昔の中国が先に火薬を精製するほど火器技術の最先端を走っていたのに、なぜアヘン戦争あたりではヨーロッパに負けてしまったの?
その上で花火や爆竹のように平和利用するばかりでなく、
金属銃砲、手榴弾、竹製火炎放射器、
多連装ロケットランチャー、多段式ロケット弾、多銃身連射銃、
などを先駆けて発明したのに
明朝末期には宣教師の軍事顧問に長距離砲の鋳造を依頼し、
清代では完全に欧州の技術革新に凌駕される一方。
アヘン戦争では遠路遥々やってきた
イギリス東洋艦隊のワンサイドゲーム。
中国人の哀しみに誰か答えてやってくれ。
阿片戦争の敗北は、単に火器技術の差によるものとは言えないな。
究極の理由は大陸の西にあるか東にあるかと
海岸線の複雑さの違い
中国にとっての敵の騎馬民族は高度な火器じゃなくても対応できてたとか。
遊牧民の方はいっつも同じ戦法で攻めて来るからねえ。
受けて立つ側も進歩がなくなってしまう。
>>6
それはあるかもしれんね。
朝鮮の役までまともな銃火器をもった外国軍と戦ったことがなかったから
火縄銃は半世紀前に伝来してたけど銃身が従来の青銅製のままずっと使ってて
日本の鉄砲隊にアウトレンジされたり。
14世紀ごろはまだあまりヨーロッパの火器と技術格差がないよね。
15世紀中にだいぶ追い抜かれたんだな。
その後に進む方向性を間違った。
見つけたんだよね。
まぁ効果はかなりあったみたいだけど
古代中国の全ての文化や科学技術は漢人によって発明、周りの遊牧民族は何千年を通して文明に対して○戮や破壊しかしてない。
鴉片戦争の時、漢人の文化、科学の発展を圧制してきた清の満州人はイギリスに対しようやく対抗しようとしたら、ほぼ300年前の兵器や戦法しかなかったから、そういう結果は当然。
しかも、根性もなくて、大した戦闘もしてないまま失敗を認めたなんて、あんなに馬○で弱そうなチャイナを見たら、さすがイギリス人も唖然!何千年の威名も一瞬に潰れちゃった。
銃の成熟した技術が大きな発展を遂げたのは大体明の滅亡の何十年後という説もある。
それによれば、もし明はただ数十年続けられれば、もう自分の高度技術を使って野蛮民族の侵略を防ぐことができるような時代に入ってるから、
たどえ当時の漢人朝廷(明であろう他の新しい農民政権であろう)はどんなに混乱であっても、原始奴隷社会にいる満州人にチャンスを与えることはないでしょう。
それはなかったら、鴉片戦争なんか失敗も現れないでしょう、なんていっても、あらゆる面でずっと世界トップクラスの超大国だもん。
そうだったら、今の多くの中国人の奴隷根性もあるわけがないし、今みたいに裕福でないのも絶対ありえないよなぁ。
それにプラスして、明軍の統率などの内部的な事情があるんだろうな
まあ、強力な火器があった方が有利な面があるけども、十分戦術でカバーできたのだろう
本当に、古来の騎馬戦術と火器の差が明確になったのは>>9の言うように
もっと後の時代になってからだったのかな。
ヨーロッパは適度な大きさの国が並立してたから、政治権力からの市場の独立性が高かった
つまり市場原理が働きやすいわけだ
さらに中規模の国が多数あるので紛争が絶えず、どっかで開発された新技術も
すぐに導入しないと負けちゃうからよく広まった
一文化圏一大国みたいな中国だと
政治権力が強いので政府が抑圧すると産業自体が停滞する
製鉄業の隆盛と衰退がその典型
戦国時代、つまり競争がないとね。
武器なんてなかなか発達しないと思う。
中国は例えば明だと、北方の遊牧民か、
沿岸部の漁民か、南方の少数民族ぐらいしか戦う相手がいなかったからね。
金と南宋のような形になっていたら、火器技術は発達していたかもな
>>16
南京にできた南明政権がもっとまともだったらなあw
まあ、明朝自体腐り切っていて、もう天命が尽きていたんだろう。
明朝はどうも陰気だし、
鄭成功が江南に政権樹立なんて形の方がいいな。
無理だろうけど。
明軍は火器を有効に利用できなかったのかな
日暮れ時に奇襲をかけて火器の有効性を無効化したり、
