【歴史】スペイン追放のユダヤ人、オスマン帝国を目指した訳…異教徒に寛大、オスマン帝国の強大化はレコンキスタのお陰?
オスマン帝国の最盛期は16世紀とされ、それを体現したのは、スレイマン1世(在位 1520~1566)であったとされます。スレイマン1世の時代のオスマン帝国についてはすでに連載第31回で述べたように、1529年にはハプスブルク帝国の帝都であるウィーンをあと少しで陥落させるまでに至るなど、ヨーロッパ人を震撼させたのです。
では、オスマン帝国はなぜそれほどまでの強国になれたのでしょうか。今回は謎を、ユダヤ人移民の存在に注目して探っていきたいと思います。
■ スペインを追放されたユダヤ人
1469年、イベリア半島に位置するカスティリャの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚しました。10年後の1479年には両国は統合してスペイン王国となり、同王国は2人によって共同統治されることになりました。そしてスペイン王国は1492年1月、イスラーム教国ナスル朝の最後の拠点グラナダを陥落させ、イスラーム勢力はイベリア半島から撤退します。これにより、キリスト教国家によるレコンキスタが達成されました。
長期間にわたり、スペインには、イスラーム教の信者であるムスリム、そしてキリスト教徒、さらにユダヤ教徒も住んでいました。イベリア半島はこの3つの宗教が混在する地域だったのですが、この時、ムスリムだけではなくユダヤ教徒もスペインから追放されたのです。スペインがカトリック国として知られるのは、そのためです。
ユダヤ人は、商業や金融に秀でていたばかりか、国家の財政についても大きな役割を果たしていたとされます。その彼らが追放され、いなくなってしまいました。このイベリア半島を追われて世界各地に散らばっていったユダヤ人をセファルディムと呼びます。
スペインの地を追われたユダヤ人は、いくつもの地域をさまよい、ヨーロッパ内部に定住していきます。そして、スペインを追放されたユダヤ人の最大の移住先となったのがオスマン帝国だったのです。
そこで発揮されたユダヤ人の商業力は、オスマン帝国発展の要因の一つになりました。
■ 移住を余儀なくされたユダヤ人
スペインから追放されたユダヤ人の数は、15万人から40万人くらいまでと、いくつかの説がありますが、およそ20万人というのが妥当な数だと言われています。いずれにしても相当な人数です。
その中には、スペインの隣国、イベリア半島の西端にあるポルトガルに逃れたユダヤ人もいました。ポルトガルは、当初、改宗しないユダヤ人に寛大な態度を取っていましたが、やがてスペイン以上に厳しい態度をとるようになります。さらに1536年になると、ユダヤ人を根絶やしにするために、異端審問が開始されます。その刑罰は大変過酷であり、改宗しないユダヤ人たちは、生きながら焼かれたと言われています。
こうしたことから、イベリア半島に残ったユダヤ人は、ユダヤ教からカトリックに改宗するしかありませんでした。
※省略
新世界に移住するユダヤ人もいました。彼らの多くは、表向きは別の信仰を持っているものの、現実にはユダヤ教を信じており、「隠れユダヤ人」(crypto Jews)といわれる人々でした。彼らがポルトガルの植民地のブラジルからニーウアムステルダム(現在のニューヨーク)に到着したのは1654年のことでした。これが、ニューヨークにおけるユダヤ人コミュニティの発祥とされます。
※省略
■ 異教徒に寛大だったオスマン帝国
現代のイスラーム教について、「他宗教に不寛容で戦闘的な宗教」というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、それはイスラーム教本来の特徴ではありません。本来、イスラーム教は他宗教に寛容で、中世のムスリムはキリスト教徒やユダヤ教徒と共存していました。
※省略
実際、16世紀にオスマン帝国の経済力が上昇した背景には、ユダヤ人の力がありました。彼らは地中海、ヨーロッパの商業ネットワークに通じていたばかりか、多くの言語を知っており、貿易商人として重要な役割を果たすことができたからです。また、オスマン帝国内の都市で、ギリシアの大都市テッサロニキに住むユダヤ人は、科学・技術に大きな貢献を果たしました。
