旧約聖書の神と新約聖書の神って同一なのかな???
>>1
旧約の初めの頃の神が違う。
あとは、旧約の中期頃~新約聖書にかけての神は同じ。
↑が自分がカトリックの教会に勉強に通っていた頃の、教会の中でもよく聖書を読み込んでいる人たちの共通意見だった。
なんでも、旧約の初期の頃の神はそもそもユダヤの神ですらないとか。
「ヘブライ」というのは「越えてきた」民の意味で、カナンの地にたどり着く過程で接してきた色々な民の神が入っていて、それが旧約の初期の頃の神の性格や、神の描写に反映されているのだとか。
ちなみにその人はヘブライ語もペラペラで、こと旧約聖書に関しては神父よりも詳しい人だった。
なんか聞いたことがある。
原始のユダヤ教は多神教で、ゾロアスター教等の影響で善悪二元化して、さらに一神教になったとか。
神を表す言葉が複数形で書かれてるのがその名残とかね。
旧約と新訳で神の性格が違うのは、書いた人も教義も違うから当然のこと。
新約は両立してる
これまでと々ユダヤ教の教義だって人と
パウロみたいな外国人のための宗教に変えた人と
だからら福音書を一つに統合出来なかった
旧約の最初の頃だって
ヤハウェ系とエ○ヒム系の二つに分かれてるでしょ
モーセの後しばらくは多神教だったとしか思えない記述だし
いいところに気づいた
その考えを推し進めれば本当のことがわかると思う
マルキオンの二元論のようなグノーシス思想はそうかな?
この物質世界の創造神は悪魔であり、それより上位に
善なる神が存在するんだろ?
回教だってモーセ五書は大事に扱われてんだし
ユダヤ教の各種伝説を見てると
ユダヤ教の主なる神は恐らくギリシャのゼウス神(洪水伝説・敵対的な巨人の存在等)
イスラエル(神と戦って勝った者)
本来ならばユダヤの絶対的な神と戦うなんてユダヤ人からすれば有り得ない
イスラエルの祖はヤコブ・レア(ギリシャ神話のサトゥルヌスの妻もレアって名前)
キリスト教
イエス・キリストの誕生日12月25日
クリスマスの由来はサトゥルヌス(サトゥルナリアー祭り)の誕生日と一緒
キリスト教はその後ローマで主流であったオリンポス神信仰を駆逐して広まった
このことから察するにキリスト教とはティターン(巨神系)の
ゼウス(ヤハウェ)らオリンポス神族に対する逆襲宗教なのではないか?
降誕祭の起源に付いては、サトゥルヌスの祝祭という説もある様だけど
シンプルに冬至の祭りの影響説を採りたいな
生誕には5月説・7月説・9月説・10月説があるけど、12月説もある
「どうも年末らしいぞ、どうせよく分んないんだし冬至の祭りと一緒にやっちまおう」
とまでは言わなくても、何となくそれに近い流れになったんじゃないのかなあ
実際に各地の冬至の祭りの影響は複数指摘されている
ていうかクリスマスが12月25日でサトゥルナリアー祭りに近いし
そもそもクリスマスの日にやってくる
サンタクロースとかまんまサターン・クロノスのアナグラムだろ・・・
なんていうか偶然とは思えないんだよね・・・意図的というか懇意的というか
俺は洪水神話という点からギリシャのゼウスのような感じの髪だと思うんだけど
>>9
ウガリットのバアルその他から話を借りて作ったんでしょ
ヘブライ語は聖書以外に先行文書資料がほとんどない
突然無から聖書みたいな文学的経典を生み出せるわけないからあちこちから借りてきたはず
ちなみにウガリットはヘブライとヘレニズムを結ぶ橋となる文化を形成してるから影響あっても不思議ない
例えばサラの逸話とか
印欧族は嫁を取られて取り返す話が大好きだけど
オリエントにはこういうのは少ない
今でもアラブはたとえ嫁は取り返しても○す
ホメロスとギリシャはよく出てくるんだが
複数形なのがポイント
ホモサピより先に宇宙文明に到達した一部のネアンデルタール人でしょ
ユダヤ人が不甲斐ないからw
だからユダヤ人が作った神はユダヤ人を叱ってばっかり
あの手の古典は複数の作者がいて、みんなで二次創作して出来たアンソロジーみたいなもんじゃないの?