火器に対抗するために兵の半数を下馬させて先行させたり、
火器を展開する際に使う障害物を捨てて急行した敵を叩いたりしてるな
あと射撃を開始した際に風が起こって明軍が煙に巻かれ、
その間に騎兵が○到して蹴散らしたなんてこともある
日清戦争の時も清側の武器の方が最新式だった
>>26
定遠・鎮遠も、当時の日本のどの戦艦よりも立派だったしな。
「戦争は武器だけで決まるもんではない」っていう
当たり前のことは、この一事からしても分かる。
まぁ、かと言って二次大戦中の日本軍みたいに、武装面をほとんど
無視しだすのは相当考え物(というか問題外)ではあるんだが……。
もとでタヒんだんじゃなかったけ。
サルフの戦いの7年後、快進撃を続け、勢いに乗るヌルハチは、
明本土への攻撃を目論み、山海関を目指して兵を進めるが、
その手前の寧遠城で、名将袁崇煥率いる明軍のポルトガル製の大砲の砲撃を受けて大敗を喫し、
ヌルハチも砲撃で負傷し、その怪我が原因でタヒ亡。
でも明の崇禎帝は救国の英雄とも言えるこの袁崇煥を冤罪で処刑してしまいましたとさ。
中塚明「日清戦争の研究」より
装備の点でも、日本軍が日本人の体格に適した軽快な村田銃(一八八四年村田砲兵中佐によって改良されたもの)
で統一されていたのに対して、清国軍の兵器は種類きわめて雑然とし、いちじるしい場合には一営(部隊の単位)中でも、
数種を混用する有様であった。清国軍の小銃の大部分をしめたのはモーゼル銃であったが、その他にもレミントン・グラー・
スナイドルなどの小銃がまじり、さらに刀・槍・旗・幟などをもつだけのものもあって、戦闘員五〇〇名の一営で、実際に
銃をもつものは、約三〇〇にすぎないという状況であった。
↑モーゼル使ってたのね
大砲っぽいものはあったようだけど、
後世のものと比べたら、かなり劣るものだろうね。
少なくとも戦場に革命的な影響を与えたわけでもないようだし。
純ギリシャ人、イタリア人、華夏人は世界中の優れた民族とヨーロッパ
1453年のコンスタンティノープル陥落と共にその秘密の歴史に埋もれてしまった。
いろいろ推測されてはいるが、永遠に証明する手段はない。
ウルバン砲なる巨大大砲を使ったけど、砲丸に石を使ったらしい。
攻略にそれほど貢献したわけではない。
ただ、ひどく印象的だったために、欧州諸国に脅威と受け止められ、
欧州各国での火器の発達を促すこととなった。
遊牧民に効果の無い技術が発達する訳が無い。
密集した歩兵同士の戦い、攻城戦というものは、
中国では政権崩壊時の内戦の時に起こり得る可能性が高いだろうけど、
そう頻繁にあるものじゃない。
武器として定着するには、戦う機会が定期的にないと。
艦対艦、地対艦では大砲が主役だし、海を制することが国の最重要課題だった
そういうのが鎖国した明朝には無縁だった、というのもひとつの要因と思うよ
鎖国とほとんど正反対の政策を採っていたとは思うけど、
火器はどう捉えられていたんだろう。
やはり遊牧民が建てた国だから、
結局火器は馴染まなかったんじゃ。
南宋を滅ぼし、周辺への遠征も一段落したら、
もう用はないって感じで。
これは水をかければ火の勢いが増すというもので、ギリシャ火薬と同類のようだ。
猛火油櫃という、今でいう火炎放射器のプロトタイプができあがったのは、10世紀の頃らしいので
だいたい年代は合うと思う。
ただし、耶律阿保機のこのエピソードでは、その新兵器に喜ぶ阿保機を、皇后の述律氏(ユリド)が
たしなめるという話なのだけど。
呉王って楊行密?
うんにゃ。 《遼史》太祖淳欽皇后述律氏では、「呉主、李?」となってる。
《遼史》のソースは漢籍電子文獻で、名前が「・」なので誰のことかさっぱりw
ちなみに、太祖がタヒ去したのは西暦926年なんで、李昪のことではないと思う…
そこは中華書局本では「呉主李昪獻猛火油」なんだな。
初期の火薬はせいぜい「激しく燃える薬品」程度のものだったらしい。
それがもっと進歩して爆発力で物を発射したり破壊したりできるほどになったのが
宋代ということではないのか?