さらにオスマン帝国のユダヤ人の中には、スルタンへの助言者として有力者になる人たちもいました。(続きはソース)
10/24(土) 6:01配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20201024-00062650-jbpressz-life
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20201024-00062650-jbpressz-000-1-view.jpg
昔の寛容なイスラムの話をされても・・・
今のイスラムは一番偏狭な宗教だよ
トルコ人は遅れて改宗したから、
アラブ人ほど原理主義的ではなくて
ある意味より寛容。
政教を分離した国を作れたのもその辺り。
今のエルドワンは原理主義へ舵を切ってるからどうなることやら。
現代のキリスト教原理主義の凶悪さ頑迷さも
これとさほど変わってないな
イスラム教徒のことを言えない
> 1529年にはハプスブルク帝国の帝都であるウィーンをあと
> 少しで陥落させるまでに至るなど、ヨーロッパ人を震撼させた
ハプスブルク
https://stat.ameba.jp/user_images/20200107/03/eggdonation/92/5e/j/o0750047314691945409.jpg
約650年もの歴史がある名門一家だけど
近親婚を繰り返してたから陥落までは時間の問題だったけどな
スレイマン二世の治世と、その息子のセリム二世の時代がオスマントルコの最盛期
16世紀後半まで地中海を完全に制圧し、マルセイユにオスマントルコの海軍が常駐してたくらいだから
17世紀になって新大陸にいち早く進出した西欧が、徐々にオスマントルコを追い上げてきた
オスマントルコは新大陸に辿り着かなかったからね
レパントの海戦で西欧に負けたのも大きい(これで地中海の制海権を喪失した)
オスマントルコの海軍提督である「赤髭」ことフズル・ハイレッディンの時代が、ヨーロッパが一番ビビってたころだろうね
ハプスブルグ家のカルロス五世やフェルナンド二世もトルコにビビってたし
ハプスブルグ家憎しのヴァロア家およびブルボン家はオスマンと通商協定結んでたし、
イタリア半島はずっとイタリア戦争の真っただ中でトルコに対抗できるような政治体制になかったし
カソリック教会も新教が台頭しててそれどころじゃなかったし
結局、16世紀まではオオスマントルコに対抗できるヨーロッパの国はなかったんだよ
>>1のように、ユダヤがトルコや中東に移住するのもわかる
ローマ末期から17世紀にはいるまでの1000年以上、
ヨーロッパはペルシャやトルコや中国よりも遅れた地域だったから
何故イタリアはトルコが一番強大だった時期に
イギリスやフランスやロシアのような強大な権力が出来なかったのだろうか?
むしろイタリアこそイギリスやフランスより
早く統一しないといけないはずだ
イスラム教徒の脅威が欧州のどこよりヤバい地域に住んでる自覚はあったはずだろうが???
イタリアの国土統一がグダグダのスペインより
何世紀も遅い謎
古代ペルシャが強大だった時期に
統一できなかった古代ギリシャに通じるところがあったのかも
トルコを含めオスマントルコ支配下のアラビア半島の国など多くの国はスンニ派で、
トルコと対抗していたペルシャ、つまり今のイランはほぼ唯一のシーア派の国
ついでに言えば、スンニ派のサウジアラビアはアラブ人で、
ペルシャを構成するイランはイラン人で、同じ中東でも全く別系統の民族
宗派と民族の違いも含めて両者は昔からとても仲悪いんだよ
トルコやサウジアラビアやエジプトが比較的アメリカと関係が良好だけど、
イランはアメリカととても仲が悪いのもそういう背景があったりする
イタリア統一は無理だった
当時イタリアは教皇領や複数の国家が乱立してる状態で、そもそも統一って概念が無かった
そういうイタリアに対してオーストリアのハプスブルグ家とフランスのヴァロア家、ブルボン家が介入し、支配権を狙って争ってた
その後スペインがハプスブルグ家となり、スペインが介入したり、もう無茶苦茶
