古代インドで最大の繁栄を誇ったムガール帝国とは?皆で熱く語ろう
>>2
短命政権が続いたデリースルタン諸王朝のあと、ムガール帝国も2代目フマーユーンで崩壊して、同じ流れになりかけたんだが
あの状況からカムバックして王朝を再興した例など、世界的にも稀な奇跡だろう
日本史に例えれば、大坂夏の陣に敗れた豊臣秀頼が明に亡命して、15年後に戻ってきて徳川家光を打倒し、豊臣の世を再興するのに相当する
その場合徳川幕府がスール朝に相当するわけだが、スール朝も二代目三代目がしっかりしてれば
もっと長く続いたのかも!?
台湾に逃げた鄭成功や蒋介石が大陸反攻実現したようなもんか?
しかも、日本人を大勢ひきつれて大陸に乗り込んだため、シナの日本化が一気に進むという
国の由来としてはモンゴルのハーン国やし
亡命生活の間に、すっかりペルシャ文化に染まったフマーユーン
大勢のペルシャ文化人を引き連れてデリーに帰還したため、その後のインドは、ペルシャ文化の影響を強く受けて大きく変化した
ヒンズー教を弾圧したしインドでも人気が無い。
インド文化に傾倒してヒンドゥー教との融和を図った第3代アクバル帝は、インドで評価が高い
逆に、狂信的なイスラーム信者で、ヒンドゥー教を弾圧した第6代アウラングゼーブは、インドでは評判が悪いが、パキスタンでは高く評価されている
版図だけでいえばインド史上2~3番目まで拡大させたはずだが、財政破綻と憎悪で内部はボロボロな状態に
基本戦略が間違っているのに中途半端に有能で邁進できてしまうと国を滅ぼすっていう一例だな
描かれていたりするけど、イスラーム的にはアウトじゃね?
それ以前に、ペルシャで人物画のミニアチュールが発達した時点でイスラム的には微妙
ペルシャ細密画は、ササン朝ペルシャの美術品の流れを受けつぐ細密画(ミニアチュール)のこと。そもそもは9世紀ごろに、ギリシャの科学文献における挿絵として始まったと言われています。
ペルシャは13世紀ごろにモンゴル人の侵略をうけたため中国美術が流れ込み、東洋美術の影響を大きく受けて、現在のペルシャ細密画の原型ができあがったと考えられています。
成立の段階から、すでに多様な民族の芸術観や美術上の技術などが複雑に絡み合ってできた美術品です。
イスラム教の偶像崇拝禁止は、宗教的には正しい方針なのだろうが、
イスラム圏の彫刻や絵画の発展を止めてしまったのは深刻なマイナス面
ササン朝以来の細密画の伝統を持つペルシャ美術を救ったのは、中国とインドだった
アジアの三大帝王 近世以降
アクバル大帝
アッバース大帝
清の康熙帝
明治天皇は?
昭和天皇は?
スレイマン大帝は?