「激しく燃える薬品」の段階ではギリシア火とさほど変わらないのではないか。
仙丹は、その方士にとっては大事な商売品だろうから、
そうおいそれとは製法を公開せず、秘伝にしようとする。
だからいつできたのかは記録に残りにくい。
ルネサンス以降の科学者に発明品をパクられて脂肪。
中国の悲劇は儒教だよなぁ…。
秦朝統一が成し遂げられず群雄割拠の時代が続けば
平和な時代が到来しないと採用不可能ともいうべき儒家思想は打ち捨てられ
かわりに実用性が高くまた組織力が強い墨家集団・思想が中国思想の主流になったのではなかろうか?
となれば墨家思想採用国では防衛戦争の為の兵器開発が率先して行われるようになって
それに対抗する形で敵国では攻城兵器が開発される…。
一部チラ裏になってしまったが、この辺気になるよなぁ…。
それよく言われるけど、あんなアンバランスな状態じゃどちらにせよ楚か秦によって
統一されてたと思うよ。
>>64
仮に領土の広さだけ見ても、それぞれの後背地の大きさ考えたら、
中原はあまり開発余地はないだろう。
秦は蜀を、楚は江南を押さえるだろうから、
中原諸国は分裂したままだとじりじり差をつけられる一方。
>>66
ただ、あの当時、自己の正当性を求めるため、どの国も中原に目が向いていた。
中原の各王朝も、大義名分を作り宣伝するのに血道をあげていた。
人が集中するということは、農地開発の余地はなくす半面、経済が活性化しやすい。
実際、秦の統一頃になると、経済流通の便から統一が望まれた、という側面が強い。
また、人が少なく広大な領域を得ても、それは空洞化となり、弱点ともなりかねない。
江南開発なんて、実際にはかなり後になっての話だし、この時点ではなんとも。
秦の巴蜀領域というのは、その意味では結構な強みだったのじゃないか、とは思うが
それは一要因であって、すべてというわけではないというあたりを含んでいたほうがいい気もする。
どっちにせよ、結果的に「単独で対抗できなかった」というのは、そうなんだけどね。
ただ後代、中原はひとつでも、周辺独立国とようやく拮抗していた、という時代もある。
江南開発の賜物だが、留意すべき事柄のようにも思う。
漏れがガキの頃の中学校の先生(社会科)は、
ヨーロッパではだんだん個人の自由というものが確立されたのに、
東洋の封建制ではそれが無かったということ。
西洋の封建制・・・封建領主から逃れられる
東洋の封建制・・・封建領主から逃れなれない
いかにも典型的な結論先にありきの主張だな
そもそも世界を「東洋」と「西洋」に二分して考えることからしてすでにナンセンスだ。
中国じゃないのかね?
そんなに長いわけではないしな。
まあ、世界史ってのは、
ヨーロッパ史 + おまけの他の地域史 だしな。
そう言われるとステレオタイプ的に鄭和を推したくなる俺ガイル
何故銃火器で待ち受けるイギリス軍に騎馬で突撃して行ったのか
統一秦が度量衡や文字の統一を推し進めたということは裏を返せば戦国末期には
各国で微妙に異なるものを使用していたという事
この状態で3~5世代も経過すればもはや違う国となり、分裂してるほうが状態で
統一してるほうが異常ということに
上記のような小国乱立状態のままであれば緩やかな緊張状態のもとで法家や
墨家のような実学重視系が発展しやすくなる素地となりこのスレの主旨である火器
火薬といった軍事科学技術面での発展も史実よりは余程容易であったのではないだろうか
いやまあ全てが楽観的過ぎるのはわかってはいますw
少なくとも記録上は800年くらい度量衡が滅茶苦茶だったんだが?
「拡大」を支えるのは技術だけじゃなくて思想・信仰の点が大きい。
キリスト教で自分たちの正義を担保されていたからこそどこまでもどこまでも拡大していこうと思えた。
イスラム教も、教勢の拡大と共に帝国の版図も拡大していったしなあ。
蒸気機関の発明から、科学の発達は早すぎるのではないか?
清は確かに遅れていたが、それは日本やインドも同じ。
西洋の方が発達する速度は速かったのはある
当時の日本の鉄砲は東南アジア経由で入ってきた鉄砲の改良品だよね
明の鉄砲はどこ経由だったんだろう、時代的に海禁解除ギリギリあたりだと思うんだけれど
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1178026200/
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コメント一覧
まー文明や発明ってその時代時代の民族によりなされたものだけど、中国の場合その民族自体が継続されず絶えず塗り替わってきたからら、その時の文明は奪えても支配民族が変わって、その文明の基礎がなく次に繋げることができず絶えず様変わりしてきたんだから、歴史を紡ぐということは無理なんだよね
賄賂
中国人は今も昔も金に汚いから、そのような自滅するような事になってるんでしょw