んで、あまりにもフランスとオーストリアがイタリアでの戦争で金を使いすぎてようやく終わったけど、
長らく複数の外国勢力によって支配されたりしてたので、統一というコンセンサスは形成できなかった
その後も複数の公国や共和国が存在し、しかもオーストリアやフランスの影響を受け続け、
さらにナポレオン時代を経て独立戦争とかやったりして、
ようやくイタリア統一が成し遂げられたのは、ガリバルディとかが出た19世紀に入ってから
フランスはヴァロア家が長らく統治してたが、カトリーヌ・ド・メディティスの子供たちの代で断絶し、
ブルボン家がフランス王家を継承することになったのが16世紀
この16世紀という時代はカソリックとプロテスタントが本格的に対立し始めた時代で、
だけどサンパルテルミーの虐○などのプロテスタント系のユグノー教徒の弾圧で国内は大混乱してたし、
前述のイタリア戦争で大量の国費を浪費しまくってて、国家予算は火の車
フランス王家は伝統的に放漫財政する体質らしく、フランス革命が起きる18世紀終わりまで、
常に国家財政は赤字状態でとても強大な権力は持ち得なかった
強大な権力を持てたのは19世紀初頭のナポレオン時代になってから
ちなみに当時のヨーロッパは宗教的にはカソリックとプロテスタントの対立があり、
これはそのまま旧来の封建制度と近代資本主義を生み出す新興ブルジョアの対立に繋がってくる
政治的にはオーストリアとスペインのハプスブルグ家と、フランスのカペー家の流れを組むヴァロア家とブルボン家の対立が主軸になり、
これが100年近くも断続的に続いたイタリア戦争の要因になってた
ようするにイタリア戦争はハプスブルグ家対フランス王家の代理戦争の面もあった
そんな中イングランドは独自の動きをみせる
14~15世紀の英仏百年戦争でイングランドはフランスに戦争には負けたが、勝負には勝ったといえる
14世紀のころのヨーロッパでも最も裕福だった地域は、オランダおよびベルギーのフランドル地方
ここは毛織物産業とその流通をになるリテールおよび金融の中心地だった
フランドル地方の毛織物産業は、原材料の羊毛をイングランドから輸入し加工し世界中に売って儲けていたんだが、
英仏百年戦争のせいで英仏海峡間の原料輸入が不安定になり、
それを嫌ったフランドル地方の毛織物業社やリテーラーや金融家が羊毛の原料供給地イングランドに移住し始めたんだ
イングランドは島国でフランスに影響されずに海上ルートで羊毛を輸出できたからね
だから百年戦争が終わるころには、イングランドは毛織物の製造業、流通業、金融業のノウハウと資産を丸々手にしちゃった
ジャンヌダルクが頑張ったころには、もはやイングランドはフランスなどの大陸ヨーロッパに侵攻する利益なんか無くなってたんだ
こうしてイングランドはその後の大躍進を遂げるのに必要なノウハウの基礎を手に入れた
それまでのイングランドなんて、ヨーロッパの二流以下の僻地でしかなかったからね
でもこの毛織物産業と、それに伴う流通と金融で利益を上げ、16世紀になるころにはブルジョアは生まれ、
だから16世紀半ばにヘンリー八世(エリザベスの父)がカソリック教会と断絶して英国国教会を作っても、
英国のブルジョア層が支持してくれたので、なんの問題もなかったんだ
さらには17世紀、フランス革命に先駆けてピューリタン革命によって共和制民主主義国家が生まれた(1649年~60年)
財政難に苦しむフランスよりも150年も早く市民革命をやっちゃったくらいイングランドは進んでたんだよ
そのアルマダの戦いでスペインを破って海洋覇権を手に資、
18世紀以降後産業革命を成功させ、19世紀の後半まで世界帝国を手にしたんだ
このころイギリスはスペイン、ポルトガルに続いて新大陸に目を向けていたし、
大陸ヨーロッパから一定の距離を置く「栄誉ある孤立」という基本外交路線も定まってきてたので、
トルコみたいな遠い国なんかに関心を特に持ってなかったともいえる
でもまあ20世紀に入って第一次世界大戦で、オスマントルコ帝国の支配下の
アラビア半島を解放したのが、かの有名なアラビアのローレンス
オスマントルコ帝国は第一次世界大戦で消滅したが、
それを成し遂げたのがイングランドだったりする
古代エジプトも天皇家も近親相○を繰り返してきたのに潰れなかっただろ
異教徒に寛大?
