ一定だった。
人口調節が行われていたことは明らかだ。
江戸時代の「経済成長」とやらは、この冷徹な現実の上で、例えば町人の簪が鉄から銀に替わったような、ショボい話だ。
生産性が上がったからだろ
>>59
田分けとか論外だし
金があまりに沢山あったので相対的に金の価値が低くなってたわけ
税金は基本的に下がる一方
商工業に関しては基本的に無税だからなw
権力持ってる役人だけが貧乏する今と真逆の世界
現に一揆起きると即藩取り潰しで怖くて搾取できない
引用元: http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1578704110/
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