たしかに偉大な帝王だが、他の3人と並べるほどではなかろう
>>42
ビザンチウム済みなのでヨーロッパの偉大な皇帝
後にヨーロッパの病人扱いされるオスマン帝国だしな
フマーユーンナーマもなかなか興味深い内容のようだね
チャガタイ語原典でバーブル自著のバーブルナーマに対して、
ペルシア語原典でフマーユーン異母妹グルバダン・ベグム著のフマーユーンナーマってことだったか
最後の100年間は似たような状況だった。
2代目皇帝の亡命は観応の擾乱、アウラングゼーブは足利義教ってとこか。
>>22
観応の擾乱みたいな兄弟間戦争は、ムガール帝国では代替わりのたびに毎度オナジミだ
しかも、足利尊氏と足利直義みたいに、微妙に遠慮しあうような優しい関係ではない
アウランゼーブは、兄の首を、幽閉中の父に送り付けて、父はショックで気絶した
アウランゼーブタヒ去後のムガール帝国は、形だけは存続していたが、事実上の崩壊
日本史でいえば、応仁の乱のあとの室町幕府
中国史でいえば、安史の乱のあとの唐朝
みたいな乱世に突入した
アウラングゼーブタヒ去後は帝国各地で反乱が頻発し続けた。これに加えて帝国は代替わりごとに後継者争いを起こし、
遂にはズルフィカール・ハーンやサイイド兄弟といった臣下によって帝位が決定されるようになる。
1724年には宰相であったカマルッディーン・ハーンが、デカン高原で独立しニザーム王国を建国。以後、帝国の地方長官が事実上独立し、皇帝はその形式的な上位者にすぎなくなっていく。
最早、帝国は分裂状態となっていたが、更に、南からはアウラングゼーブ時代には抑えられていたマラーター王国が伸長してくる。
王国は各地の領主とマラーター同盟を形成し、北インドはおろか首都デリーを窺う程に勢力を伸ばした。
西からはナーディル・シャーがサファヴィー朝に代わってアフシャール朝を建てて、ムガル帝国領に侵攻し、
帝国はインダス川以西の割譲を強いられた。これ以後、帝国の動向は北インドの有力者の動向に左右され続ける。
あるいは初代と二代目に倣って一度きれいに滅亡したほうがよかったな
幼少期からの師匠か侍従か誰かの教育方針の違いなのか、
身内に対する思春期頃からの警戒や反発の表れなのか、
対立党派間の権力争いの御輿にされて気が付いたら退くに退けなくなってたってことなのか
>>28
父のシャージャハーンは、タージ・マハルに祀られている王妃ムムターズを深く寵愛していたため、ムムターズが産んだ子供のダーラーシコーを溺愛していた
これに対するアウラングゼーブの反感は大きかったと言われている
アウラングゼーブによって塔に幽閉され、タージ・マハルを見ながら幸せな日々の思い出に浸っていたシャージャハーンは、ダーラーシコーの首を送りつけられ、ショックで気絶した
>>28
いろいろあっただろうが、代替わりのたびに兄弟がそれぞれの軍隊を動員して戦争になるのは、遊牧系の帝国では毎度オナジミのお約束だからなあ
ダーラーシコーとアウラングゼーブの兄弟対立に巻き込まれて悲劇的な晩年を迎えた父のシャージャハーンも、かつては親兄弟にかなり酷いことをやってきた
>>30
インドで半島といったらグジャラート州
カーティヤーワール半島が州の大半を占める
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Gujarat_Gulfs.jpg/300px-Gujarat_Gulfs.jpg
息子のシャージャハーンにクーデターを起こされ、「奴は私の息子ではない」と宣言した先帝のジャハーンギールだったが
そのジャハーンギールもまた、父のアクバル大帝との仲の悪さは史上に有名
「よく、これで廃太子されなかったな」というようなエピソードが多い
恐ろしい拷問が中世のヨーロッパにあったな・・・
罪人の全身に塗るのは勿体ない。
アクバル大帝は、中国史に例えれば、漢化した北魏の孝文帝みたいなものか
イスラム帝国のスルタンなのに、妙にヒンドゥー化していた
そうだな
オスマン帝国をアジアとするなら、ロシア帝国なんかもっと微妙だ
せめて側近の言うとおりにしてりゃ
ヒンドゥーでは聖人あつかいされるアクバル大帝だが、イスラムでは評判が良くない
イスラムで高く評価される人物はアウラングゼーブ
歴代皇帝はイケメンばかりでドルジ顔はおらんかったんやねw
>>53
名前のない国って結構あるね
>>53
始祖バーブルは「ティムール帝国」と言ってたらしい
以後の皇帝は「グラーカーニー」などと呼んだが、これももともとティムール帝国の異名であり、意味は変わらない
帝国は何て読んでいたの?