コンスタンチノープル総主教を何度も処刑してるが?
ギリシャの反乱の混乱時だからね
良民である正教徒を迫害したわけじゃない
東ローマ帝国も、西ローマを見捨てたブルジョアが東方との通商交易に投資する目的で移住して建国したものだからね
軍事と土木というカエサル時代と変わらない経済戦略を見捨てた連中が作った通商金融国家が東ローマ
オスマン帝国時代もそれと同じ戦略を踏襲してる
イスタンブールって地政学的にみても、そういう国家戦略に向いてる都市だし
西欧の聖騎士団と同じような役割を担ってたイニチェリ(歩兵常備軍)なんかも、
通商と金融で稼いだ金で維持できた軍隊で、中世ヨーロッパにずっと軍事的脅威を与え続けた
ユダヤが中世にトルコやペルシャの移民したのも当たり前だよ
その割には 日本人は スペイン人が
好きなのは なぜだ?
サッカーでも優遇してるよなあ
なんでだろうな
スペインを訪れるアジア人の中で、日本人が断トツに多い
中国人が多いのかと思ったが、日本人が1番多いという統計が出てた
当時のスペインと今のスペインでは違うだろ
当時のスペインは世界トップレベルの国だったかもだがその後にイギリスやオランダとの
覇権争いに敗れてからは下がりまくりで今ではヨーロッパで下の方
観光やグルメ、サッカーが取り柄の国になっちまったw
宗教には寛容だったかもだがタバコには不寛容だったみたいで
タバコ吸ってるの見つかったら即処刑
外国の外交官は処刑はしないまでも重罰で喫煙が見つかったフランスの外交官は
鼻をそいだ上に「コイツ重罪人」とか書いた紙を張りつけて本国に送り返した
って昔のクイズダービーの問題に出てたな
改宗したユダヤ人も、拷問であることないこと白状させ、異端として○して財産を奪ったんだよ。
そもそも、異端審問所設立の目的がそれだったと言われる。
奪える財産があまりなかったせいかもしれない。
ヨーロッパで勢力を伸ばしたユダヤ商人のイメージを引き摺りすぎ
拷問して○して財産奪うのに比べたらずっと寛大。
ヒュッレム乙
アイビゲ萌え
オスマン帝国がなかったらプロテスタントはいまごろ消滅していた
興味があるので、それについて書かれた本とかページを教えてください。
キリスト教シオニズムに連なるカルヴァン派なら
支援しても嬉しいだろうが、反ユダヤ主義の
ルター派はあまり支援して欲しくないだろうな
同時のルター派は今の世俗化リベラル化した
不信心者の集まりじゃなくてガチだから
ユダヤ人としては嫌だなあ
スルタンの決定には逆らえないけどさ
『ユダヤ人と彼らの嘘について』の著者のマルチン・ルターに関しては、総統閣下も高く評価しています。
中央アジアから移住してきたチュルク系なので
ユダヤ人に免疫なかったし実利主義だから、ある意味当然。
しかし、現代分子生物学からいうと
ユダヤ教にこだわらなければ、イスラエル民族は
イエメンを中心にアラビア半島の主要民族なのも事実。
ムハンマドもサウド王家も遺伝子的にはイスラエル民族。
民族と人種を混同してるだろ
なりすましや騙りが多すぎるので
父系遺伝子を民族定義にしてる
出自が一緒なので
しかも、イスラム教もユダヤ教の分派で神はyhwhだし
問題はなかろう。
もそっと勉強しんさい
民族を形作っているのは受け継がれる同胞意識だけ
その主要な要素が信仰である場合は血筋など何も問題にはされない
そう単純化はできないよ。例えば現代でも、母親がユダヤ教徒であれば
自動的にユダヤ教徒になれるが、そうでない場合は結構大変なんだそうだ。
血の繋がりや、血が繋がってると言う信念は、民族の概念でも結構重要だと
思う。
異教徒であることに寛容とかそういう話ではなく改宗されると課税対象が減ってしまうのでむしろ改宗などせずに異教徒のまま税金払い続けて欲しいってのが本音だった
キリスト教しか認めない地域に比して寛容じゃん
ユダヤ人去った国衰える
波動理論?