あんま一貫性があると思えんのよね。
洪水から救おうとしたのがエンキ神
旧約聖書だとこのへんが一人の神の仕業になっている。
たぶん信者的には同じはず
ただ、民族神でしかないヤハウェを持ち上げるために、初期は周辺地域の神話を拝借
そしてヤハウェこそユダヤ民族の真の王であるという考え方中心の旧約
(ただしこれはユダヤ特有のものではなく、オリエントの都市国家はだいたい神が真の王であり、戦争は神々の戦いの現れ)
それからイエスを中心にヤハウェは全人類の神であり王であるという考え方の新約
王は神から信託されて都市や民族を統治してるわけだよね
古バビロニアでは春分の日の次の最初の満月に毎年信託を更新
これが契約のもと
太陽神だから同じと位置づけたのと似てる
インド神話のヴァルナとアメノミナカヌシを同一視するのとも同じかな。
たしか水天宮ってそういう考えでまつってるよね。
旧約では直接関わる存在を神とし
新約ではその向こう側に居る直接関わる事のない存在が神
神なんて本当は居なくって、
内在的なものって、もう少しで言いそうなあたり。
新約の神=ミスラ、契約の神、太陽神
古代イスラエル(ユダ王国)の神 = どこにでもいる自然神・民族の神・・・エホバA
↓
バビロン捕囚など、辛い目に合う
↓
徐々に一神教の性質を帯びて、善性オンリーの絶対神に・・・エホバB
キリスト教誕生&新約聖書で”神”を新たに独自解釈 ・・・エホバC
イスラーム誕生 「神はもっと寛大や」 ・・・エホバD
中世期、キリスト拡大にともない、土着の信仰を吸収&
とくにルネッサンス以降の異教復活でゼウスと習合? ・・・エホバE
あってる?
自分も概ねその考えに同意。
他人も同じように感じていることがわかってよかった。
おそらくモーセのモデルとなった人はいたんだろうな
エジプトで迫害されてたってのもマジなんだろうが
その時点で既に唯一神として完成してたってのは後付けじゃないかな?
カナンの地にたどりついてしばらくは他の土着神(ウガリット神話、バビロニア神話)あたりと
共存…もとい勢力を競ってたはずだから
それら異教の神を信じるユダヤ人がでちゃってYHVHがお怒りになって、
その罰でユダヤ人迫害されたって聖書にもある。
どこかで最古の一神教といわれるゾロアスター教の影響をうけたんだろうな
地理的にも近いし
>>44
エジプトで迫害されてたかどうかはわからん
もともとユダヤ人は遊牧民族由来の商人部族の要素が強い
最初に獲得した土地も購入してる
だからエジプトでもうまく商売してたかもしれん
ただエジプトでも政変が多かった時期に
エジプトからカナンにやってきたとされてるから何かあったのかも分からないが
エジプト出た後は明らかに武装しているが
当時の商人は基本的に武装していた事が当時の記録で分かってる
ギリシア・ローマで培われたのだろう 、
近代的な常識感覚・ヒューマニズムが強く感じられる。
だから、作り物くさいけど、やはりルネサンスや市民革命すら、やはりもたらし得たのだろう。キリスト教は、庶民にまで、ギリシア・ローマのヒューマニズムをもたらした。ちょっとチート過ぎる。羨ましい。
わりと後発の宗教だから、現代的かもね
魔女狩り、宗教裁判、十字軍の虐○、免罪符
めっちゃ頑迷だし呪術的じゃないか
現代的=いいこと、みたいな進歩史観的捉え方も欧米人の側の主張する見方にすぎないし
ルネサンスはむしろキリスト教的な価値観を転換するムーブメントであり
カトリック教会が腐敗して、キリスト教の支配が弱まったから起きたもの
キリスト教は中世の暗黒時代もたらして、人間の本能に根ざした精神のありようを捻じ曲げただけ
>>46
なんかこう、ホラ、聖書そのものを読むと「優しい事されたら、嬉しいでしょ」的な現代的な感覚が肯定されとるなって。
そういった感じ方って、人類としてある時期に成熟したものなのかなっていう個人的アイデアを述べたかった。
つまり、1万年前くらいから、人類社会では王朝が盛衰を繰り返して来たけど八千年目すなわち2000年くらい前から
共通了解として、ようやく「優しい事されたら、嬉しいでしょ」的な現代的な常識感覚が、集団レベルで無意識レベルで
「やっぱこれが基本でしょ」って、地位の上下や立場の相違を超えて、頭のある奴はみなそう思うようになったんじゃないかと。
それが人類の頭に定着した記念碑が、キリスト教なんじゃないかという個人的アイデア。でもみんな一様にそれがこの世界の基本線とする事は不可能だと感じていた。
そこに登場したのが、無力をさらけ出し自己犠牲の方法を実践したイエス。
「神」を、人間の凄みのある利他的行為が巻き起こす感銘を上昇気流として、下からの上の方向性で逆定義しちゃうアイデア。
…でもまあ、自分は今いろいろ勉強がこれからという初学者なんで、いろいろまだうまく言葉では説明できんわ。
キリスト教は権威化・形骸化したユダヤ教に対して出てきたイエスによる改革ユダヤ教・ユダヤ教革命派だからね
しかしイエスがタヒに代を重ねると改革派だったキリスト教も権威化・形骸化していった
そうなるとキリスト教会も絶対化を強いるし富の蓄積を図るし神の名の下に十字軍という…
なにをいってんだこいつ
そんなん別に現代的な感覚でも基本でもねえよ
王朝の盛衰と何の関係あるのか分からないし
世のため人の為、的な感覚は古今東西どの宗教、どの神話にも盛り込まれてるベタなお説教だよ
第一キリスト教もユダヤ教もそういったもんの流れを汲んだものにすぎない
それでも足ひっぱり合うのが人間であり、キリスト教の登場以降の方が戦争も王朝の盛衰も激しいよ
そんなに利他が好きならイスラム教に改宗したら?