>>68
バーブルも「グールカーニー」と言ってたんじゃないかな
正式名称は無かったようだ
モンゴル系とトルコ系って一応言語レベルでも違いは大きいんだけどな
同じアルタイ諸語に属すとは言え、モンゴル語とトルコ語はそれなりに違う部分も目立つ言語だ
なお、ムガル帝国の建国者バーブルはチャガタイ・トルコ語で自伝を書いてる辺り、確かにモンゴル系よりはトルコ系に近いと思われる
当時の中央アジアは基本的にはトルコ系が目立っていた世界だ
オスマン帝国と大清帝国は20世紀の初頭まで続いたのに、ムガール帝国の崩壊が早すぎたおかげで、インドは植民地になった
ヒンドゥー教徒との融和政策をやめてしまったアウラングゼーブの責任
たとえアウラングゼーブがいなくても遅かれ早かれインドはまた分裂したんじゃないかという気はする
その動きをアウラングゼーブが早めてしまったことは確かかもしれないが
ウマイヤ朝がイベリア半島に逃げて後ウマイヤ朝となったように、本当はムガル帝国も後ティムール帝国とでも呼ぶべきなのかもしれない
>>63
Wikipedia 「ティムール朝」によれば、まさにそんな感じ
・・・ティムール一代の征服により大版図を実現するが、そのタヒ後に息子たちによって帝国は分割されたため、急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。
これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。
ティムール朝を滅ぼしたウズベクのシャイバーニー朝は、サファヴィー朝イランに敗れて勢力が衰える。
ティムール朝の王族の少年バーブルは、イランの支援を得てサマルカンドを奪回し、一時的にティムール朝を復活させた。
しかし、勢いを取り戻したシャイバーニー朝にサマルカンドを逐われて苦難の時期を迎えた。
バーブルは南下してアフガニスタンのカブールを占領し、そこで再起を図る。
カブールを拠点としたバーブルは、なおもイランの支援を得てサマルカンドを奪回しようとするが、サマルカンドの住民はスンナ派だったため、シーア派のイランに反発されて、うまくいかなかった。
そんな中で、サファヴィー朝イランのイスマーイール1世の無敵騎馬軍団が、オスマン帝国の鉄砲隊に敗れるという大事件が起きる。
バーブルは、ついにサマルカンド奪回を断念し、自らも鉄砲隊を組織して、インド攻略に目を向けるようになった。
要は、ティムール帝国の王族たちは自らを「グールカーニー」と呼んだ。
ムガール帝国の王族たちも、自らを「グールカーニー」と呼んだ。
彼らにとって、自分たちがティムール帝国の後継者なのは当たり前の事実だった。
グールって大きいかな?
大王国?
>>72
(ジンギスカンの)「娘婿、その子孫」を意味する
つまり、ジンギスカンに由来する母系血統を誇っていた
実際のところ、帝国の歴史的な呼称としては、「後ティムール朝」でも、「グールカーニー朝」でも良かったんだろうけどな
それだけ、「ムガール帝国」が定着していたということだろう
ティムールはチャガタイトルコ人でトルコ化したモンゴル系で祖先はチンギス汗と同祖。
代々チャガタイ家から嫁をもらってるので女系でムガール皇帝にもチンギス汗の血は流れてる。
ムガール帝国の以前から、インドのスルタンはころころ替わってた
ムガール帝国も、バーブルの一代限りで潰れかけたが、2代目・3代目が奇跡の復活を遂げた
統一性に欠けるヒンズー教の小国家群のままでは
どのみちイギリスに各個撃破で征服されるわけだしな。
イチかバチかイスラムでインド統一を狙うのも悪くない。
そうだな
あれで全国統治に成功していたら、史上最高の皇帝だった
南部を平定してインド全国統一のエンドロールを見る一歩手前までいったんだよな
ほんに惜しいでアウラングゼーブはん
いまのインドよりも広大。
それは、清朝と同じだな
インド独立時にレコンキスタ出来たな
イスラム教徒が北インドを支配した時代は
あまりにも長いからデカン高原辺りが
ヒンズー主流国とイスラム主流国の
国境になってもおかしくない
イランのゾロアスター教徒よりは絶対数が多く
支配層も意外と改宗してなかったのか
>>83
逆に清は服属国の朝鮮とチベットを版図と認めるかどうかで版図が違ってくるよな
まあ、ムガール帝国が崩壊してから、英領インドになるまでの、ヒンドゥー勢力の時代もそれなりに長いからな
イスラム支配の期間は長くてもイランより
遥かに地元宗教勢力は強かったのですか
アウラングゼーブのタヒ後に直ちに巻き返し
帝国が解体する位
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1557065596/
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