ユダヤ人が移動してただけやん
イスラエル 28万人
トルコ 1万5千~2万2千
アメリカ 1万6千
カナダ 8千
最近では1600年代もどんぐりの背比べだったととらえる見方を支持する向きもある。
18世紀のモーツァルトだってトルコ行進曲を書いているぞ。
ヒトラーはキリスト教に反してるから無理。
>>72
エキゾチックだからじゃね。18世紀にはもはや西欧がトルコに征服される危険性はなくなってた。
モーツァルトは軍事の素人だから17世紀にどのように欧・土の軍事バランスが逆転したか知らんだろう。
コーランか剣か税金、この3つから選ぶ
トランプ大統領もユダヤには頭が上がらない
対する暴動が起きた時にはスルタン直属の兵隊の
イエニチェリが速やかに出動してユダヤ人を保護
したんだよな
キリスト教下のヨーロッパよりよほどユダヤ人は
暮らしやすかっただろな
まあね、今はモンティ・パイソンの傑作スケッチのおかげで
聞いただけで笑えるようになった
「スペイン宗教裁判」じゃないけれど(\ジャーン/)
かの旧教国の異端審問とかはガチだったっていうからなあ。
いや、情熱の国の灼熱の大地はこれでなかなかガチなんだよな。
スレではレコンキスタの話題が出ているが
同時代の大航海時代において西進を志したイスパニアの
コンキスタドールが新大陸、ヌエバエスパーニャらで
何を為したか、これはラス・カサス先生の報告を参照するまでもなく
相当にアレなところは、これは有名なところであるからなあ。
そしてそのイスパニア王国領であるフィリピンの総督に対し
「オデは太陽の子だから服属しる」と堂々書き送った豊臣秀吉
これもまた、なんていうか度胸があるなアw 怖いもの知らずというがwww
(しかしあの夜郎自大な降伏勧告はなんとなく共感性羞恥感情が発動するなw)
あの宗教はダブスタ
オスマン代表で出てきた外交使節がどう見ても北欧系の白人だったから
ヨーロッパ側がびっくりしたらしいね
もちろん全員キリスト教徒
スペインのユダヤ人だけでなく
中欧や北欧のキリスト教徒・ユダヤ教徒もオスマンにいっぱい亡命・移民してるらしい
敵はびびって逃げ出したという
戦わずして勝つのお手本だよね
スペインの異端審問=命はいらね、金を寄越せ! が基本じゃなかったか
犠牲者数はそれほどではなくて、魔女狩りもやる気出さなかったような
>異教徒に寛大だったオスマン帝国
スペインの長らく栄えた三宗教の都だってイスラムの緩い統治の上に成り立ってた
当時、世界の最先端だったバグダッドや欧州中の書物がスペインへ運ばれ、
アラブ人、ユダヤ人、スペイン人がアラビア語やラテン語などに翻訳し写本して再び欧州やイスラム諸国へ運んで行ったとか
レコンキスタの英雄エルシッドには友人知人にイスラム教徒がいた
スペイン側で戦った王侯貴族にも仲良しのイスラム教徒がいて、追放時に城を頼むと託されてたりする
なんだかんだでレコンキスタ完了まで長くかかった一因じゃないのか
アジアヨーロッパアフリカを繋ぐ要衝地に位置してるからな
豊かな分諸侯が乱立するけどまとめる事ができれば覇権国家化
今は宗教と民族合体して原理主義への道まっしぐら
普通だった。
初代大統領ワシントンは、先住民の絶滅を目指すと宣言してたし、
リンカーンの先住民対策は、強硬なものだった。
イスラム側から見れば「啓典の民」で親戚筋なので
それ以外の「異教徒」とは別格扱いになってる
逆にユダヤ教徒とキリスト教徒はイスラムが親戚筋であることをハナから認めてない
たぶん初期の十字軍でイスラム側のほうが人道的に振る舞ったというのも
その辺に関係ありそう
ユダヤ教徒から見れば勝手にうちの神様の息子名乗るやつ現れてそいつが今日その宗教できたり
うちの神様の最後にして最大の預言者なるものが勝手に生まれて布教するんだから
困ったというかうちの神様の名前使って詐欺しないでって感じだったんじゃないかと
思い巡らせたことはあったけど、オスマン帝国は想像したことがなかった
ちなみにコンスタンティノープル陥落にも関係してくるの?