利他が義務になってるからさ
>王朝の盛衰
いやそこは重要じゃない。
言いたい事はそこじゃない。
一番言いたい事は、
「仏教が生まれたあたりからキリスト教が成立したあたりで、人類は"古代的コモンセンス"から"近代的コモンセンス"に移行した」
んじゃねってこと(何言ってんだコイツ)。
いやすまない、自分でも何言ってんだかわかんない。
でも何となくそう思うわけよ。
「神様に生きたまま内臓食われても幸せ!!」
という感覚が当たり前な段階から…
あ、分かったわ。今わかった。
要は、教育を受けた中流階級の比率が増えた地域から、
現代的な感覚の宗教が生まれたというだけか。キリスト教は広く見てローマ帝国圏の産物というわけか。自己解決しました。
俺が思うにそういう感覚は新たに捏造されたものではなくて人間のうちに内在している原理としての利他性や調和を概念として発見した
というのがより正確なんじゃないかな?
愛という言葉が示すものは愛という言葉が産み出される前から存在したけど、それが言語化・概念化されるまでには意識の表層に登らなかった的な
ローマ帝国において原始キリスト教はユダヤ教の一分派とみなされていたし
国教になった時点でユダヤ教の一派とは見なされてない
原始キリスト教とテオドシウス帝の頃のキリスト教を一緒にするのもどうかと
というのは普通に宗教史や文化史において大きなパラダイムシフトだと思うんだけどどう思う?
哲学者キリストという本があるんだけど愛の神の下での絶対的平等という概念から人権思想や平等思想が産まれた、とあるのだけど
現代にも大きく影響してると思う
>>53
昨日から、新訳(新約じゃなくて)の『ヘーゲルからニーチェ』を読みながら、
19世紀にキリスト教精神がどう変化したかを考えてるだけど、自分のアイデアが
まさにヘーゲルの考え方にドンピシャリだったわ。
いわく、人類は人類として集団レベル集合意識を持っていると仮定すると、
その集合意識は歴史的にだんだんと人間的・民主的・近代的に発展してきたと
見ることができると。そして彼曰くキリスト教はその革命的な出来事だったと。
いやあ、それにしても今評判になってるけど、昨年暮れに出たばかりの
カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェ』岩波書店の新訳は
めちゃ読みやすい訳だわ。SFも最近新訳でよんでるけど、訳って大事だわ。
普通の新書感覚で読めるわ。
教会の歴史を見れば
平等や人権とは真逆であることが分かる
名目上は「愛の神」だの「許しの神」だのになってるけどさ
最初から今に至るまで最強の軍神(ただし勝利ではなく戦火を招く)だよ
アッラーは本来違う神(月の神)という説があるらしいから
最近は名義を貸す商売してるのかもね
金儲けが得意のユダヤ人の神だしね
愛とか許しは中世以降のキリスト教の解釈でしょ
ユダヤ的にはかなり昔から怒りの神だよ
闘争のなくならない世界を体現する要素か
人間イエスのキャパシティの限界
改革派止まりで、全く新しい宗教を起こすことは出来なかった
当然、旧約・新約を混ぜ合わせたキリスト教は、矛盾だらけのいびつな奇形児
本来ユダヤ教の真面目な信仰者で、権威化・形骸化してしまったユダヤ教を疑問視し、改革に乗り出したのがイエス
ユダヤ民族のルサンチマンの集合体たるヤーウェの本質を理解出来なかった
改革自体が矛盾だらけで、結局破綻した
ユダヤ教徒の神はイエス・キリストなんて地上におくってないし、
キリスト教徒の神はムハマンドを預言者として立ててないのだから、
「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は同一でない」でFA。
ルーツが同じだから似てるけど、
それぞれの教義を尊重すると両立できないから最終的には「別物」。
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