>アレクサンドリア、バビロン、パルティアにはユダヤ人いるのかなと
それぞれ古代の最盛期にはユダヤ人はいた。特にヘレニズム時代~ローマ帝国時代のアレクサンドリアのユダヤ人人口は大きい。(70人訳聖書もアレクサンドリアで翻訳されたし、アレクサンドリアが早期に原始キリスト教の中心地の一つになるのもそのため。)
近代でも、WW2後のイスラエル建国までは、アレクサンドリアはたくさんユダヤ人がいた。
外国人には領事裁判権つまり治外法権を与えていた
国力が衰えてくると欧州諸国に付け込まれた
欧米は他のアジア諸国にも治外法権を押し付けた
日本は食い止めたが中国はズタズタにされた
(´・ω・`)
現代でも数学ができない民族は落ちぶれるよね
ジャップコロみたいにw
たしかに現代でもアメリカでユダヤ人が活躍しているのは皆の知るところでもある
ユダヤ人はやはり頭がいい民族なのだろうな
どう違うのだ?
イスラム圏を一つに纏めて
欧米白人キリスト教連合の世界支配を終わらせろ
1980年代にトルコからスペインへ家族で戻ってきた人だった。
トルコにいる数百年間、家族内ではずっとスペイン語を話していたらしい。
すごすぎるw
トルコに馴染んでしまったりはしないのか
ずっとスペインに帰りたいと思っていたのかな
悲願だったらしい。
なんでも「ユダヤの約束の地」がエルサレムと考える派とスペインである派に
分かれるとかなんとか。だからこの社長みたいなユダヤ人はけっこういるらしい。
1948年まで国もなかったし
頭が良すぎると居場所を失うんだよ
日本人だってそうだろ
✕日本人
○日本
日本もドイツみたいなもの
>>130
ユダヤ人も住む価値ないってわかったんだろうな
(個人の想像)
征服王メフメト二世の側近は皆身分低かったでしょ
奴隷的な立場から成り上がりとかなろう小説的なロマンがあるw
明でも宦官から成り上がるのはあったけど
インドに奴隷王朝ってあったでしょ
エジプトのマムルーク朝も訳せば奴隷朝だよね
国王の奴隷は王に直結してるから
宰相以上の権力を持ち得る
明の宦官も皇帝の奴隷で
皇帝の首を挿げ替えるほどの権力を振るった
これが聖書の預言の凄さ。
中国には多いのに
国が強大化するには都合が良いと云う側面があるのだろうね。
人としてどうかとは思う次第だが。
やってみたいけど、英語でもハードル高い
トルコ語なんて未知の世界
その後の20世紀の歴史を考えると納得できるものがある
ユダヤ人は土地が持てないから全員町人で金融関係多かったから勉強する習慣が代々身についているのが大きいと思う
今でもユダヤ人は教育熱心だしその中から学者になって成功する人も多くなるんじゃないかな
愛と自由を説いた反逆者みたいなもんだったからな
まぁスペインはこの後に勢いにのって大航海時代で南米を征服していくけど
ブラジルにもイエスキリストの像が立ってるからな
やっぱり像を立てないとな
まぁブラジルはポルトガルが征服したんだっけか
もちろん征服の仕方には問題があったようだが
コロンブスもかなり酷かったかw
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603795347/
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